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少女の翼



「うーん」


 小西カロリーナは人知れず悩んでいた。いや、世間一般で言うところの「悩む」ほど彼女が何かについて深く考えこむことはないのだが、カテゴライズするならやはり「悩み」になるだろう。


「どうすれば狙った弾道でパントキックが蹴れるのでしょうか」


 小西は南米型のパントキックを習得しようとしている。だが、これがなかなか難しく、一向に上達しない。今日の試合でも六回パントキックを蹴る機会があったが、及第点に届くキックは二つしかなった。また、失敗した内の一つは相手にカットされて、失点まで喫してしまった。これは良ろしくない。

 ゴールキーパーが守備専門の選手だった時代は、とうの昔に終了した。キーパーはカウンターの起点であり、ビルドアップの要である。海外のトップレベルの試合でも、キーパーのパントキックがそのままアシストになることがある。小西はそれを目指している。と言うわけでもないのだが、上手くなれる箇所があるなら上手くなりたい。南米型のパントキックができれば目立つし。格好良いし。


「うーん」


 小西はとても悩んでいる。


「うーん。うーん」


 とてもとても悩んでいる。


「うーん。うーん。うーん!」


「……どうしたの?」


 やはり最初に構ってくれるのは遠藤だった。他の者は意味もなく空を見上げている。


「お弁当忘れた?」


「え? 何故そんなことを? もしや、遠藤さんは試合中にお弁当のことを考えているのですか?」


「いや、私は考えてないけど」


「そうですか。良かった。気を付けてくださいね。試合では一瞬の油断が命取りになりますから」


 小鳥遊以外の全員が「お前が言うな」と思ったが、口には出さなかった。


「パントキックのことを考えてまして。どうすればカッコいい弾道になるのでしょう」


「あー。パントか。私もあんまりよくわからないんだ。ごめんね」


「そうですか。キックの上手い遠藤さんならばもしやと思いましたが、やはり勝手が違いますか」


「うん。手に持ったボールを蹴るって状況がないからね」


 パントキックやドロップキックはサッカーの中ではかなり特殊なプレーだ。他のスポーツで例えるなら、バレーやテニスのサーブが近い。自分の手でコントロールしたボールをプレーする。この感覚をフィールドプレイヤーと共有するのは難しい。


「あの、多分だけど」


 だが、ここで手を挙げた者がいた。階段の一番下でスポーツ飲料を飲んでいた阿部だ。


「カロっちはトスを上げすぎてるんだと思うよ」


「ふむ?」


「サイドボレーって、よっぽどボールの下か上を蹴らない限り、勝手に弾道が低くなるんだよ。でもカロっちはトスが高いからボールの下を蹴りやすくなっちゃってる」


 人間が脚を横に振るためには、必ず上体が斜めになる。その体勢を片足で長くキープするのは難しく、よほどの体幹とボディバランスがない限りは身体が揺れてしまう。トスを高く上げるということは、身体が揺れる時間が長くなるということだ。体勢が不安定になればキックも不安定になる。体勢を安定させる手っ取り早い方法は、時間を短くすること。そして、


「それで、下を蹴りやすくなってるのを頭で意識しすぎて、無理に脚を上げて横から蹴ろうとしちゃってる。そのせいで今度はボールの上を叩いちゃってるんだ。見てて」


 阿部は右足の踵でボールを蹴り、軸足に当てて上に擦り上げた。それを右手に載せるようにキャッチする。オーソドックスなヒールリフトだが、そのボールが胸の近くまで上がるのは凄いことだった。


「おぉ」


 何気ない瞬間だったが、彼女の技術の高さが集約されていた。外野で眺めていた仲村が感嘆の声と共に拍手する。


「えへへ」


 軽く照れながら頬をぽりぽりかいた後、阿部がパントキックのモーションに入った。


「トスは上げるんじゃなく、落とす。もしくは空中に置く。それで脚は上げすぎず、膝下の振りで正確にミートさせるっ、と!」


 阿部が蹴ったボールは、高さ五メートル程度の山なりを描きながら飛翔し、遠くのゴールネットを揺らした。距離にして約束四十メートルほど。大して力を入れている風はなかったのに、それだけの距離を飛んだのだ。


「凄い!」


「なるほど。確かに、私は低く蹴るために上を蹴ろうとばかりしてましたね」


 小西の理解も非常に早かった。単語十個の英文を読むのには二十分かかるのに、サッカーの話だと一発だった。英語教師の苦労が可哀想になってくる。


「つー、凄く詳しいね。わかりやすかったし、もしかしてキーパー経験あるの?」


「ううん。僕はやったことないよ。でも、お父さんがキーパーだったから。ちょっと教えてもらってたんだ」


「ほほう。それは羨ましい限りですね。私も今度ご指導を賜りたいくらいです」


「あー、ごめん。お父さんは東京だから、それは難しいかな」


「おや、残念」


 阿部は母親と一緒に母方の祖父母の家に引っ越してきた。父親だけは東京に残っている。


「ねぇ、もしかしてだけど、つーのお父さんって、阿部司さん?」


 すると、久保が別の切り口から会話に入ってきた。思いがけない展開に、阿部と久保の二人以外が話に置いていかれた。


「あ、嬉しいな。お父さんのこと知ってるんだ」


「うん。たまにユーチューブの動画に出てくるから」


 久保はネットでサッカー関連の動画をよく見る。その視聴幅は最新の試合結果から、何十年前のスーパープレーまでと幅広い。そこにはゴールキーパーのスーパープレーも含まれている。


「つーのお父さんね、元プロ選手だよ」


「え、そうなの!?」


「凄いね! 知らなかった!」


 中沢や仲村も話を聞こうと集まってきた。親族にプロスポーツ選手がいると言うのは凄いことだ。彼女達の反応を見て、阿部が恥ずかしそうにはにかむ。


「まぁ、あんまり試合出てないしね。J1ではリーグ戦1試合、天皇杯2試合、カップ戦3試合。J2ではリーグ戦35試合、天皇杯6試合、カップ戦6試合。ね? 少ないでしょ?」


 謙遜しつつも、阿部は父の出場試合数をそらで言ってみせた。それだけで父に対する尊敬の強さが伝わってくる。


「少なくなんてないよ。それに、つーのお父さんって知る人ぞ知るって選手だし」


「あはは。確かに。そうかも」


「どういうことですか〜?」


「344日ぶりのワンタッチって検索すれば出てくると思うよ」※


 344日。それは、阿部司が公式戦に出場しなかった期間を指している。阿部翼が六歳、阿部司が三十一歳の時で、彼のプロ生活八年目のことだった。


「プロのキーパーって、試合に出れない人はホントに出れないからね。お父さんはそれだったんだ」


 プロチームでは基本的に三人以上のゴールキーパーが所属している。スタメンのキーパー、控えでベンチに入るキーパー。そして、控えの控えである第三キーパー。

 サッカーは十一人がピッチに立てる競技だが、ゴールキーパーの枠は一つだけ。例えベンチに入れていても、負傷や退場などの大きなアクシデントが無いかぎり、控えキーパーに出番はない。もしチームに絶対的なゴールキーパーがいれば、そのチームで試合に出場することはほぼ不可能になる。

 阿部司は大卒でJ1チームに入ったが、なかなか出場機会を得られず二年目からJ2のチームにレンタルされた。しかし、そこでもファーストチョイスになることはできず、セカンドキーパーに甘んじることになった。その後はそれなりに試合に出た時期もあったが、三十一歳の春、とうとう第三ゴールキーパーになってしまった。

 ゴールキーパーとして一番脂の乗った年齢で第三ゴールキーパーに。先発は外国人に、控えは若手に奪われた。その年、阿部司はシーズンの終了と共に現役を引退することを決めた。


「僕、お父さんが試合に出てるとこ殆ど見たことないもん」


 幼いながらに、阿部は父の実情を感じ取っていた。父がプロとして生きることは難しい。だから毎日練習に行く父の背中を好意的には見れなかった。また同時に、そんな父に何も言わない母のスタンスにも違和感を感じていた。そして、そんな状況なのに、父は娘に言うのだ。


 ーーお父さんは、いつでも試合に出れるよう準備しているんだよ。


 そんなの嘘だ。強がりだ。カッコつけてるだけだ。心の中でいつもそう思っていた。


「何かね、お父さん右利きなのに、いつも左手でお箸持つんだ。キーパーは両手を同じように使えなくちゃダメなんだって」


 阿部の父がプロとして上手くいっていなかったと聞いて、桜峰の面々は少し気まずい空気になっていた。元プロだと言うだけで興奮してしまったことに負い目のようなものを感じているのだ。はっきり言って、阿部の語り口も自嘲的だった。だが、


「でもね、お父さん、シーズン最後の試合で、出番が回ってきたんだよ」


 それは、彼の所属するチームにとっての大一番。四位につけた彼らが対戦するのは、「勝ち点差二」で三位にいるチーム。勝てばJ1昇格。負けか引き分けでJ2残留。※

 この試合、阿部司は久しぶりにメンバー入りした。スタメンのゴールキーパーが累積警告で出場停止になったのだ。もちろんスタメンではない。試合が白熱するのは当然予想されたが、監督はゴールキーパーの交代よりも、フィールダー達をいかに上手く使うかを考えていただろう。


「その試合は僕も観に行ったんだ。お父さんの最後の試合だったし、リーグ戦でベンチに入ったのも久しぶりだったから」


 だが、その日の試合展開は阿部司が必要とされないものだった。前半のうちに3−0。J1昇格を確実視したホームサポーターは、文字通りスタンドで踊っていた。チーム史上初のJ1参戦は手のひらの中。ハームタイム中は誰もがそう思っていた。

 しかし後半、アウェイチームが捨て身の攻撃を仕掛けてきた。いきなりフォワードとサイドハーフを投入の二枚代え。4ー4ー2を3ー4ー3にし、攻撃の圧力を一気に高めてきたのだ。ホームチームはこのフォーメーション変更に戸惑い、後半開始五分で失点。さらにその十分後に二点目を奪われ、三十分近い時間を残して一点差に迫られてしまった。こうなれば、アウェイチームは選手、サポーター共々ボルテージを上げてくる。後半のポゼッションスタッツは31対69。ホームチームは怒涛の反撃に晒された。

 そして八十八分。何とか耐え忍んでいたホームチームに衝撃が走る。相手センターバックと接触したゴールキーパーが、肘の靭帯を痛めたのだ。ただでさえ劣勢なのに、交代枠をゴールキーパーに使わなければならない痛手。代わりに出てくるゴールキーパーも、344日間も公式戦出場がないということへの不安。ホームサポーター達の殆どが最悪の結末を思い描いた。


「それで……」


 ここからが良いところと言うタイミングだったが、


「二試合目、始めるよー」


 休憩が終わってしまった。


「えぇ……」


 結末を知っている阿部と久保以外がちょっと残念そうな顔をする。だが、自分達はおしゃべりのためにここにいるのではない。すぐに頭を切り替える。


「皆んな、行こう」


 ピッチに出る七人の背中を見て、阿部の足が止まってしまった。


 ーー僕、出るの? 出て良いの? 出られるの?


 先ほどまで饒舌だったのに、いきなり身体が凍りつく。その時、


「阿部。どうする」


 頭上から声がした。見上げると、目付きの悪い眼鏡の男がタバコを片手に阿部を見下ろしていた。


「出るのか。出ないのか」


 強制する気が一切ない質問だった。身体はまだ凍っている。だが、父のことを思い出した。そして、父のことを知っていたチームメイトの目を。


「出る。僕は出るよ」


 拳を握ってそう言った。それを聞いたボサボサ頭の男は、


「そうか」


 一言だけ呟いて、まだ半分残っているタバコをコンクリに押し付けた。

















 阿部司。知らない名前だ。土手下で咲いた選手達のお喋りを聞いた後、スマフォで検索をかけてみた。出てきた動画の中で、一番再生数が多いものを視聴する。

 その動画の中で、阿部司のボールタッチは一回だけだった。


「……」


 そこそこ感動的で、日本人が好きそうな動画だ。だが、俺がこれを見返すことはないだろう。超一流選手のスーパープレーやハイライトに比べれば、少しばかりショボい。

 スマフォをしまい、ピッチに視線を戻す。再び桜峰のキックオフで始まったのは、市役所の好意かそれとも高慢か。

 久保から阿部へ、阿部から小鳥遊へ、小鳥遊から仲村へボールが繋がっていく。相手のプレッシャーは緩かったが、それを突破できる技術は桜峰にはなかった。仲村がピッチ中央のタッチライン際からドリブルを仕掛けるが、攻撃の芽にすら成りそうにない。結局は中沢にまで戻すしかなく、そこからの展開も薄い。阿部、遠藤とパスを繋ごうとして、竹内にカットされた。阿部のパスが読まれていた、と言うより、難しいところに無理やり蹴らされた感じだ。


「切り替えっ!」


 小鳥遊が久保の声より一秒早くファーストプレッシャーに行く。だが、バックパスで軽くかわされる。市役所チームのパスサッカーが始まってしまった。桜峰のプレスをシンプルなパスワークでことごとくいなし、時折鋭い縦パスを前線に入れることでリズムを作る。縦、落とし、斜めで逆サイドに振り、そこからワンツー。久保のサイドを切り裂かれる……直前に阿部がプレスバックして裏のスペースを埋めた。市役所チームは強引に突っ込む選択肢もあったが、焦らずボールを戻した。阿部と勝負することを避けた形になる。


 ーーカバーリングのセンスと展開を読む洞察力、インテリジェンスの高さは圧倒的だ。身体能力も高いから、大人の男を相手にしても対人で負けていない。


 オフザボールのプレーは完璧に近い。だが、


「つ! ごめん!」


 中沢が競り合ったこぼれ球を阿部と小鳥遊がお見合いした。位置的には阿部の方が近かったが、またボールを触ることを躊躇い、小鳥遊が取りに行かざるを得なくなった。そして、そこに遅れて阿部が行き、どちらが回収するか分からなくなった。

 それではダメだ。どんなにオフザボールの動きが良くても、今のままでは試合に出せない。


 ーーもっかい同じことをすれば、外す。


 高い位置でルーズボールを拾われた。すかさず大橋氏のポストプレー。中沢、遠藤が氏を囲みに行くが、竹内にバックパスされ、そこから再び久保のサイドに展開される。スペースがある状況での一対一。相手サイドハーフは縦に行くと見せかけてストップ。そして再び縦へ。磨き上げられたプル=プッシュで久保が剥がされ、ない。相手の動きをしっかり読んでいた。だが、まさかこの流れでクロスを上げにくるとまでは予測できなかった。


「凄!?」


 右サイドの相手選手は、ボールの内側に左足を踏みこんだ。身体を捻り、軸足の外から右足を振り抜いてキックする。皆さん憧れの高等技術、ラボーナだ。ニアサイドに上がったボールに竹内が飛び込み、バックヘッド。そのままゴールに吸い込まれていく。

 やられたか。そう思った瞬間、小西の手が伸びてきてボールを弾き出した。


「カロちゃんナイッキー!」


 中沢と軽くタッチしながら、右手でベンチにサムズアップ。サムズアップ。サムズアップ。サムズ……あぁもうわかったよ。


「ないすきーぱー」


 小西は満足そうに頷いた。だが、まだピンチは続いている。フィジカルで優位に立つ市役所チームのコーナーキックだ。すると、


「……?」


 小西が俺に目配せしてきた。これだけ離れていて「そう」だとわかるのだから、俺の勘違いではない。小西の目は、どこに……ふむ。


「久保!」


「なに!」


「上がれ!」


 リスクを避けるなら、桜峰の全員をペナルティーエリアに残すべきだ。だが、俺は小西の狙いに乗ることにした。一点を奪われることを恐れていたら、この試合の意味がない。

 久保を最前線に上げ、カウンターの態勢を整える。市役所チームの二人が久保を上下に挟む守備陣形を取る。

 小西が阿部を呼んで、何か話していた。













「つーちゃんさん」


「なに、どうしたの? あとナイスセーブ」


「はい。ちょっと耳を貸してください。貴女にだけ話すので」


「う、うん。あの、ちょっと近すぎない?」


「貴女のお父さんの教え、とてもためになりました。ありがとうございます」


「あ、いや、僕が言ったわけじゃないから。凄いのは僕のお父さんだよ」


「え? 貴女のお父さんは別に凄くないと思いますが。少なくとも大した選手ではありませんよ」


「………………なに、それ。どう言うこと」


「どうもこうも、娘の貴女の腑抜けたプレーを見れば、誰でもそう思うでしょう。阿部司は大した選手じゃなかったと証明しているのは、貴女自身です」


「……!」


「ま、それは今は置いておいて。つーちゃんさん、良いですか。私はこのコーナーキック、前に出てキャッチします」


「え、えぇ!? それは、ちょっと。向こうの方が高さもあるし……」


「キャッチしたらそのままパントキックでカウンターを仕掛けます。リュウさんは……二人に囲まれているようですが、裏のスペースに低く速いパスを放り込めれば、彼女なら間違いなくブチ抜いてくれます」


「それは……その、絶対無理だとは言わないけど、でも、キックは? 一回も練習できてないよね?」


「はい。イメトレしただけです。ですが大丈夫。必ず成功させます」


「な、何を根拠に、そんな自信満々に言えるの?」


「わかりませんか」


「うん。わからない」


「では聞いてください。普通、キーパーにチャンスなんてものは巡ってきません。そう言うポジションではないので。もしキーパーに何か巡ってくるものがあるとしたら、それはピンチだけです」


「……」


「だから控えキーパーはモチベーション維持が難しい。身体と心を管理するのが難しい。『いつか来るかもしれないピンチ』をずっと待っている。ずっと耐え続けている。その苦しさは、『チャンス』を待っていられる他のポジションの選手とは比べ物にならないでしょう」


「……それは、カロッちがキックを成功させることとどう繋がってるの」


「私がこれからしようとしているプレーは、貴女のお父さんが、私と桜峰に与えてくれたチャンスです。貴女のお父さんが344日間耐え続けてくれたから、私に勝負する瞬間がやって来ました。だから、必ず成功させます。成功できます」


「お父さんが、チャンスを……?」


「私は成功させます。貴女のお父さんの教えで。では、貴女はどうしますか。チャンスが駆けていく背中を、そこで立ち止まって眺めていますか?」


「それ、は……」


「貴女のお父さんは、常に怖がりながらプレーしろと、貴女に言いましたか?」












 二人が何を話しているのかはわからない。ポジショニングや戦術に特別変わった様子も見られない。ただ、何かがあったのは間違いない。

 桜峰のポジションは、ニアに阿部、中央に遠藤と中沢、ファーに小鳥遊。こぼれ球に反応できる位置に仲村。こちらのゾーンに対し、市役所チームはペナルティーアークの中で三人が塊になっている。パワーを持った状態で競り合いに来るつもりだ。集団から離れたファーにも一人いる。


 ーーなんだ? 何故あんな旨味のない場所に選手を置いている?


 俺がその意味を理解する前に、竹内がクロスを蹴ってきた。塊の三人がバラけながら走り込んでくる。

 ニアに二人。ファーに一人。高さのある彼らの所にボールが飛んでくると、桜峰の誰もが思っていた。だが、


 ーートリックプレーかよ!


 ボールは先程まで三人がいた場所にグラウンダーで入ってきた。桜峰の選手達は走り込んでくる三人に意識を持っていかれており、スペースが空いている。そこには、ファーで待機していた一人がディフェンスの視界の外から回り込んできていた。


 ーーそれが子供相手にするプレーかよ、大人げねぇ。


 完全にノーマークだ。無条件で打たれる。そう思った瞬間、


「キーパー!」


 なんと小西がゴールを放置して飛び出してきた。ゴールエリアの外から前向きに横っ飛びという有り得ないプレー。脚を振りかぶった相手の膝下に顔から突っ込む。その度胸試しで先に身体を引いたのは、相手選手だった。小西の腕の中にボールが収まる。そして、


「カウンター!」


 一呼吸も置かずに立ち上がり、パントキックで裏のスペースへ蹴り込んだ。小西史上最高のライナー性のボールが、見事にセンターバックの頭を超える。先にボールに触ったのは久保。ファーストタッチを相手の前に蹴り出した。普通なら相手に身体を入れられてしまう落とし所だが、スピードで勝る久保の身体が先に出た。相手の進行方向を塞ぐドリブルをする。


「リュウちゃん、行ける!」


 ペナルティーエリア手前で完全に振り切った。ペナルティーアークの右側から久保がもう一度ボールを突く、ことはできなかった。完璧なタイミングで間合いを詰めてきた相手キーパーがスライディングでボールを弾き返したのだ。

 そのクリアボールは、


「あん!」


 ハーフウェーライン付近の仲村の元へ来る、直前に竹内に回収された。仲村を背負った状態で正確なトラップ。シザースで外に行くと見せかけて中にドリブルしてきた。仲村が突破され、相手のエースにボールが渡ってしまう。カウンターのカウンター。中途半端な位置にいた遠藤、小鳥遊がほぼいないものとされ、中沢と大橋氏の一騎打ちになる。かなり分が悪い勝負だと言わざるを得ない。

 小太りとは言え、大橋氏は生粋のストライカーだ。バイタルエリア手前でボールを受けて勝負しないわけがない。氏は左手を死角に伸ばし、中沢を抑え込む。目で見えなくてもしっかり相手の位置を把握した。

 右足でボールを収め、逆の左手で中沢を外にかき出しながら強引にターンする。中沢は体格差とタイミングで敗れ、シュートコースを開けてしまった。まだペナルティーエリアの外だったが、大橋氏なら問題なくシュートを打てる。

 大橋氏が軸足を踏み込んだその時、


「っ!?」


 彼の完壁な死角から、阿部が現れた。姿勢を低くして中沢の影に隠れていたのだ。大橋氏から少しだけ離れていたボールを軽くチップし、後から来た脚の振りをかわす。そして、右足のアウトサイドでワンタッチ。大橋氏から距離を取ると同時に、ロングボールを蹴れる態勢を整えた。

 このプレーの少し前、竹内はいくつかミスを犯していた。一つは、自チームのキーパーが前に飛び出しているのに時間を遅らせなかったこと。そして、進行方向に中を選んだこと。カウンターに手数をかけたくないのはわかる。だが、キーパーの位置を考えるならば、もっとセーフティにプレーするべきだった。


 阿部は、最初からそれを狙っていたのだ。


 ゴールまでの扉が開いた。阿部は小柄な身体を限界まで大きく動かす。そのモーションは、イルカが跳ねるように美しかった。


 ーーいった。


 曇空の下、線を引くようにボールが飛翔していく。正確なキックで放たれた超ロングシュートを、相手キーパーは腰に手を当てて見送った。

 阿部はボールの行方を確認しなかった。静かに背を向けて俯く。そして、


「っし!」


 バウンドが聞こえた瞬間、強く拳を握り締めた。市役所チームから奪った初めての得点。それこそが、少女の翼がもう一度羽ばたいた証だった。





 ※作者創作のフィクションです。実際にそういった動画、事実は存在しません。


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