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楽しいのタネ


 時刻は遂に十八時を回った。だが、久保と小鳥遊のPK対決は未だ決着を見ていない。一時は三十人ほどのギャラリーが集まっていたのだが、それもしばらくすると解散してしまった。ただ作業的にゴールが決まり続けるのを見ても、全く面白くないからだろう。


 ーー終わんねぇな。


 しつこく言うが、PKにはどうしたって運が絡む。史上最高のプレイヤーであるリオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドでさえPKを外したことがあるのだから、実力だけでは覆しようのない部分があるのは明白だ。そう言ったデータからも考えても、久保がシュートを決め続けていることには小さくない偶然が絡んでいるのは間違いない。久保の幸運と、そして、小西の不運が重なったことで今の状況が生まれているのだ。


 ーー偶然ならば、必ず途切れる。


 だが、それがいつになるのかはわからない。十分後か一秒後か、それとも一年後か。観戦者である以上、俺達はそれを待つしかない。久保の失敗の確率を上げるための行動は起こし続けるが、それがどこまで意味を持つのかは不透明だ。事実、


「はい。次はあなたよ」


 久保のゴールラッシュは止まらない。まるでみかんの皮を剥くような単純さでシュートを決めていく。異常とも呼べるこの状況に対し、俺は自分の感覚を強制的に麻痺させることで対抗している。久保はPKを決めて当たり前なのだと強く頭に念じてすり込んでいるのだ。


「えーと。リュウっちが負けた時のペナルティー、今何個になってるっけ?」


「ん? ちょっと待ってね……。えっとえっと、DVD没収、アンちゃんの宿題一週間代行、プリン禁止一カ月、腕立て腹筋背筋五十回を毎日四セット(無期限)、部室の掃除当番固定、アンちゃん家の店番代行五十時間、桜峰中のマックの店員さんにスマイルくださいって言う、バスケ部のキャプテンと一日デート、全校集会でジャッキーのモノマネ十連発、アンちゃんの代わりに購買のチョココロネ買ってくる(無期限)、教室で官能小説をカバー無しで十冊読破する、だね。……なんかちょくちょく私益に走ってる人がいるけど」


「いやぁ、増えましたね〜。もうメモってないと覚えられませんね〜」


「あとはしばらくDAZNを観ないも追加やな」


「はーい」


 望が几帳面にノートにメモメモしている。これだけの条件をふっかけられているのに、久保は全く動揺を見せない。


「いや、途中からネタ寄りになってきてるのがダメなんじゃねぇか? 微妙にプレッシャーになってない気がするぞ」


「えー、せやろか? けど、バスケ部のキャプテンとデートってのはかなりキツいと思うで? どこに連れ込まれるかわかったもんやないし」


「普通に危ないよね。あ、噂ではつーちゃんも狙われてるらしいから、気をつけてね」


「……ふぅ」


「あ、翼さんが気を失いました〜。大丈夫ですか〜?」


 あぁ、ダメだこいつら。まるで使えねぇ。久保のメンタルが彼女達の予想を遥かに上回る強度だった時点で、この作戦は間違っていたのだ。


「小鳥遊、すまん。あいつら役に立たんぞ」


 俺は俺で自分のことは完全に棚上げした耳打ちである。仲間たちから何の援護も得られていない小鳥遊は、完全に孤立無援、孤軍奮闘状態だ。集中力だけでなく体力も限界に近づいた彼女は、いつにも増して目付きが鋭くなっている。

 だが、不思議とその声は穏やかだった。


「いいよ」


「ん?」


「役に立たないなんて、思ってないから」


 久保はまだまだ元気だ。先程のキックも、きっちり軸足を踏み込んだ瑞々しいシュートだった。力強いボールは左のサイドネットに突き刺さり、ゴール内でバウンドした。あのコースは取れない。小西側には完全にノーチャンスの素晴らしいPKだった。


「もう一回、あれやってくる」


 小鳥遊が軽く息を吐いた。


「軸足キックか? あれは一発勝負の初見殺しみたいなやつだから、二回目はあんまりオススメできないぞ」


 今から十本くらい前に小鳥遊が決めたキックだ。サッカー素人のギャラリー達が思わず拍手したほどの見事なゴールになった。だが、二度目が通用するかと問われれば難しいと言わざるを得ない。


「そう。でも、もう……」


 小鳥遊が左脚に手をやる。今度こそ本当に限界か。俺達に助けを求めてきてから、すでに十本以上のキックを蹴っている。目線のフェイク、意表を突くアウトサイドキック、遠藤保仁が得意としたコロコロPKなどなど、多種多様なキックを小鳥遊にアドバイスし、本人も実行してきた。だが、教える側の俺達ですらネタが尽きてしまった。言い訳にしかならないが、そもそもPKってのは一発勝負なのだ。そんな一日に何本も同じキーパー相手に蹴るようなものじゃない。

 軸足に力が入らないと、足首を挫く恐れがある。小鳥遊からの申告はすでに二回目だ。


「……わかった。ここでやめておこう」


「……」


 小鳥遊が目を伏せた。長いまつ毛が揺れる。


「すまない。君の力になれなかった」


 俺らしくもなく、割と本気で申し訳ないと思っている。勝たせてあげたかったし、何より、こんな途中棄権みたいな負け方を強いることになってしまったことが心苦しい。最後まで勝負を続けられなかったという結末は、小鳥遊の心を強く傷つけ、苛むだろう。今の彼女の表情がそれを雄弁に物語っている。


「私の勝ちってことで良いのかしら?」


 こっちの様子から察したのだろう。久保がニッコリと笑いながら歩いてきた。あぁ、くっそ。めちゃくちゃ嬉しそうだなコイツ。まぁ、久保が嬉しく思う気持ちもよくわかる。この勝負は、彼女にとっても楽なものではなかったからだ。


「……」


 俺は口を噤んだ。俺が「そうだ」と答えることはできない。残酷だが、それは筋違いだ。


「……私の負け」


 闘ったのは小鳥遊だ。なら、負けたのも小鳥遊なのだ。この事実からは何があっても目を逸らしてはならない。小鳥遊もそれは重々承知しているから、こんな引き絞ったみたいな声を出したのだ。


「……わかった。これからは練習、行くから」


 PK対決に負けた時の条件。こちらからは散々と出しておいて、小鳥遊がノーリスクというわけにはいかない。小鳥遊が練習に参加するかどうか。このPK対決の出発点はそこだった。だが、


「え? どうして? 私そんなこと一言も言ってないと思うけど」


 久保はキョトンとした顔でそう言った。


「は?」


「それは確かに、あなたに練習に来て欲しいとは言ったわよ。でも、勝負に負けたら強制的に参加させるなんてことは言ってないわ。そんなことしても何の意味もないし、私だって嫌だもの」


 邪気の無い顔で首を傾げている。逆に小鳥遊は、唖然とし過ぎてものも言えない状態になっている。


「……なぁ、そうだったのか?」


 途中参戦の俺にはその辺の詳しいことはよくわからない。だが最初に聞いておかなかったのは俺のミスなので、今更こそこそと望に耳打ちする。


「え、え〜と」


「お前もわかってないのかよ」


「だ、だって、取り仕切ってたのユリちゃんとアンちゃんなんだもん」


 部員たちの間にも認識の食い違いがあったらしい。いや、これはもしかして。


「て、言ってるけど、どーなんだ?」


 俺にもこの勝負の全体図が見えてきた。


「あらぁ〜、そうでしたっけ〜?」


「いやいや。別にうちらも何も言ってないで? ただ、揉めたらバトルやなって言っただけやから」


「……なるほど」


 どうやら、全部この子たちが仕組んだ流れだったらしい。仕組んだと言うほどのことではないかもしれないが、俺たちは彼女たちの掌で転がされていたのだ。


「はぁ〜〜〜〜っ!」


 その瞬間、小鳥遊がガックリと俯かせて地面にしゃがみ込んだ。頭痛を覚えたらしく、右手をこめかみに当てて唸っている。小鳥遊は心の内を一切他人に見せない少女だ。それがまさか、こんなあからさまな態度を取るとは。よほど心身を疲れさせられたと言うことか。


「ねぇ、小鳥遊さん」


 俯く小鳥遊に、久保は目線を合わせて語りかける。


「負けるって、結構、悔しいでしょ」


 今の小鳥遊はそう言うのとは別の気持ちだと思うが、言わぬが花な気がしたので黙った。


「まぁ、今日はしょうがない部分が大きいんだけどね。だって私は経験者で、小鳥遊さんは初心者なんだもん。でもさ、本当のPK戦はこうじゃないんだよ。本当なら、あなた一人じゃなく、桜峰の皆んなが協力して蹴ってた。そう言う意味では、あなたが勝つ可能性だってあったはずなの。少なくとも、あなた一人が体力切れで途中棄権する、なんて結末はあり得なかったわ」


 久保の言う通りだ。今回のこの勝負は、本来とはまるで異なる様式のものだった。PK戦の本質は、十一人が順番に一人ずつ蹴る権利を得る刹那戦だ。こんな、たった一人が体力を削って何時間も蹴り続ける耐久戦のようなものはではない。


 ーーそれこそが、小鳥遊が持っていた団体スポーツに対する認識のズレであり、久保が正したかったものだ。


 確かに、PK戦は見た目にはキッカーとキーパーの一対一だ。だが、その背後に存在するのは、試合は十一人対十一人で行っているのだと言う事実。選手たちは一人で闘っているのではなく、チームで戦っている。そしてそれこそが、サッカーというスポーツの本質なのだ。


「サッカーは、勝ちも負けも皆んなで背負う。誰がシュートを外そうが、誰がパスをカットされようが、誰がドリブルで抜かれようが、試合に負ければ皆んながおんなじくらい悔しいし、悲しい。でもだからこそ、勝った時はその何倍も嬉しいものになる。一人じゃない。皆んなで勝つから、嬉しいの」


 チームが勝つから、チームで勝つから嬉しい。この感覚は、経験した者だけが味わえる。経験した者だけの特権だ。そしてそれは、経験しようとした者だけにしか訪れない。それゆえに、小鳥遊霧子という少女の内には絶対に存在しないものだ。だが、


「ねぇ、もしあなたが、今日負けたことを悔しいって思うなら、もっと一緒にサッカーしてみようよ。悔しいって思う気持ちが持てるならきっと、うぅん、絶対。そう。絶対、絶対に、楽しい、嬉しいって気持ちも持てると思うから」


 今の小鳥遊の内にその気持ちは無くとも、種は確かにあった。なら、それを大事に育めば、芽生えさせ、咲かせることもできるはずだ。


「言ったでしょ。サッカーはとっても楽しいってことを教えてあげるって。今日はそのきっかけだけだけどね」


 久保は嫋やかに笑って立ち上がった。屈伸をした後、ぐぅっと背中を伸ばして凝りを解す。小鳥遊はしゃがみ込んだまま、そんな久保を見上げていた。その顔にはやはり悔しさが浮かんでいるが、これまでのものとは僅かに、それでいて、まるで違うものだった。


「……イヤイヤちょっとちょっと。なに終わったみたいな空気出してるんですか」


「うぉ! びっくりした!」


 ゾンビが出てきたのかと思ったら、このグラウンドで一番可哀想な人、小西だった。


「一本も止めてないのに終わりとか、私的にあり得ないんですが。あと、キッカーのお二人も疲れてらっしゃると思いますが、私はその倍動いてますからね。その上で一本も止めていないのですよ。この屈辱、考えられますか? 私は考えられません」


 言われてみれば確かにそうだった。普段からテンションのおかしい小西だが、今はその比ではない。目が煌々としている。


「それでは、私が蹴って良いですか〜?」


「うちもうちも! 二時間立ちぼうけだけってのもつまらんしな! ちっとは発散せんと寝れんて!」


 気前よく手を挙げたのは仲村と中沢だ。小西の言い分もわかるし、この二人の気持ちもわかる。どちらの立場としても、このまま帰宅させられては堪らないだろう。

 それにしても、よくもまぁ体力が残っているものだ。俺なんかただ立ちっぱなしにされただけで脚が棒になっている。実は割と早い段階から座りたいと思っていた。小鳥遊が頑張っているのに応援する側の俺が座るわけにもいかんしなと、仕方なく立っていただけなのだ。


「良いでしょう。もはや誰が相手かなんて関係ありません。どんどん蹴ってきてください」


「やった〜」


 仕切り直しとばかりにグローブのマジックテープを引き締めた小西。水も飲まずにゴールに戻ろうとするのを、望が慌てて呼び止めた。これだけの長時間のプレーを水分補給無しで続けさせるのは良くない。当たり前のことだが、その辺りをきっちり把握してチームに還元できる望は良いマネージャーだ。

 先程までの緊張感張り詰めた空気はすぐに霧散し、ワイワイとした騒がしい状態に変わった。この時点ですでにここは「楽しい場所」だった。こう言う部分はやはり女子高生だなと思う。


「……」


 はしゃぐ部員たちを、小鳥遊は如何な気持ちで見つめているのだろうか。ふぅ、と静かに深呼吸した小鳥遊は、とうとう脚を伸ばしてグラウンドに座ってしまった。その仕草は、諦めた、と形容するのが最も的確そうだ。この僅かな時間だけ、俺たち二人と部員たちという構図が出来上がった。ならばそれに乗っからせてもらおうか。


「なぁ」


「なに」


「君は、厨房に入りたいんだってな。俺は君が何度か入ってるの見たことあるんだが、それじゃダメなのか?」


「うん。ダメ。あれは火の番とか鍋かき混ぜたりとか、誰でもできる単純作業してるだけだから。調味料には絶対触らせてくれないし、包丁なんかもそう」


「なら、家の台所は? 君たち家族の食事は誰が用意してるんだ?」


「ぜんぶ繁。できるのは皿洗いだけ」


 私は料理をしたことがない。させてもらったことがない。小鳥遊の声は少し寂しげだった。色々と疲れることが彼女の心に押し寄せ、そして氾濫し、上手く制御できなくなっているのだ。今なら、小鳥遊霧子という少女の内に仕舞い込まれた「本音」を、聞き出せる。だか、俺はその先に踏み込むことはしなかった。玄関の鍵が開いてるからと言って、他人が土足で押し入って良いわけがない。


「ふむ、徹底してるんだな。流石だ」


 だから、その代わりに、今の状況を平らにする話に持っていく。久保の言い分も小鳥遊の言い分も、足して二で割って、丸く収められるような。

 

「これは俺の経験則なんだが、目標を達成するための努力ってのは、必ずしも一本道じゃない」


「?」


「回り道に見えることも、実はショートカットになってたりするってこと。そうだな、例えば君の場合、まず間違いなく台所を使えるようになれる魔法の言葉なんかもあったりする」


「っ!! それは、私にできること?」


「もちろん。ただ、魔法の言葉を最大限使いこなすには、君がクリアしなくちゃならないことが一つある。それをクリアできるかどうかは、君次第だ」


 重く頷いた小鳥遊。この少女が夢に向かって一歩を踏み出せるよう、俺も願う。俺のような人間がそう願いたいと思えるほど、小鳥遊は純粋に必死だった。


「魔法の言葉ってのはーー」


 この瞬間、とうとう小西がPKストップに成功したらしい。まるで全国大会で優勝したみたいなガッツポーズを高々に掲げる姿は、なかなか泣かせる光景だった。あの子たちの居る場所は、どこだろうがお祭り騒ぎになるらしい。

 そんな仲間たちを遠目から眺めていた小鳥遊が、


 ーーへぇ。


 少しだけ頬を緩めた。そんな気がした。






















 PK対決の翌日のこと。今日も八尾望の所属する一年四組は、平和、平穏、平凡で満たされていた。だが、その平均的な空気が、昼休みを境に壊された。


「八尾さん」


「ん? 小鳥遊さん、どうしたの?」


 八尾と小鳥遊の席は隣同士だったが、小鳥遊から話しかけることは非常に稀だ。話しかけるとしてもそれは事務的なことだけだった。だが、今回は違った。


「これ、なんだけど」


「これ? あぁ、お弁当箱? これがどうかしたの?」


 四角形のお弁当箱を差し出してくる小鳥遊。あまりに突飛すぎて、それが何を示しているのか、八尾にはわからなかった。だが、


「これ、部員のみんなに(・・・・・・・)差し入れしたい(・・・・・・・)って言ったら、繁が台所使わせてくれた。……私が作ってみたんだけど」


「え、うそ! うわぁ! 凄い! ちっちゃなおにぎりがいっぱい!」


 ぱかりと開かれたフタの下には、三口サイズのおにぎりが十個ほど詰められていた。どれも綺麗な俵型で、海苔も丁寧に巻かれている。見るからに美味しそうだった。


 ーー流石は人気定食屋の看板娘! 小鳥遊さん、料理も上手なんだ!


 容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群、それでいて料理スキルも高い。八尾の中での小鳥遊の株はうなぎ登りだ。完璧すぎて羨むどころか好きになってしまう。


「え、私が最初に食べて良いの?」


「うん」


 ーー八尾さんに食べて欲しかったから。


 小鳥遊はそんなことは一言も言っていないが、八尾には聞こえてきた。幻聴である。


「じゃあ、いただきまーす!」


 おにぎりを掴んだ瞬間、中に具が入っているのが八尾にはわかった。八尾も料理は結構得意なのだ。そして得意だからこそわかる。ここまで綺麗に、それでいて均一におにぎりを作れる技術は、素晴らしいの一言に尽きる。


 ーーこれ、絶対美味しいよね!


 口に入れる前からどんな感想を言おうか考えてしまう。そして、


「あむ」


 小鳥遊にジッと見つめられる中、口元を隠してもぐもぐと咀嚼する。咀嚼すればするほど、具材の味が口内に広がっていく。

 ごくりと飲み干した。


「小鳥遊さん」


「ん?」


「これ、何の具を入れたの?」


「ナスの煮浸しだけど」


「……もしかして、ぜんぶ?」


「うん。ナスの煮浸し」


 しばし沈黙。そして、


「……………………………………そっち系かぁ」


 切ない気持ちで呟いた。実はこっそり聞き耳を立てていたクラスメイトたちも、「ね、良かったら私にも一口ちょうだい」と言うタイミングを図っていたのだが、具材の名前を聞いた途端にさぁーっと離れていった。


 ーーうーん。ナスの煮浸しかぁ。いや、ナス味噌とかならわかるんだけど。煮浸しはちょっと流石になぁ。あ、いやいやいや! 今はそんなことより、小鳥遊さんに何て言うかだよ。『美味しいよ』? それとも、『独創的だね』? これは難しい。難しすぎる! て言うか何でナスの煮浸し!?


 小鳥遊が厨房で仕事をさせてもらえないのって、まさかこう言うことなのだろうか。


「お、それ美味しそうだね。どうしたの?」


 タイミングが良いのか悪いのか、ここで阿部が購買部から戻ってきた。早速、「美味しそうなおにぎり」を発見する。


「私が作った。部に差し入れ」


「へぇ! きりっちの! 僕も一つもらっていい?」


「うん」


 この一瞬、「やめた方が良い」と思う八尾と、「つーちゃんにもこのカオスな感想を味わって欲しい」と思う八尾が心の中でせめぎあった。そしてその結果、仲間は多い方が良いと判断した。


「んん? 何か珍しい具だね。ふむふむ……。あ、わかった。ナスの煮浸しでしょ?」


「うん」


 さぁ、阿部はどんな感想を言うのか。


「へぇ。普通に美味しいね。ナスの煮浸しっておにぎりに合うんだ。知らなかった」


 この時の八尾が受けた衝撃は、この先何十年生きたとしても表現できないものだった。嘘を言っている風はなく、事実、阿部は二つ目に手を伸ばしている。


 ーーえ、嘘。わたしが少数派?


 一年四組のサッカー部員の味覚がおかしいと判明した瞬間だった。おそらく、小鳥遊はこれから毎日のように「差し入れ」を作って持ってくるのだろう。それはちょっと辛いかもしれない。だが、


「まぁ、いっか」


 八尾にはそう思えた。これからは、小鳥遊が毎日練習に来てくれる。それはきっと、差し入れを作れるからってだけではないはずだ。


 ーー少しでも、サッカーをしてみようって思ってくれたのかな?


 もしそうならば、こんなに嬉しいことはない。昨日のPK対決は、チーム崩壊に繋がってしまうのではと内心ヒヤヒヤしていたのだが、どうやら良い方向に進んだようだ。ならば、一番の受勲者には一番の報酬を与えてあげなくては。


「ね、小鳥遊さん。リュウちゃんにも食べさせてあげようよ」


 味はともかくとしても、久保は喜ぶだろう。小鳥遊はふと考え込むような仕草をしたが、


「わかった。行こ」


 素直に席を立った。八尾、小鳥遊、阿部の三人が仲良く連れ立って、久保のいる一年一組の教室に向かった。

 小鳥遊霧子という少女が新たな気持ちでサッカーに向き合うようになったこの日、久保竜子という少女がおにぎり恐怖症になった。

 久保はナスが大の苦手だった。

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