立ち上がるなら
ーーお父さんはね、いつだって試合に出る準備ができていたんだよ。
父の言葉がダイヤモンドよりも輝くようになったのは、阿部翼が六歳の時からだった。初めは父の存在意義を信じ切れないでいたのだが、それは自分の間違いだと気づいた。父があのチームにいた意義は、意味は、確かにあった。
ーーお父さん! お父さん!
休みの日はいつも父を連れ出して、サッカーボールを蹴った。その日々が彼女の今を形作っている。
だが、いつからか父の言葉を思い出せなくなっていた。どうして忘れてしまったのか。いつ無くしてしまったのか。もうそれすらも思い出せない。
「三日か……」
母に見つからないようにこっそり裏口から家に入った。自分はテスト勉強をしていることになっている。軋む階段を何とか昇りきり、何とか部屋までたどり着いた。多分、バレてない。
「三日。三日……。厳しいよね。そうだよね。甘くはないもんね」
自分がこれからどうするかを、三日で決めろと言われた。自分の今の状態を考えると、三日はあまりに短い。だが、妥当な期間でもあると思う。あの目つきの悪い男は、常に合理的で的確だ。桜峰の選手達が彼を「コーチとして」信用しているのもわかる気がする。まぁ、「大人の男性」としては一切信頼していないのも事実だが。
明日は試合だ。八尾の話では相手はかなり強いチームで、何と元プロ選手がいるらしい。そんな相手との試合。自分がどれほど仲間に期待されているかは、痛いくらいにわかっている。痛すぎて顔をあげられない。
怖い。もう怖い。怖くて怖くて堪らない。夜中にコーチの家に押しかける勇気はあるのに、試合に出る勇気が出てこない。
ーー私は、どうすればいいの?
午後からの降水確率は七十パーセント。所によって落雷の危険性あり。市役所チームとの試合の朝、俺がスマフォで確認した天気予報はこんな感じだった。サッカーは多少の雨風ならキックオフするが、雷は別だ。避雷針のない広いピッチでは雷が人間に落ちる。そうなれば命の危険があるし、周りが巻き込まれる可能性も高い。桜峰代表の望と市役所代表の竹内が話し合った結果、練習試合は午前中だけになった。両チームの選手をごちゃ混ぜにして行う試合は中止し、桜峰と市役所チームの試合のみを行う。
「と、言うわけで、コウちゃんから皆んなに何か言うことある?」
試合開始五分前、河川敷のAコート横に七人の選手と一人のマネージャーが集まっていた。土手からウォーミングアップを眺めていた俺だったが、そこまで綺麗に準備されると流石に無視できない。転ばないように慎重に土手を降りて、輪から一歩外れた所に立つ。
「そろそろ、このチームの約束事を決めておきたいと思う。俺からはまず、ピッチに立つ選手の選考方針を」
約束事を決めるのは非常に重要なことだ。意識的にしろ無意識的にしろ、選手達がイメージを共有し易くなる。それだけで判断に迷いや遅れがなくなり、一秒を争う勝負で優位に立てる。今から俺が話そうとしている選考方針はそれとは少し違うものだが、これを決めておけば試合のための準備をより繊細にできるようになるはずだ。
「まず一つ。怪我人、病人は試合に出さない」
怪我や病気にも様々な種類があるが、重い軽いは関係ない。いつもより体温が0.5度高いだけでもアウトとする。
「サッカーは楽しいだけで成り立っていない。試合ってのは常に危険を伴う。コンディションが悪ければ悪いだけ、大怪我を負うリスクが高まる。コーチとしてそれを看過ごすことはできない。だから、試合には出さない」
コンディションを整えるのも選手の能力に含まれる。そこを疎かにしている者の信頼度が低くなるのは当然のことだ。とは言え、他人がどんなに注意深く観察していても、選手の全てを把握するのは無理だ。特に体調管理などは、判断材料を自己申告してもらうしかなく、若干の曖昧さが生まれてしまう。せっかく決めたチーム方針を不確かなものにしてしまうのはもったいない。と言うか、それはチーム崩壊に繋がるものだ。だから、
「試合に出さない、という部分を明確にしておこう。俺がここで言う『出さない』は『絶対』だ。全国大会の決勝だろうがスカウトが観に来てる試合だろうが、バッドコンディションの奴は出さない。君達の場合は一人減れば試合は中止、棄権になるわけだが、それも躊躇しない」
チーム方針を歪めて勝つくらいなら、敗けを選ぶ。例外を一度でも作ってしまうと、ズルズル引きずられてどんどん大きくなっていく。それを避けるためには、「絶対」であらねばならない。それを一番最初の段階で強調、念押ししておく。このチームの少女達(仲村除く)はとても素直なので、俺の言うことに厳しい顔をしながら頷いた。
「次は少し小難しい話になるが、試合でベストを尽くさない選手。これも出さない。これの一番大きなパターンは遠慮だな。遠藤には一度話したが」
すると、小鳥遊を除く全員が「え?」という表情で遠藤に視線を向けた。向けられた遠藤は何も言わずに目を伏せる。何だかよくわからないが、彼女達の間に違和感が生まれる箇所があったらしい。
「勘違いしないで欲しいが、緊張してプレーが弱くなっているのはここに含まれない。試合前の恐怖心は誰にでもあるものだし、それは決して悪いものじゃない。緊張や恐怖心があるからこそ、集中力が飛び越した時にプレーが良いものになっていくからな」
思いっきり阿部に宛てた言葉だが、流石に彼女だけを見て話したりはしない。
「俺が君達に求めるのはこの二つ。これは絶対に緩める気はないし、もし俺自身が気付かない内に緩んでいたなら、君達から指摘して欲しい。二言三言くらいなら聞いてやる」
「そこはちゃんと聞きなさいよ」
久保がお決まりのようにツッコミを入れてくる。が、無視する。
「戦術に関しては考えているところだから、もう少し待ってほしい。来週中には決定するつもりだ。君達の意見も聞くつもりだから、聞いた時には答えてくれ」
阿部が入部してくれたおかげで、戦術を練りやすくなったのは間違いない。ただ、阿部が自分の進路をどう選ぶかで大きく変わってくる。そこを含めての一週間だ。
「今日はとりあえず、左から仲村、中沢、久保。中盤に遠藤と阿部、小鳥遊は一番前に張っていてくれ」
「私の名前がないです」
「君はキーパーだよ」
「承りました」
選手にはポジションを指示されるのを好む者と好まない者がいるが、小西は前者らしい。
「それじゃあ、整列しよっか」
久保を先頭に桜峰の選手達がセンターラインの近くに整列した。それと対をなすように市役所チームも並ぶ。今日は市役所チームも七人しか集まらなかったらしく、メンバーは同数だ。ただ、向こうには竹内はもちろん、元リーガプロの大橋氏もいる。戦力差は歴然だ。
「お願いします!」
「「します!!」」
ポニーテールを跳ねさせて挨拶するキャプテンに、他の選手達が続く。練習試合と言えど、取るべき形は静粛に。試合ができるありがたさを誰よりもわかっている桜峰の選手らしい姿勢だった。その列の最後尾に、阿部がいた。見るからに緊張している。汗のかき方がすでに尋常じゃない。
「ねぇコウちゃん」
「なんだ」
「昨日、つーちゃん来たよね。どんな話してたの?」
「髪染める時はちゃんと美容院行けよって話」
「なんで嘘つくの」
「嘘じゃない。自分で染めて失敗したって言ってたぞ」
「そんなのわかってるよ。うちって校則ゆるいから奇抜な髪型の人が結構いるけど、つーちゃんはトップテンには入ってるからね」
「一番じゃないのかよ」
それでいいのか進学校。
「なんかね、こっちに転校してくる前に一念発起して染めようとしたんだけど、地域に美容院がなかったんだって」
「えぇ? 東京から来たんだろ? 美容院が無いなんてことあるのか?」
「うん。つーちゃんって埼玉から電車通学してたんだって。ボクの住んでたとこはほとんど群馬だったからって言ってた」
「群馬県民を敵に回す発言は止めろ」
まぁ、都会じゃ通勤通学に一時間二時間かけるのは当たり前だからな。そういうこともあるか。
話がいい感じに逸れたところで、ピッチに視線を戻す。望も話を逸らされたことはわかっているようだったが、深追いしてこなかった。俺を信頼している、というわけではなさそうだが。
ピッチでは七人vs.七人の三十分が始まっていた。今回はお互い同数なので、レフェリーはいない。レフェリングは全てセルフジャッジで行う。
キックオフで小鳥遊が中沢にまでボールを下げた。中沢、遠藤、阿部なら安心してビルドアップできる。市役所もそれをわかっているのか、あまりプレスをかけてこない。阿部は全くの新顔のはずだが、こっちのアップを見られていたのだろう。なんて大人げない連中だ。だが、彼らの計算には誤りがある。彼らがアップの段階から注目し危険視したであろう阿部は、試合ではその実力を発揮できない。
自陣で中沢と遠藤の二人がスペースを使いながらパスを回す。遠藤に斜めのパスを入れた後、中沢は横にスライドし、リターンパスのコースを作る。パスを受けた遠藤も、相手の守備に穴が無いことを確認すると、コースを作ってくれていた中沢にバックパス。そして中沢と同じ位置にまでポジションを下げ、横パスを受ける。細かい動き直しを繰り返したパスワークは、市役所チームをもってしても捕まえられなかった。だが、これは決して二人だけの上手さではない。二人が動くことで生まれる、「カウンターされると危険な場所」を毎回潰している阿部がいるからできるプレーだった。中沢がサイドに出過ぎたら中央を埋め、遠藤が下がりすぎたら中盤の穴を閉じる。そう言う気の利いたプレーを阿部は常にやり続けている。この「地味すぎて誰にも気づかれないが最も重要でインテリジェンスなプレー」こそ、阿部の真骨頂だった。
ーーボールを持たない時はよく動けてる。昨日よりはずっと改善されている。
おそらく、阿部の凄さに気づいているのは元リーガプロ選手の大橋氏だけだ。俺だって、ピッチの上から観察しているから何とか掴めているに過ぎない。
阿部はやはり、とんでもなく素晴らしい選手だった。高校一年の時点であそこまで完成されているのは驚異とすら言える。生まれ持ったセンスもあるだろうが、かなり緻密にサッカー論を教え込まれたに違いない。だが、
「っ!?」
右サイドの久保から小鳥遊へクサビのパスが入った。だが、久保のパスは斜め上にズレてしまった。ファーストタッチをミスしていたのが後のプレーに悪い影響を残した形だ。桜峰の攻撃がここで途切れる。ことはなかった。小鳥遊がひらりと半回転して右足の踵にボールを当て、落としのパスにしたのだ。どう言う身体能力してんだと思わされるが、俺が注目したのはその次だった。
「サイド!」
落としのパスを受けたのは阿部だった。久保のパスが酷すぎて、絶対に小鳥遊がミスると思っていた市役所チームは、意識が中に寄っている。おかげで仲村の前にスペースが空いた。あとはそこに放り込むだけだ。が、阿部はパスできなかった。落としのパスに対する出足が遅れたのだ。阿部にボールが渡るまでの時間が長くなる。そしてそれを見逃す竹内ではない。的確なプレッシングで阿部に身体をぶつけ、ボールを奪い取った。即座に反転、迷うことなくエースにボールを託す。
「っ! のっ!」
不動のエースのトラップは完璧だ。水の流れのようなスムーズさで反転し、シュートコースを作り出す。バイタルエリアから少し右に逸れた位置で右脚を振り抜く。と見せて切り返す。遠藤のブロックは無いものにされ、中沢のカバーは間に合わない。
「う、わ」
望が思わず声をあげてしまうほどの滑らかさ。左脚から放たれたシュートは、弧を描いて逆のサイドネットに突き刺さった。小西は一歩も動けず。市役所チームが先制点を挙げた。
「うわー。大橋さん凄すぎ。あんなの止められっこないよ」
「凄いのはわかってたことだろう。あの人を対策するんじゃなく、あの人にボールを持たせないための対策をするんだよ」
「え、じゃあコウちゃん、対策思いついてるの!?」
「いや全く。あれは駄目。止めようがない」
「ダメじゃん! うー。でも、そう言われても納得しちゃうもんな。大橋さんってもうチートだよ!」
二人がかりでも抑えられないオールラウンダーなワントップ。中盤で相手ボールを刈り取りまくる竹内。そしてシュートブロックの上手いゴールキーパー。市役所チームには前、中、後ろにそれぞれ優秀な選手が並んでいる。強いラインを作るというのは、勝てるチームの重要な要素だ。力の差をまざまざと見せつけられた。だが、
「切り替え! 切り替え! まだ時間あるよ!」
「はい〜。さっきのは惜しかったですし、まだチャンスはありますよ〜」
「そう言うわけだから、アヤ、ユリ、よろしくね!」
「おうよ。任せとき!」
市役所チームとの試合は二度目だ。力の差があるのはわかりきっているのだから、いちいち凹んでなどいられないのが現実だ。
中沢も仲村も、遠藤も久保も、自分たちより圧倒的に強い相手と闘ったことで、小さくない心的ダメージを受けている。それを晴らすには今日しかない。
「つーもだよ!」
俯きそうになっていた阿部が、久保の声にハッとして頭を上げる。
「つーがいないと後ろがぐちゃぐちゃになっちゃうの、ホントにごめんなさい! 私も意識するようにするから、変なことしてたら教えてね!」
「え、あ、うん」
「よーし。切り替えていくよー! カロ、ボール上げて!」
「了解です」
桜峰が活気をともり戻す。久保の声かけには、不思議な力がある。久保は、チームが危ない時、個人が弱気になっている時に、声を上げられる。もう一度行こうと、まだ行けると、崩れそうな部分を引っ張り上げてくれる。
「小鳥遊さん! 次はもっとちゃんとパスするから!」
「ん」
そして、それをサボらない。声をかける時は必ず全員に。簡単なようで難しい。久保の真っ直ぐで清廉な性格だからできることだった。
ーー皆んなが君に期待している。だからって、君が失敗して失望する奴はいない。
阿部は東京から逃げてきた。逃げることは間違いじゃないし、彼女の心を守るためには必要なことだった。それに、阿部は最高のラッキーを手にしたのだ。この桜峰というチームには、阿部がもう一度立ち上がるための全てが揃っている。
試合は進んでいく。無情に。残酷に。手加減をしてくれない大人達を前に、桜峰は凍えるような劣勢を強いられた。桜峰のスコアが0のまま、相手のスコアだけが伸びていく。
だが、ただやられているだけではない。選手達は常に勝負を挑んでいた。久保はシュートを、仲村はドリブル突破を、遠藤はパスを、中沢は大橋氏とのマッチアップを、小西はセービングを。自分の出来ることで闘っている。
それを貫き通せるならば、負けたとしても終わりではない。最初の三十分が終了する頃になっても、選手達の瞳はギラついていた。
ーーここなんだよ。阿部。ここで立ち向かうしかないんだよ。
今日の阿部に残されたのは、あと二本。




