危機迫る
桜峰サッカー部に新たな危機が迫っていた。だが、それは喫緊のものではなく、また場合によっては表面化することのないものだった。だから誰も気が付かなかった。気にも留めていなかった。
いや、少し違うか。実は一人、何となく察している者はいた。ただ、それについて考えると頭が痛くなってくるから、優先順位を最下位にまで回していたのだ。
「カ……! ……おいっ!」
それがいけなかったのだろうか。いやいやまさか。世の中はそこまで丁寧に作られていない。だからこれはたまたま。今この瞬間の結果が自分の後ろめたい気持ちを弄っているだけだ。
中沢が叫んでいる。それを遠くに感じながら、ボヤけていく視界に感性を預けていると、デジャヴにぶつかった。いや、これはあの日の記憶か。
血が。血が流れている。小西カロリーナの血が、グラウンドに流れている。
桜峰の攻撃の要。人数差と言う圧倒的なストレスを抑えるためにピッチに送り込まれた選手。最も濃いタスクをいくつも背負うことになった選手。それは、
「頼むぞ。阿部」
「オッケー!」
彼女だ。サイドバックと言うピッチの端をプレーエリアに指定された阿部は、左手の拳を強く握って応えた。その背中には数日前の怯え一つもない、わけではないのだが、それでもあの子はタッチラインを跨いだ。
これまで桜峰が市役所チームから奪った得点はたった一つだけ。150分以上のプレータイムがあったと言うのに、この結果だ。まぁ、実力差から言えば仕方の無いことだし、インターハイ予選で待ち受けるハンディキャップは人数差なので、そこまで重く捉えるものではないのかもしれない。だがそれは、これまでの試合で「チャンスを作れていたこと」を前提としたものだ。だが、現実はそうではない。桜峰はまともなシュートを打つことすらできていないのだ。これは明らかな問題だった。
ーー得点感覚ってのは試合で磨かれるものだ。
シュートを打つこと。それを外すなり決めるなりすること。経験を積み重ねることで点を取るクセが身体に染み込んでいく。今の桜峰にはその感覚を掴むための機会が全くと言って良いほど無い。来たるインターハイ予選でも劣勢が予想される以上、「ワンチャンス」をモノにできる勝負強さと、慣れがどうしても欲しいのに、その練習ができていない。
だからまず、強引にでもその機会を作り出す。
「っ!」
二本目も押し込まれる展開が続く。遠藤が懸命に脚を伸ばすが、少し届かなかった。8番のシュートが桜峰ゴールを襲う。ペナルティーアーク内、右足から放たれた低弾道のシュートがニアサイドに滑り込む。あわや失点かと思われたが、小西の右手が届いた。溢れたボールも左手で抱き寄せて守る。
「カロちゃんナイキー!」
望が拍手する。小西のキャッチングで久しぶりに桜峰がボールをゲットした。小西はそれを既にタッチライン際に広がっていた阿部にスローイングした。
ここで定石を踏むのなら、無理せずボール回しを始めるべきだ。だが、阿部はボールを待たなかった。自分からボールに駆け寄り、右足のダイレクトパスで仲村の足元につけた。殆ど自分の真後ろに蹴るような難しい角度だったが、見事に成功させた。その難易度の高さが市役所チームの予想を上回った。一気に桜峰全体が加速する。
阿部が仲村と並行の位置までポジションを上げる。この時点で久保は仲村の前のスペースへ走り出している。相手センターバックも久保を無視はできない。この瞬間、仲村とマッチアップした相手サイドハーフが思考。久保へのパスコースを切るか、阿部を潰すか。決断。中を攻められることを避け、久保への縦パスには目を瞑る。それを見た仲村は右足で縦パスを出すべく、ボールを前に突いた。その強さと角度が実に絶妙で、相手サイドハーフが少し足を伸ばせばボールを奪える位置だった。こうなるとディフェンスは本能的に足を出してしまう。
ーーホント、性格悪い持ち方するよな。
ディフェンスは足を出したのではない。出さされた。そうなってしまうと、仲村はちょこんとボールをつつくだけで相手の股下を抜けてしまう。二人の身体がいれかわる。そして阿部に斜めのパス。8番がプレスバックしてきており、阿部は右側からチャージされるが、彼女はボールに触れなかった。これだけで相手を数人騙すことに成功。スルーした先のスペースには小鳥遊が上がってきている。小鳥遊は左足でボールを巻き込むようにトラップ。ゴールから逸れて外向きにドリブルしていく。相手サイドバックがそのまま付いていき、狭いエリアで一対一になった。だがこちらの戦術上、酒井のフォローはない。小鳥遊が左足で縦に行くフリをしてボールを跨いだ。一呼吸置き、今度は右足で外向きに跨ぐ。おいおい、当たり前のようシザースしてるよこの子。戻り足でボールを引っ掛けながら左に持ち替え、斜め後ろ、中向きにパス。待ち構えていた阿部は小細工無しのアーリークロスを上げる。久保がニアに、仲村がファーに入ってきている。が、その前で竹内に弾き返された。上半身を捻ったヘディングはかなりの距離を押し返すクリアとなった。
遠藤と相手フォワードが競り合い、ほぼ真上にボールが上がる。それを回収したのはまたしても阿部。ボールを左サイドのスペースに蹴り出し、相手から距離を取った。回り込んでストップ。
ここまでが、桜峰の攻撃の一区切りだった。その後、阿部は中沢、遠藤を使ったパス回しに戻る。
ロングカウンターで相手ペナルティーエリアにまで侵入できた。シュートにこそ至れなかったが、出来としては悪くない。これを何度も繰り返すことでまた道が開けてくるだろう。
今の桜峰全体の攻撃では、左サイドバックの阿部が逆のペナルティーエリアの角にまで上がってきていた。ほぼ一直線、50メートルはダッシュしてきたことになる。現在はボールが外に出たことでターンオーバーしており、阿部も定位置まで戻ってきた。
これが、桜峰の攻撃の形だ。阿部を自由に動き回らせる。全ての状況に彼女を関わらせることでプレーの精度と強度を上げ、動きながら相手ゴールに迫っていく。
まぁ言ってしまえば、阿部の個人能力に頼った歪な作戦だ。だが、久保の走力を活かした裏への抜け出し以外でチャンスメイクするには、これが最も確率が高いだろう。市役所チームはこちらと同数の八人だが、実際の試合ではあと三人相手がいる。こちらの攻撃の際に人数差があることはもちろん、相手のフォワード陣が守備に戻ってこないことも十分に考えられる。つまり、桜峰の攻撃には非常に高度なリスクマネジメントが要求されると言うことだ。
守備を捨ててまで攻撃に人数をかける。その時にどこまで上がって良いのか。誰が上がって良いのか。上がった場合のカバーは誰がするのか。そして、攻撃が頓挫しそうになった場合の「引き時」をいかに素早く、確実に見極めるか。
この「誰が」を阿部に固定することで、チームにスタート地点の共通イメージを持たせる。左サイドを空けることを確定させることで、中沢のカバーをしやすくする。逆サイドの酒井が守備に専念できるようにする。そして何より、それらを全てひっくるめた判断ができるのは、桜峰には阿部しかいない。
また、仲村が左サイドにいることも大きい。上手くいけば二人の連携だけで突破できるからだ。そうなれば遠藤の負担が減る。小鳥遊と言うトリッキーな選手にボールを持たせすぎることもなくなる。彼女にはここぞと言う時に仕事をしてもらいたいのだ。
この作戦、最初は俺も流石にどうかと思った。攻撃に大きな制限を付けることで、サッカーをする上での大前提、「楽しさ」を削り取ることになるかもしれない。
俺は、守備には規律と約束事を設けるべきだと思っている。その代わりとして、攻撃は選手達の思うまま、自由にやらせたい。要するに、この戦術は桜峰の選手達にとっての指導者である俺のポリシーを曲げることになる。舵取りがぶれれば船は座礁する。危険を孕んだ作戦だった。
だが、選手達はそれで良いと頷いた。それで自分達が勝つ確率が1%でも上がるなら、何も文句はないと。
ーーならば。
俺はその期待に向き合わなければならない。彼女達のプレーを目に焼き付けて、どうすればもっと良くなるか、どうすれば勝てるのか、それを無限に思考し続けなくてはならない。
責任。無い頭で戦術を考えた結果、この言葉が俺の背後でチラつきだした。もうずっと放棄していたものが、予想もしていなかった場所から芽を出そうとしている。
ーーならその全てに応えよう、とまではやはり思えない。だが、彼女達の勝ち負けに自分が深く関わっているのだと言う最低限の自覚は、持たなくてならないんだろう。
選手としての芽は根っこから腐っていた。大人の人間としても、たぶん俺は腐ってる。
だが、新しく生まれてきてくれた芽があるのなら、それは。
この時、俺は自分の内面を覗き込み、思考に沈んだ。それがピッチを知覚しないことに繋がった。だから、どうしてそこまで桜峰が攻め込まれていたのかがわからない。9番が胸で落としたボールを、右サイドハーフの6番が右足でダイレクトシュート。それは半分ミスキックだったが、偶然にも中沢の股下を抜いた。
「あっ!」
望が思わず声をあげるくらいには、危険な角度だった。ブラインドになったシュートに、小西の反応が遅れる。結果、ボールは小西の右腕をすり抜けた。だが、運良くポストに当たって跳ね返ってくれた。こぼれ球をどちらが拾うかの勝負。それに敗れた。酒井よりも相手サイドハーフの13番の方が速かったのだ。これは運ではなく、単純に酒井の実力不足だ。
小西が必死で身体を起き上がらせながら構え直そうとする。13番が角度の無い所からシュート、と見せて中に折り返してきた。鋭いグラウンダーのボールに9番が詰めてきている。9番の右足と中沢がスライディングで伸ばした足とがぶつかり合い、ボールがペナルティーエリアの外にまで押し返された。だが、そこには全てを見透かしたように竹内がいた。内から来る仲村の身体を左手で抑えながら、右足を豪快に振る。若干角度の無い所からのシュートだったが、流石のコントロールで逆サイドネットへと一直線に駆け抜ける。
ーーこれはやられたかな。
そう思った時。
「っ!?」
ゴィン! と言う硬い音がグラウンドにこだました。思わず目を瞑ってしまう恐ろしげな音。人と人とのぶつかり合いでは絶対に生まれない金属音。
それは、小西が右ポストに頭をぶつけた音だった。
「ひっ!」
俺の位置からでは選手が被っていてはっきりとは見えなかったが、望からは見えたらしい。その視線はゴールの枠を外れていったボールを追っていない。
まさかの状況に、試合の熱気が一瞬で壊れ、冷めた。俺を含めた全員が一瞬停止し、そして、
「ちょ、うぉい!」
「カロ!?」
「まて、動かしちゃダメだ!」
「救急車、救急車!」
一気に騒然となった。桜峰の選手全員がゴール前に駆け寄っていく。
「あ、か、カロちゃ……!」
望が瞳を大きく見開きながら立ち上がった瞬間、俺はその肩を掴んで抱き寄せた。
「ストップ! 落ち着け!」
足元も見ずに土手から降りようとした望を捕まえたのだ。こんなパニックになった状態で行かせれば、確実に躓いて転ぶ。人が登り降りできる傾斜とは言え、数メートルの高さから転げ落ちればどうなるかわからない。
「いいか、落ち着け」
「え、あ」
「深呼吸。そら、吸って」
「ふ、ふぅ……」
「もう一回」
「ふぅ、はぁ。ふぅ」
「よし。大丈夫か?」
「う、うん」
「良いか。お前はあっちの階段を、ちゃんと歩いて降りてこい。手すりには両手で掴まること。絶対に走るな。いいな」
「うん。わかった」
「よし」
望がひとまず気を落ち着けたのを確認して、スマフォに119を打ち込む。
「はい。もしもし。救急です。子供が、15歳の女の子がゴールポストに頭をぶつけました。はい。場所は桜川の河川敷のAコート。状態は今から説明しますから……」
電話しながら駆け寄る。小西の周りにはまず市役所チームの大人の面々がいて、女子高生達を不用意に近づけないようにしてくれている。
「キャプテン! さっきまで意識あったんですが、たった今気を失いました!」
「だそうです」
「側頭部から出血もしている。おでこの髪の生え際辺りを切ったみたいだ」
「だそうです。あ、傷口抑えるのにこれ使って下さい」
俺が汗かいた時用に持ってきていたタオル。今日はまだ一度も使っていないから清潔だ。汗や土埃が付着した練習着やビブスよりは良いはずだ。傷口の説明をしてくれた8番の人が、小西をゆっくりと慎重に仰向けにする。
「竹内、救急車の誘導頼むわ」
現場に俺が加わっても何かできるわけでもないから、竹内に電話を任せて部員達に指示を出しに行く。彼女達は俺が何を言う前に自然と集まってきた。
「今日はこれで練習終わり。学校と顧問の古見先生には俺から連絡しておくから、君らは帰宅してくれ」
不安そうにしながらも、全員が頷いた。いつもより顔色が悪いのは阿部と小鳥遊。
「全員が全員、しっかり落ち着いたと判断できてから帰ること。久保、遠藤、酒井、頼んだぞ。俺は救急車に乗るから、小西の様子は望を通して連絡網で回す。心配かもしれないが、それまで待て」
小西の親御さんへの連絡は学校か顧問から行くだろう。全員が俺の目を見て頷いたので、それほどパニックにはなっていないと判断した。
「ん、来たか」
救急車のサイレンが聞こえてきた。走って五分の位置に消防署があるのは不幸中の幸いだった。竹内がしっかりルートを誘導してくれたようで、救急車は手早くグラウンドの端に駐車した。降りてきた救急隊員に状況を説明し、俺が同乗する旨を伝える。すると、
「あのっ!」
「どうした」
「私も、乗るわ」
久保が走り寄ってきた。少しだけ見つめ合って、
「わかった。すいません。この子も」
小西と俺と久保。三人を乗せた救急車が発車した。




