電話
水木と二日続けてのフットサル、さらに土日も練習試合があるということで、金曜日の練習は若干軽めのものとなった。桜峰サッカー部のコーチである公太郎が今一番気にしているのは、選手達が疲労で怪我をすることらしい。小西の件もあって、若干だが敏感になっている部分があるのかもしれない。普段は冷血漢ぶってはいるが、案外そう言うところはしっかりしているのだ。
「……」
「……」
しゃ、しゃ、しゃ。シャーペンの芯がちびていく音が静かに聞こえる。現代国語の長文問題を一問解答していく毎に、声を出し辛くなっていくのを遠藤綾は感じていた。まさか、最も付き合いの深い友人である仲村あん子に対してこんなことを感じるようになるなんて、思ってもみなかった。二人きりの空間に居心地の悪さが転がっているのは、初めてのことだった。
「……」
ここは仲村の私室である。軽めに終わった練習の後、今からうちに遊びに来ませんかと誘われた。勉強も教えて欲しいし、久しぶりに一緒に夕飯を食べようよ、と。今晩、仲村の家族はそれぞれの都合で家にいないらしい。
「ふぅ。少し休憩しますか〜」
仲村がシャーペンを置いた。放り投げたに近いかもしれない。遠藤の前に置かれているグラスの減りを見て、ピッチャーの麦茶を注いでくれる。
「どこかわからないところとか、あった?」
無いだろうなとは思っていたが、間を持たせるために訊いた。だが、
「こことここ。二次関数は得意では無いですね〜」
仲村は教科書をこちらに見えるようにして広げた。少し難しい応用問題だったが、十分噛み砕いて教えてあげられるところだった。
だからだろうか、別に言わなくて良いことを口走ってしまった。
「なんか、最近……」
様子がおかしくない? そう言いかけて、喉元で無理やり変換した。
「困ってることとか、あったりする?」
だが結局らあまり意味合いは変わらなかった。遠藤は口下手なわけではないが、自身の人生で何かについて強い主張をしてきたことがなかった。それがこの言葉選びを難しくした。小さな後悔を覚えたが、
「ん〜」
笑顔とも困り顔とも取れない仲村の表情を見て、大きく踏み外したようではないことを理解した。
「まぁ、ちょっと」
「私に、何か出来ることある?」
再び問いかける。これは探すまでもなく出てきた言葉。相手が仲村だからではない。遠藤だからだ。仲村は、それが嬉しい。
「もちろんありますよ〜。だから呼んだんですから〜」
家に誰もいないのは幸運が生んだ口実。だが、そのことをわざわざ遠藤に隠す必要もない。仲村が遠慮なく全体重をかけて寄りかかれるのは遠藤だけなのだ。
「私は将来、何に成れば良いのでしょう〜?」
「……ん?」
構えたバットの反対方向からボールが飛んできて、遠藤が一瞬バグる。
「しょう、らい?」
「えぇ。そして、将来のために今何をすれば良いのでしょう〜?」
仲村の目は、とてもとても真剣だった。ならば当然、仲村の気持ちも本気である。
「……」
「綾さん?」
「ごめん、ちょっと……ちょっと待ってね」
「えぇ。もちろん」
「将来」。ティーンの抱える悩みとしては至極真っ当で、この上なくオーソドックスなものだろう。遠藤もこの手の相談を受けたことは何度もある。だが、だが、しかし。
「……それだけ?」
この返答は、真剣に悩んでいると言う相手へ返すものしては最低に数えられる一例だろう。だが、気遣い屋で友達想いの遠藤ですら、こういう形で返すしかなかった。
仲村がここ数日見せていた、あの危機感に侵食された表情の原因が、まさかこんなに「当たり前」のことだったとは思っていなかったのだ。何というか、もっとディープかつ繊細で、関係性の薄い者では踏み込めないような重い類いのものだと思っていた。少なくとも、サッカーに関するものではあるだろうと踏んでいた。
「……えぇと、もうちょっと詳しく聞かせてもらって良い?」
「ゆり子さんから聞いたんですよ〜。綾さんが私のことを心配してるって〜」
何故かちょっとモジモジしだす仲村。
「んん?」
「も〜。惚けないで下さいよ〜。何事もちょぉっと手を抜いてる私のことです〜。将来後悔しないかなって言ってくれていたのでしょう〜?」
「あ、あぁ。そんなことも言ったかな」
ことの始まりは、遠藤だった。何故か頬に両手を当てて身をクネらせる仲村。
「なので、私も少しばかり自分を振り返りまして〜。何か一つくらいはやりたいことを見つけた方が良いのかなぁって〜。ですが、いざ考えてみてもホントに無くって〜」
仲村と遠藤の意識の間には、熱帯雨林とシベリア平原くらいの温度差があった。
昨日一昨日のフットサルで見せた焦燥感いっぱいのプレーや、遠藤をここに連れてくるまでの鎮痛過ぎる面持ちは何だったのか。
「……」
「綾さん?」
遠藤、しばしの沈黙。そして、
「ふふ」
ふにゃりと笑った。
「なんか、アンらしいね」
本当に、本当に逞しい。仲村を心配する遠藤の気持ちは変わらないし、それが極端に的外れなお節介だとも思わない。だが、そう言う遠藤側のスタンスが笑えてくるほど、仲村の精神性はしなやかだった。心の底から安心できる。これほどまでに「信頼」できる仲間はきっと他にいない。
「別に、アンはそれで良いんじゃないかな。勝手に心配しといて言うのもおかしなことだけど」
一番重要なのは、仲村が仲村でいること。上品な笑みの裏側でべぇっと舌を出しているくらいが彼女には似合っている。遠藤が仲村を心配するのは、仲村の性格のせいではない。ただただ、遠藤の一番の友達が仲村だからだ。心配する必要などなくても、ただそれだけで無条件に心配するのだ。
「とりあえず、今は好きなことに打ち込めば良いと思う。何になるとかじゃなく、好きなことは何かから考えるのが良いんじゃない?」
遠藤がそう言うと、仲村は暖かそうに笑った。
「好きなこと、ですか〜」
もし、もしいつか仲村が躓いた時に、その手を取ってあげられる自分であろうと、遠藤は思った。
「うん。ごめんね、あんまり解決になってなくて」
「いえ。それで良いんだと伝えてくださるだけで、救われることもありますから〜」
結局のところ、仲村が欲しかったのは明確な答えなどではなく、そこに辿り着くためのエネルギーだった。
「……ちょっと癪ですけどね」
「ん?」
「いえ〜。なんでもありません〜。お兄さんに言われたことを思い出しまして〜」
「どうすればあのガキを抜けるか、だって?」
「はい〜」
「……」
「どうして黙るんですか〜」
うららかな金曜日。昼休み。仲村は楠田公太郎に電話をかけていた。通常時の彼女なら絶対にしないようなその行動は、限界まで切羽詰まったがゆえのものだった。
「とりあえず、なんで俺の電話番号知ってるか聞いていいか」
公太郎が精神の死んだテンポで言う。
「何故か酒井先輩が教えてくれたんです〜。『君にこれをプレゼントしよう。ふふ。ちなみに、君の今日のグッド陰タイムは昼休みだ』って〜」
公太郎には、グッド陰タイムとは何かと言う疑問に首を傾げる余裕もなかった。
「俺に個人情報保護法は適用されねぇのかな」
「質問に答えてくれないなら小西さんにもバラしますよ」
「……そりゃまた絶妙な嫌がらせだな」
心底嫌そーうな声でうめく公太郎。これならダメ押しはしなくて良いかな、仲村がそう考えていると、電話口の向こうから、カチ、という音がした。タバコに火をつけたらしい。僅かに間が開く。そして、
「ま、ムリだな」
「はぁ?」
「ムリムリ。君とあのガキとじゃ、単純な身体能力の差があり過ぎる。テクニック云々の問題じゃない。君が独力であれを突破するのは難しい。少なくとも、俺がここで何か言った程度で埋まるような差じゃないな」
ふはぁと煙を吐く音。副流煙を吸わされたわけでもないのに、仲村の胸が凍えるほど冷たくなった。
「諦めろと?」
突きつけられた現実に、身体が芯から震えた。今の自分には何もない。だからこうしてサッカーに縋りついたのに、それすらも意味がないものに変わるのか。
「スポーツってのは生まれ持った身体能力が全てだ。技術なんてものはそれを誤魔化すためか、もしくは天性の強者達の順位決めに使われる。あのガキは天性の強者で、君は少しセンスが良いだけの一般人。俺の見立てだがな」
こうまではっきり言葉にされるとむしろ清々しい。思わず泣き出してしまいそうな清々しさだった。すんすんと鼻をすする。
「俺も君と同じ一般人で、そして君より少しだけ長く生きてきた。努力が失望に変わり、やがて挫折に成長する過程を知ってる。だから、これからの君の未来がよく見えるぜ」
人通りの無い校舎裏。誰も見ていないその場所で、仲村は膝を抱えて小さくなった。数秒間の無言が風の音を受話器越しに届けた。
「何だ? 落ち込んでるのか?」
「……」
「随分と弱ってるみたいだな。意外だ」
「……酷い言い方しますね」
「俺は、君はもっと図太いと思っていたよ」
「そんなわけ無いじゃないですか。それに……」
何もそこまで言わなくても。そう恨み言を溢そうとして、
「だから、君に一つ良いことを教えてやろう」
その言葉で思いとどまった。
「良いこと?」
「良いことと言うか、世の中を少し好きになれる、世の中の腐った事実だよ」
「はぁ?」
シンプルに意味がわからなかった。とは言え、この男がいきなり意味不明なことを言い出すのはさほど珍しいことではない。それに、その話が不思議と胸に響くのもよくあることだったから、仲村は小さく期待した。
「知ってるか? あのガキ、中学は都会に出てプロチームのJr.ユースに入るそうだ。スカウトだよ、スカウト」
期待した自分が馬鹿だったか? 才能の無いお前とは違うとでも言いたいのだろうか。
「県の選抜チームで10番背負ってるんだ。そりゃ触手も伸びてくるだろう」
だから、それが何だと……
「でもな」
もう一度、煙を吐く音が聞こえてきた。この時、電話口の向こうで公太郎がニヤリと笑ったのが、仲村にもわかった。
「俺も県選抜の10番だったんだぜ。それも小5の頃からだ。もちろんプロの下部組織からの誘いもあった」
「え」
自慢、ではない。続く公太郎の言葉で自慢とは程遠いものだと理解した。
「だが見てみろよ? 今の俺はプロはおろか、大学サッカーすらやってない。三流大学で留年して、ダラダラと非生産的な生活を更新してる」
これは自慢などではない。自虐だ。
「子供の将来なんて誰にも予想できねぇもんだ。努力と成長は必ずしも比例しないし、才能なんて数値の測りようがないものを見極めるのは絶対に不可能だ」
そして、
「例えばだが、あのガキの身長は160センチを越えてる。だが、俺の経験上、小学生の時点でデカい奴ってのは中学で背が伸びないことがままある。もしあのガキが今の身長で大人になれば、プロになんてなれるはずがない。身体のことだけじゃないぞ。もしかしたら選手生命が絶たれる大怪我をするかもしれない。重い病気に罹るかもしれない。家庭の事情でサッカーを続けられなくなるかもしれない。才能とは全く関係の無い部分で強制的に夢が閉ざされるなんてことは、世の中にはよくあることなんだよ」
不条理な現実に対する冷ややかな嘲笑だった。それは、聞いていて悲しくなるような、一切ハッピーになれないような内容の話だった。
「ま、他所様の子供の未来を悪く言うのはあんまり良くない。この辺でやめとくが」
「あの」
「ん?」
「あなたの言っていること……何一つ、本当に何一つ良いことが無かったのですが。もしかしてただただ私を凹ませようとしてます?」
そうでないなら、前途ある若者への悪口か。いずれにしても、世の中を好きになるようなものではない。落ち込んだ今の仲村ですら、少しイライラしてくるくらいに酷いものだった。だが、公太郎はまた笑った。
「落ち着け。まだ続きがある」
「続き……?」
「話は戻るが、俺は小5の頃から県選抜の10番だった。中学時代もほぼ敵無しだった。全国でもな。つまりは、だ。俺の選手としての相対的なピークはそこだったんだよ」
ピーク。最も良い状態。それも、技術や身体能力、センスと言った主観的なものではなく、他者、他の選手と比べての相対評価の最高潮。
「世の中には、俺みたいなので溢れてる。けど、君も聞いたことはあるだろ。大学時代にスタンドで太鼓叩いてた選手が、名門インテルでキャプテンを務めるまでに至った話。高卒プータローの練習生から日本代表の不動のセンターバックにまで成り上がった選手の話。ユースチームのセレクションに落ちた中学生が、後にミランで10番を背負った話」
「……!」
「還暦過ぎてシルバーの全国大会で優勝する選手だっている。彼らの身体能力は明らかに若い頃より衰えているが、相対評価は上がってる。わかんねぇんだよ、その人間がどうなるかなんて。ピークが一体いつなのかなんて」
今が良くても、いつ苦しくなるかはわからない。上り坂と下り坂の始発点は誰も見つけられない。それが世の中の腐った事実だ。だが、それは同時に、いつどんな風に自分が幸せになれるかも、わからないと言うこと。わからないから、不安になる。でも、だから。
「これを踏まえた上で聞く。君のピークは昨日か?」
「……いえ」
「君のベストは昨日か?」
「いいえ……!」
「なら、それで良いじゃねぇか」
わかったらもうかけてくんなよ。短い通話は、そんな不親切な言葉で一方的に切られた。こちらの言いたいことは何も返させてくれなかった。
「世の中を少しだけ好きになれる、か」
結局、仲村の悩みは解決しなかった。その目処すら立っていない。けれど、気分は悪くなかった。
「意外と前向きなんですねぇ」
仲村はくすりと笑って、空を見上げてみた。するとこの時、アドレス帳の「お兄さん」のすぐ上に「綾さん」が並んでいるのに気付いた。ご飯でも誘ってみようかなと、久しぶりに嬉しい気持ちになれた仲村だった。
「コーチに、電話……」
「えぇ〜」
中沢の真似をしてシャーペンを回す仲村。公太郎と何を話したかは、遠藤にも詳しく言わなかった。仲村のその「隠し事」がどのような心情から来るものなのかは、遠藤にも何となく察せられた。遠藤にだって仲村に話していない公太郎との会話があるし、理由はそれと同じだろう。だから根掘り葉掘り聞き出そうとは思わない。ただ、
「電話番号……」
「はい?」
「私も、知りたい……」
ズルイと思う気持ちは抑えられなかった。だが、仲村はわざと上品に首を傾げる。
「ん〜。個人情報の漏洩はいただけませんからね〜。私からはちょっと〜」
「えー!」
「もうかけてくるなよって言われましたし〜」
「それはアンのことでしょ!」
「同じようなことじゃないですか〜」
妙なところで用心深い公太郎のことだ。これからは知らない番号からの電話には出ないかもしれない。いや、むしろ今回はよく出てくれたと言った方が正しいだろう。そう言う意味では仲村は最高に運が良かった。
「さて、そろそろ良い時間ですし、ご飯にしますか〜」
「ちょっとー。アンー」
ご飯にしますかと言っても、肝心の料理はまだできていない。仲村はこう見えて料理をしない。それでいてコンビニ弁当やお惣菜は好きではないため、この場において食事を用意できるのは遠藤だけだった。仲村の可愛らしいおねだりを見て、遠藤が溜息をつく。
「……ハンバーグで良いよね?」
「はい!」
「アンも手伝ってよ」
「いやでーす」
「もー!」
ノートと教科書と問題集を抱える仲村。遠藤と一緒にキッチンのある一階に行くつもりはあるらしい。仲村家のオープンキッチンで料理をする遠藤を見つめるのは、仲村が大好きな時間の一つだった。
「勉強しろって言われてますからね〜」
テストは来週の月曜と火曜日だ。次の土日に控えるインターハイ予選により集中するためにも、今は勉強を頑張る。そう言う刹那的な努力の積み重ねが、仲村のピークを跳ね上げていくはずだ。きっとそうだと信じる。
「勝ちましょうね。綾さん」
「そうだね」
遠藤の手を洗う音に耳をすませながら、仲村は問題集を解き始めた。




