最後の一人
阿部司がピッチに立った時、「誰?」 と言う空気がスタジアムに流れた。最終戦に詰めかけたほとんどの観客が、試合前に配られた冊子を開いた。ホームサポーターでさえそうだった。
ーーいける。
ーーダメかも。
それぞれのサポーターの心の声が、阿部翼の脳内に響いてきた。せっかく登場した選手に対して、そんな失礼な反応をしなくても。父の選手価値に懐疑的な阿部だったが、それでも多少は腹が立った。
そしてそうなれば当然、隣の席に座る母がどう思っているのかも気になる。不安そうにしているのか、それとも苛立っているのか。恐る恐る確認してみると、母は果たしてどちらでもなかった。
阿部翼の母は、落ち着いた表情で静かにピッチを観ていた。娘の視線に気がつくと、
「大丈夫よ。お父さんなら」
そう言って柔らかく微笑んだ。理由を図りかね、尋ねようとしたその時、アウェイサポーターの歓声がこだました。コーナーフラッグ付近でボールキープしていたホームチームの選手から、ノーファールでボールを奪ったのだ。アウェイチームの選手達がかさにかかって雪崩れ込んでくる。最前線のビッグマンにボールを放り込む。二対一だと言うのに、ホームチームの選手が競り負けた。ペナルティーエリアのギリギリ中からシュート、はディフェンスがブロック。大事なこぼれ球。それも拾われた。もう一度シュート。と、見せかけて切り返し。ディフェンダー二人が紙のように剥がされ、ペナルティーエリア内でどフリーに。
左利きの相手選手が右45度から逆サイドにコントロールシュート。後から動いていては絶対に取れないシュートだが、阿部司はそれを読み、先に動き出していた。これなら止めることができる。その時、
ーーあ。
味方ディフェンダーがそのシュートに中途半端に触れてしまった。ディフレクションしたボールはバウンドしながらニアサイドへ飛んでいく。キーパーはファー側に身体を倒している。完全に逆を突かれた形になった。
そこから約一秒後までを、阿部の瞳はスローモーションで捉えていた。
貴女はどうしますか。小西の言葉は、かつての阿部の記憶を抉り出した。映像ではない。映像ははっきりと目に焼き付いている。忘れていたのは言葉と、その意味。
「カロっち」
「はい」
「多分だけど、相手はトリックプレーしてくるよ」
トリックプレーを予測するには、キッカーがボールをコーナーアークに置く前にどこを見ているのかを把握しておくこと。そして、中の選手達に「誰かを孤立させようとしている意思」があるかどうか。それを見分けること。これも父が教えてくれたことだった。
「三人の塊が嘘くさい。それに、ファーの人がプレーから消えようとしてる。三人が走り込んで生まれるスペースにゴロのボールを蹴ってくるつもりだよ」
「わかりました。では、私はそこに向かって飛び出します」
「……当たる確率とか根拠とか聞かないんだね」
「もともと賭けの勝負ですし、そう言う方が私の好みです」
勝負とは賭け。必ず勝てるなんて保証は誰にもできない。ゆえに、絶対勝てないなんて悲観する必要もない。
「わかった。なら僕は、リスクマネジメントするよ」
「リスクマネジメント? 私の失敗に備えてと言うことですか?」
小西は不満そうな顔をしなかった。それが阿部には印象的に映った。
「違うよ。僕が考えるのは、カロっちが成功して、リュウっちに繋がった後のこと」
小西は成功する。そう信じる。自分の父が作ってくれたチャンスだから、信じられる。
しかし、二人の話が終わる前にキッカーが助走に入った。中の三人が一気に走り込んでくる。
阿部は神経を研ぎ澄ましてピッチ内の情報を獲得していく。走り込んでくる角度、小西の出足、ボールの軌道、そして、ファーにいた選手の動き方。全てが「そこ」に繋がった。
「キーパー!」
小西が恐れ知らずのプレーでボールにかじり付いた。完全に読み勝ち。阿部は市役所チームの作戦を看破した。だが、そこはまだ五合目、いや、一合目にも達していない。大切なのはここからだ。相手は今、トリックプレー失敗に少なからず動揺している。その隙は、この瞬間にしかない。
「カウンター!」
小西が鬨の声とともにトスを上げ、横から脚を振り切るパントキック。
ーーホントに成功させちゃうんだ。
飛翔していくボールの軌道を追いながら、阿部は再び五感を総動員して情報を掻き集める。視界の隅に、相手ゴールキーパーが飛び出してきたのが映った。もしここでクリアボールがこちらに飛んできたら。もしくは、クリアボールを拾った選手の近くでプレーできたなら。
久保はシュートまで行けなかった。クリアボールを拾ったのは竹内だ。すると、そこでキープするかと思いきや、そのまま攻撃を仕掛けてきた。
これは、千載一遇の好機。カウンターのカウンターだ。向こうは手数をかけずに攻め込みたいはず。なら、最後にボールが集まるのはどこか。
「大橋さん!」
そんなの、ここしかないではないか。阿部の論理思考は時間を超越した速度で回転し、彼女の身体をその場所へと動かした。大エースからボールを奪い取れる唯一の場所。中沢の影に隠れた、その更に後ろ。
相手ゴールキーパーのポジション修正、竹内との読み合い、そして大橋氏との二対一。阿部はその全てに勝利した。奪い返したボールの重みが心地よい。顔を上げなくても、ゴールに誰もいないのはわかっている。だが、阿部は顔を上げた。上げたくなったのだ。
もう俯いていたくない。ゴールまでの道ができたこの瞬間のように、自分も真っ直ぐに駆けていきたい。
ーー飛んでけ。
キックの軌道は、目で追わなかった。自分はもう羽ばたいたのだから。羽ばたけたのだから。
拳を握り締めたすぐ後に、仲間達が駆け寄ってきた。手が割れそうなほど大きくハイタッチし、肩を強く抱き合い、熱と喜びを共有する。最高の瞬間だった。
「一つ聞きたいのですが」
こんな風に歓声と祝福を受けたのも、随分久しぶりのことだった。その中には小西もいる。一番遠い場所から駆けつけてきてくれたのだ。
「貴女のお父さんは、最後の試合でどんな活躍をしたのですか」
小西の問い。今ここで聞くかとも思ったが、阿部は話すことに決めた。
「うん。あの日、お父さんは相手が至近距離から打ってきたシュートに反応したんだ。でも、ボールはディフェンスに当たってディフレクションした。身体を先に倒していたお父さんの完全に逆を突いたんだ」
ゴールが決まる。ホームチームの十人の選手には抗いようのない未来だった。だが、
「でも、お父さんの左手はそこにちゃんと伸びた。態勢を崩された状態でも、ボールをゴール外にかき出したんだ」
この時スタジアムに轟いた大歓声は、阿部の心房をドラのように強く揺らした。頭から音が突き抜けたみたいな衝撃で、自分がしきりに何か叫んでいたのも覚えている。
結局、直後のコーナーキックはディフェンダーがクリアし、そこからもシュートが打たれることはなかった。阿部司はピッチに立った約八分間で、一度しかボールに触っていない。だが、それだけで十分だった。阿部にとっても、チームにとっても、あのワンタッチがあれば、それで良かった。
「お父さんは、ヒーローインタビューに呼ばれたわけでも、チャントを歌ってもらったわけでもない。けど、確かにあのピッチにいたよ。プロとしての仕事をしたよ」
「そうですか」
小西は静かに微笑んで、右手を差し出してきた。
「先程の、貴女のお父さんに対する暴言は全面的に撤回します。貴女のお父さんは、素晴らしい選手です」
その言葉は、阿部にとって何よりも嬉しいものだった。自分が褒められる何倍も嬉しい。阿部は小西の手を握った。
「そうだよ。僕のお父さんは、凄いんだよ!」
阿部の父は、プロだった。あのチームにいた意味は、意義は、確かにあった。
「さぁ、構えましょうか。相手は格下の女子高生相手にトリックプレー仕掛けてくるようなチームです。意地になって攻めてくるでしょうから」
「だね。でも負けないよ」
「もちろん」
小西はヘアピンを留め直してゴールエリアに戻っていった。その背中は自信に満ち溢れている。頼もしいゴールキーパーだ。
相手は強い。でも、先制したのは桜峰だ。相手の攻撃を凌ぎ切れば勝てるんだ。難しいかもしれないが、絶対無理ではない。
桜峰には、カウンター兵器の久保がいる。そこに正確なパスを出せる遠藤がいる。裏を警戒されるなら、仲村にドリブルで切り裂いてもらえば良い。小鳥遊なら相手を翻弄してくれるだろう。攻撃が上手くいかなくても、後ろには中沢がいる。小西がいる。そして、もちろん自分も。
ーーあぁ、楽しい。
楽しい。サッカーって、こんなにも楽しい。
忘れていた。父の言葉の意味と同じく、いつからか忘れてしまっていた。
ーーでも、もう思い出せた。
怖がる必要なんてない。辛いことや苦しいことがあったとしても、もう大丈夫。だって自分は、344日間もピンチを耐え続けた選手の娘なのだから。心が楽しいと思うままに、プレーすれば良い。
この二本目の試合、桜峰は市役所チームに勝利した。全国ベスト8を誇る強豪の猛攻に、最後まで耐え切った。これがどれほどの快挙か、クドく言葉にしなくても伝わるだろう。
そして、この快挙の中心には阿部翼という少女がいた。これから幾度となくピンチを救い、チャンスを生み出してくれる翼が、真に桜峰に加わった日だった。
週が明けて火曜日、俺は桜峰のグラウンドに向かっていた。桜峰がインターハイ予選で戦うためのチーム戦術を提案するためだ。コーチに就任させられた時からずっと悩まされてきたが、阿部が何とか「形」を見せてくれた。
また、阿部自身が殻を破ってくれたのも大きい。女子高生ってのは凄いもんだな。半年以上も苦しめられてきた壁も、たった一日で乗り越えてしまった。スポーツ選手はプレーしている時が一番かっこいいものだ。溌剌とプレーする阿部の横顔は、とても魅力的に見えた。日曜の練習は見に行っていないが、きっとこれまで以上に充実した練習だっただろう。その充実度を、今日からさらに上げていく。
ーーこの感覚だけは慣れねぇな。
桜峰の正門を潜ると、下校する桜峰生徒達の視線が刺さってくる。俺の立場を知っている生徒の方が少数なので、「誰だアレは」と思われるのだ。この数秒間だけは、早くグラウンドに行きたいと思ってしまう。すでに顔パスになった警備員のおっちゃんに片手を挙げて挨拶して、早歩きで校内を行く。グラウンドが見えてくると、
「ん?」
うちの部員達がグラウンド中央で不自然な形に集まっていた。ここからだと揉めているように見えなくもない。あの仲良し達が揉めるようかことがあるか? と思ったが、あったわ。揉める要因。可能性。
「あ、コウちゃん!」
「おぅ。なんだあれ。揉めてんのか?」
「揉めてるというか、何というか」
「久保と小鳥遊か?」
「オゥイェス」
だろうなー。望も困った顔で頷いている。
「で、どんな状況?」
「今からリュウちゃんと小鳥遊さんがPK対決するって」
「いや全然わからん。何がどうしてそうなった」
女子高生のテンションって怖い。おじさんは付いていけない。
「どうしよう〜。二人とも声を荒げるようなタイプじゃないけど、ゆりちゃんとあんちゃんがいるからな〜」
「経緯を説明しろ経緯を」
いや、やっぱり説明してくれなくていい。帰りたくなってきた。女子高生同士の喧嘩なんて見てられるかよ。逃げよっと。
「ちょっと待って。なに逃げようとしてるの?」
「……離せ」
「離さない! ちゃんと居てよ!」
「嫌だよ! 居たって何もできねぇもん!」
「だからって逃げるのは違うでしょ!」
「違わん! いいから離せっ……て力強いな! お前握力いくつだよ!」
「十五キロ!」
「嘘つけ! 五十はあるだろ!」
「……何してるの二人とも」
「わ!」
「うぉ! って、なんだ阿部か」
「なんだとはなんだ」
取っ組み合いに熱中しているところに後ろから声をかけられて、驚いて飛び退く。そこにいたのは制服姿の阿部だ。なんだかジトっとした目で俺達を見ている。
「どうした。随分遅いじゃないか」
「生徒指導されてた。ラメ入りのリップはダメなんだって」
心なしかげっそりしている。よほど絞られたらしい。ちぇーと言わんばかりに唇を尖らせる。
「そりゃ、校則破った僕が悪いんだよ。でもさ、言い方が酷いんだよ。オシャレしたいなら、まず自分に似合うかを見極められるようにしなさい、あなたは明るい系のオシャレに向いてないわよ、だって! 明るい系のオシャレが似合わないって、もう何してもダメって言ってるようなもんじゃん!」
「ようなもんじゃなくて、言ってるんじゃないか?」
「あー! コーチっちまで! 酷い!」
「え、えっと、そうじゃなくてね。つーちゃんは可愛いから、無理にメイクなんかしなくても良いってことだよ。やるとしてもナチュラルメイクで十分ってことだよ」
「え、そ、そうかな? エヘヘ」
途端に照れてモジモジし始めた。なんてちょろいんだ。この子は本当に褒められ慣れてないな。そこそこ能力の高い人間にありがちな境遇だ。大抵のことはできて当たり前、みたいな。
「そんなことより。早く止めに行かなくちゃ」
「ん? あ。ありゃ、リュウっちときりっちか。昼に言ってたやつかな」
「つーちゃん、知ってるの!?」
「うん。のぞっちいなかったもんね。なんかね、昼休みにリュウっちが教室に来てね」
ちょっと話があるんだけど、いい? とまぁこんな感じだったらしい。二人で連れ立って教室から出ていったそうだ。クラスメイトはもちろん、阿部も話に入り辛くて、その後どうなったかまでは知らない。帰ってきた小鳥遊が頬に青痣でも作っていたら話も違っていたが、そんな様子もなかった。小鳥遊のお肌はノーストレスの卵肌だった。
「お、兄ちゃんも来たんか。こっちこっち」
「呑気にウェルカムな雰囲気出してんじゃねぇよ。君ら揉めてんだろ」
中沢が悪びれもせず手を振っている。久保と小鳥遊がちらりと目を向けてきたが、すぐに二人の睨み合いに戻った。ほとんど感情を表に出さない小鳥遊だが、今ばかりは険呑な感じがした。
「うぇ……」
綺麗どころの女子の睨み合いというのは、周囲の気圧をぐぅっと下げるらしい。ちょっとやそっとの関係性の人間では近づくこともできなさそうだ。気の強そうな顔立ちの久保と、無表情で冷たい雰囲気の小鳥遊だから、余計にそんな気がする。俺は今からあの空間に行かなくちゃならんのか。
「で、これはどんな状況だ」
楽しそうに笑う中沢とおっとりと微笑む仲村。完全に夏祭りに行く前の顔だ。小西は小西で静かにキーパーグローブを装着している。マジックテープのギチギチという音が無駄に緊張感を高めている。このメンツに違和感があった。
「簡単よ。私が小鳥遊さんに練習日はちゃんと練習に来てって言って、小鳥遊さんはそれを嫌だって言ってるだけ」
「そう」
「それが何でPK対決になるんだよ」
「甘いな兄ちゃん。意見が食い違った時はバトル。これ常識やろ。うちは五人兄弟やから、毎日のようにバトッとるで」
「戦国時代か」
「ちなみにPK対決にしようって言ったのはカロリーナさんです〜」
「はぁ……」
何だ。何かおかしい。話の展開が攻撃的な方に進み過ぎてる。いや、当人達以外が面白おかしい向きに進んでると言うか。この部、そこはブレーキ踏めよという場面でアクセル踏みこむ奴しかいない。
「あ、そうだ! 遠藤は!? 遠藤は何してる!?」
やっと気がついた。常識人の遠藤がいないからこんなことになってるんだ。だが、
「……綾ちゃんは今日はひいお爺ちゃんのお葬式だって。享年九十七歳だそうです」
「……大往生だな」
身内の不幸なら仕方ない。俺的には仕方なくないが、世間的には仕方ない。
「遠藤一人いるかいないかでこんなに違うのかよ」
「ねー。うちのチーム大丈夫かなぁ」
「なになに、リュウっちときりっちって仲悪いの?」
阿部が俺の背中に隠れながら聞いてくる。まぁ、阿部はこの手の事件は苦手だろう。
「えっとね、仲悪いわけじゃないんだよ」
「せやな」
「ですね〜。二人ともそんな子供っぽいことで争ったりしませんよ〜」
「はい。お二人はただ単純に」
役に立たない遠藤以外が真面目な顔で腕を組んでいる。そして、
「「「「相性が悪い」」」」
身も蓋もないことを言い切った。わかってるなら止めてくれよ。




