朝練
「おはよぉ」
「んー、おはよう。リュウちゃん眠そうだね、大丈夫?」
「うー。わたし、朝苦手なのよねぇ。ふわぁ……」
口元を隠して欠伸する久保。切れ長の瞳がまだとろんとしていて、どうやってここまで登校してきたのか不思議なくらいだった。それでも鍵当番の八尾の次にやって来ているのだから、流石の練習好きと言うしかない。
早朝6時40分のグラウンドは、青く透明な空気で冴え冴えとしていた。浮遊する埃が薄い陽の光に斜めに照らされて美しい。音の少ない世界に八尾と久保の会話が響き渡る。
「さて、朝練初日だけど、皆んなちゃんと来れるかなぁ」
「ユリとアンは大丈夫よ。早起き慣れてるから。一番危ないのは私ね」
中沢は家族七人の朝食とお弁当を作る生活を長年過ごしてきた。間違いなく部員の中では誰よりも早起きな人間だ。最近ではその仕事も少しずつ弟に引き継いでいるらしく、おかげで朝は簡単な家事だけをこなして練習に参加できる。また、見た目に反して部内で最もぐぅたらな仲村も、早朝の家業を手伝ってきた経験がある。早起きには慣れているのだ。小西は小西で朝は趣味のバレェで汗を流しているし、遠藤は歩きで登校できる距離に自宅がある。
このチームは急な朝練にも対応できる充分なポテンシャルを持っていた。
「じゃ、リュウちゃんは着替えてて。準備は私がしてくるから」
八尾が細腕によっせと力を込め、コーンをいくつか重ねて抱える。しかし、その半分を久保が横から受け持った。
「あれ?」
「一緒に来たんだもん。二人でやろうよ」
「あ、ありがとう。ごめんね」
「謝らなくても」
何となく照れる八尾の表情に、久保が苦笑する。
「うん。グラウンド広くて良いね」
「だね」
楠田公太郎が新しい練習メニューを発表した翌日、桜峰サッカー部は朝練を開始していた。今のままでは質、量ともに圧倒的に練習が足りない、と言うことだ。
放課後の練習ではソフトボール部と陸上部もグラウンドを使うため、サッカー部が自由にできるスペースは限られている。その解決策として朝練を行うことになった。他所の部に遠慮することなくのびのび練習するには、このやり方が一番手っ取り早い。
「体力、技術、チーム戦術、インテリジェンス。これらをどんな割合で練習していくかは、チームや選手によって変わってくる」
これは公太郎の談。桜峰サッカー部は体力4、技術4、チーム戦術1、インテリジェンス1でやっていくのが、現状の彼の方針だった。
インターバル走やラダートレーニングを加えた夕練は、体力面の色合いが強い。その後も一対一や二対二など、実際の試合に近い形のメニューを重点的に消化した。体力とチーム戦術、インテリジェンスを積極的に鍛えたと言うわけだ。そして、残る技術的なトレーニングを行うのが朝。朝の四十分程度は全て個人スキルを磨くために使う。
「お、皆んなも来てるね」
練習に使うコーンを並べていると、他の部員も続々と登校してきた。八尾が手を振ると、中沢が元気良く振り返してくる。久保が言ったように、中沢、仲村、小西はいずれも元気そうだった。少し遅れて到着した遠藤、阿部も普段通り。これなら安心して練習に集中できる。久保と八尾も張り切って準備することができた。だが、普段とは掛け離れた状態で登校してきた部員がいたことには気付けなかった。小鳥遊霧子である。
「おわ! きり、めっちゃ眠そうやな!」
最後に部室の扉を開けた小鳥遊は、ズーンと言う黒っぽい効果音を後頭部に貼り付けていた。
「……んあ?」
「おぉ〜。機嫌も随分悪そうですね〜。これは典型的な低血圧かと〜」
先立って準備をしてくれている二人の手伝いをしよう、もしくは早く練習を始めようとしている部員達の中にあって、一際浮いた存在だった。見るからに足元もふらついている。
「小鳥遊さん、ちゃんと何か食べてきた?」
「んん? 食べ……たっけ?」
「これは絶対食べてないね」
「仕方ありません。朝練後のおやつにする予定でしたが、どうぞこれを食べてください」
「うわ、学校にコーンフレーク持ってきてる人初めて見た」
「もちろん牛乳もあります」
自分のロッカーからカレー皿を取り出し、コーンフレークと牛乳をぶち込む小西。業務用コーンフレークの香りが柔らかく広がる。
「うーん?」
カレー皿を渡されてもまだピンと来ていない小鳥遊に、
「あーはいはい。ほれ」
中沢が小西のマイ・スプーンでコーンフレークを掬い、あーんする。
「あむ」
「よしよし。もっと食べれもっと食べれ」
「あむ。あぐ」
されるがままにコーンフレークを食べていく小鳥遊。六口目くらいからは完全に覚醒していたが、何故かそのままあーんされ続けていた。
「えぇ……。何してるのよ、あなた達……」
グラウンド準備から戻ってきた久保がこの状況を見て脱力する。
「餌付けや餌付け」
「いや、私はまずコーンフレークがあることに驚いてるんだけど」
「それは私の私物です」
「あ、そう……」
確かにコーンフレークなら部室に置いても傷みにくい。朝練後に食べる物としても非常に適しているだろう。
いや、しかしだからと言って持ってくる物なのだろうか。それに、たまに生徒会が行う部室検査に引っかかったらどうしよう。いや、そもそも引っかかるのか? 引っかかるとしたらどの部分?
「まぁ、良いやもう。早く練習始めましょう」
練習ができるのは7時50分まで。もう一時間もないのだ。
「今週末にはまた市役所さんが試合してくれるからね! 頑張って!」
八尾が手を叩いて選手達を鼓舞する。
「おぉ〜。では張り切っていきましょうか〜」
「はい。前の試合で零封勝ちしたのはマグレではないと、しっかり証明してやりましょう」
「そうだね。はい、これで良し。小鳥遊さん、髪も綺麗になったよ」
「……ありがとう」
全員の準備が完了。綺麗にトンボを引かれたグラウンドを自由に使える。それだけで彼女達は喜びに満ちていた。当然、士気も高くなると言うもの。
「ん?」
だが、ここで先頭の久保の足が止まった。
「うわ、どしたのリュウっち」
「いや、あの人……」
「んー? なに? 誰のこと?」
久保の視線は正門の方を向いている。部室の狭い扉から外に出た彼女達は、偶然にも縦一列だった。その状況で一番前が止まれば自然と全員が止まる。そして、それは後ろに行くほど顕著になり、久保、阿部、中沢より後ろにいた仲村、小西、小鳥遊、遠藤がムギュッと引っ付く。結果として、幼稚園児の電車ごっこみたいな形になってしまった。その様はうら若き女子高生だから直視に耐えるのであって、これがおっさん達によるものだったら気色悪くて見れたものではなかっただろう。
「も〜。一体どうしたんですか〜?」
「いや、あれは……」
少し迷惑そうに仲村が抗議するが、久保の視線に気付き、その方向に目をやる。するとそこには、
「誰だろうね。あの人」
彼女達が初めて見る、ちょっと凄めの女子生徒がいた。
「な、なんか凄い。いや、どこが凄いかは……うん。僕が言わなくても皆んなわかってると思うけどさ」
阿部が音を立てて生唾を呑みこむ。確かに、全員が即座にその女子生徒の凄さを理解していた。
「歩くだけで揺れてる……」
遠藤が手をやったのは、自分の胸だ。初めての朝練に高まった士気も忘れて、全員がその場に立ちつくしてしまう。
少女達の若き瞳は、その女子生徒の絢爛な容姿に奪われていた。膝裏まで伸びた黒々とした艶髪。弾力のありそうな白い太腿。柔らかそうな腰付き。そして何より、重量感たっぷりの胸部。恥も外聞もなく、非常に低次元な言い方をしてしまえば、それはとんでもなく「えっちな身体付き」だった。有名グラビアアイドルも裸足で逃げ出すようなプロポーションが、そこにはあった。
そして、まさにその身体が、いや、違う。その身体付きをした女子生徒が、機動停止した桜峰サッカー部の部員達を発見し、駆け寄ってきた。
「やぁやぁ。遅れてすまないね」
ニコッと微笑む。その瞬間、右の目尻にある二つの泣きぼくろが強調され、彼女の色気を匂い立たせた。それには見ただけで指先が痺れてしまいそうなパワーがあり、実際に遠藤と阿部はうなじに電流が走った。
「ん? おやおや。もしかして私が誰だかわかってないのかな?」
いや、この期に及んでそんな訳はない。この女子生徒が誰かなど、全員がちゃんとわかっている。ただ、これまでと目の前の現実とをイコールできないだけだ。その「落差」に頭が付いて行っていない。
「ほら。こうすればわかるかな?」
女子生徒がグッと後ろ髪に手をやり、そのままスローインの要領で前に持ってきた。とんでもない長さと量の黒髪が女子生徒の顔、身体を隠す。するとあら不思議。
「酒井灯美だよ」
昨日入部した「ちょっと変な先輩」にトランスフォームした。一秒前までの艶っぽさが初めから存在していなかったかのように霧散し、その代わりに古井戸から這い出てきたとしか思えないホラーな雰囲気を纏った。
「すまない。陰から陽に移る朝は少々苦手なんだ」
誰の共感も得られない理由だった。髪を上げていた時とは声質までもが変わっている。
「急いで準備するよ」
先程とは真逆の手順で髪を背後に持っていきながら話す酒井。この瞬間、彼女の声室の変化の理由は長すぎる前髪で音がこもっているからだと判明した。
「いやぁ、メイド達が起こしてくれなかったらもっと大変なことになっていたね。起床法を考えなくては」
何気なく出てきた単語に少女達は否応なく反応させられる。
ーーメイド? メイドって言った今?
ーー日常会話でメイド!?
ーーしかもメイド「達」!?
続々と明らかになっていく酒井先輩の真実は、部員達を絶妙な塩梅に混乱させた。
記念すべき桜峰サッカー部の初朝練は、最初から最後までグダグダなものとなってしまった。
一体あれは誰なんだと最初は思ったが、その答えは答え合わせが必要ないほど簡単だった。触れるな危険の気配がビンビンしたので、俺は特に何も言わないことでその場を回避した。
グラウンドの向こうでは、久保を先頭にした三人がゼーハー言いながら走っている。手前では死にそうな顔をした遠藤がラダーを踏んでいる。選手達が苦しんでいるのを見るのは非常に気持ちが良い。これからちょっとずつ負荷を上げていけると思うとワクワクする。
「で、私は彼女達に混ざらないで良いのかい?」
「うん。まぁ」
お前は誰だと言いたくて仕方がないのを必死に抑えながら、俺は酒井灯美のスポーツテストの結果を確認していた。
「うーん」
「ふむ。それはそんなに困るものなのかい?」
「あぁ。困る」
非常に困る。困っている。この酒井灯美と言う少女、身体能力は平均か平均より少し高い程度。組み込むとしたらB組になるだろう。だが、
「何で久保より10秒も早いんだよ……。陸上部か……」
困ったことに、酒井と言うこの少女、1000m走の一点においては、ちょっと反則級の記録を叩き出していた。競技が違うから一概には言えないが、単純計算だけなら1500m走のインターハイに出場できるレベルだった。そもそもの久保のタイムも十二分に早く、他のメンバーにはかなりキツいはずなのに、それより上が現れてしまった。
「中学時代はただひたすらに走らされていたからね。むしろそれしかやってないほどに」
その恍惚とした表情は何だ。いや、それ以上に疑問なのは、どうしてその明らかに運動に不向きな身体でその記録を叩き出せるのか。
「コウちゃーん?」
俺の視線がどこに向いているか、遠くでラダー組のサポートをしている望にすらバレバレだった。じとーっとした、何か汚らわしいものを見るような目つきは非常に刺さる。だが、ちょっと待ってくれ。これは仕方ないと思うんだ。本気で歳下に興味がない俺でも、このボリュームには吸い寄せられてしまう。吸い寄せられないなんて不可能だ。あぁ、嫌だ。俺自身こう言う話題は嫌いなのに、本能が抗えない。それが自己嫌悪を催して二重に嫌だった。望の視線も堪えることだし、早々に話題を進めよう。
「久保はともかく、君のタイムに付いてこれる選手はうちにはいない。せっかくのインターバル走が、君には大したトレーニングにならない。これは結構な問題だ」
「それは否定しないが。だがまずは彼女達に混ざるのが重要ではないのか?」
「良んだよ別に。あんなの半分は嫌がらせなんだから」
「聞き捨てならないんですけどー!?」
俺の呟きを耳聡く聞いていた久保が叫んでいる。が、無視。
このインターバル走は走力向上はもちろんだが、もう一つの側面に「嫌がらせ」がある。理不尽な苦しいことを選手達が共有することで、チームの結束を効率的に高めることができる。高校生と言う若い年代において、根性論はあながち馬鹿にできないのだ。と言うか、根性の無いヤツ、精神的耐久力の無いヤツなど、スポーツ界では大成しない。
「まぁ、君のインターバル走については俺が考えるよ。走力にも色々あるし、心肺機能を高めると思えば多少はな」
「わかった。全面的に従おう。お? 丁度良くラダー組が終わったようだ。私も練習に参加しても?」
「あぁ。あと、一応は言っておく。サッカーは体力だけでやるものじゃないからな」
「心配しなくて良い。ちゃんと心得ているさ」
うん。まぁ、この子はそうだろう。性格はこうだが、その実とても聡明な子だ。
「はーい! 皆んなお疲れさまー! 少し休憩あるからね!」
B組のラダーがメニューを終えた。A組のインターバル走が終わるまでまだ少し時間がある。まぁ、何にしても必ず五分は休憩を取るのだが。
B組のメンバーがそれぞれ思い思いの休息を取っているのを観察する。小鳥遊と仲村は少しキツそうなくらいで済んでいるが、遠藤は本気で死にそう。しかし、彼女を中盤に据えるなら今の走力では心許ないのが現実だ。
ーー頑張れ。
そうとしか言いようがないから、せめて心の中で応援する。俺にしては珍しい、素直に誰かを応援する気持ちだった。
少し自分の思考に埋没していると、
「公太郎さん」
全くスタミナが減っていない様子の小西が、ツカツカと俺の元に歩いて来た。
「おう。どうした」
「私の練習のことで、少し相談があるのですが」
「あ、あぁ。そうだな。そうだよな」
小西の練習。つまり、ゴールキーパーの練習。これも捨て置けない桜峰の課題だった。
ゴールキーパーにとって、走力を付けるインターバル走はそこまで重要じゃない。だからと言って不参加にさせるつもりはないが、それ以外の練習を組むとなると……。ゴールキーパーは専門性が特に強いポジションだ。正直、門外漢の俺にはこれと言ったアドバイスができない。練習メニューを考えるのすら難しい。
「実は今、少しずつだがゴールキーパーの練習についても調べてる。それがもう少し固まるまでは、君の経験を頼りにメニューを組んでいくことになるだろう」
俺が口を出せることは、せいぜいキックについてだけだ。まぁ、小西はそこが改善されるだけで充分な気もするが。
「解決策として一番ベターなのは、市役所チームのキーパーに教えを乞うことだな。望に間に入ってもらえば……って、何だその顔は」
思考に俯いていた顔を上げると、小西がクエスチョンマークをいくつも飛ばしていた。これは「わかりません」五回分はあるな。
「いえ、いきなり小難しい話が始まったので少し驚いてしまって。まぁ、そちらはおいおいで良いでしょう。今はそれよりも重要なことがあるのです」
「え、他にか?」
「はい。実を言うと、私はカッコいいスローイングがしたいのです」
なるほどそうきたか。いや、この子ならそうくるだろうと初めから予測すべきだった。
「ゴールキーパーの攻撃参加の象徴であるスローイング。投げたボールが滑るような軌道で伸びていくのはいつ見ても気持ちが良いものです。私もああ言うスローイングを身につけたい。しかし、そのためにどんな練習をすればいいかがわからないのです」
「……わかったよ。これからはそっちについて調べるようにする。何か良い練習方法が見つかったら教えるよ」
「それはとっても助かりますね。どうもありがとうございます。よろしくお願いします」
「あいよ」
小西は丁寧に頭を下げ、また部員達の元へ戻っていった。
ーーあの子もあの子で、よくわからん。
ある意味では、一番不思議な少女かもしれない。
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