新しい仲間
帰宅という言葉には、無条件に疲労も引っ付いているものだ。仕事なり学校なり、外出した理由に一先ずの整理をつけてきたのだから、多少の達成感や安心感もあるだろう。だがしかし、今日の中沢百合子はもっと別の、言うなれば衝動的な感情に襲われていた。
「たぁだいま〜」
「あ、姉ちゃんおかえりー。風呂沸いとるよー」
「あんがとー」
奥の台所から、中沢家長男にして冬音の双子の弟、冬弥(14歳)の太い声が聞こえてくる。第二次性徴期に入った上の弟は、ここ数ヶ月で身長をメキメキ伸ばし、とうとう百八十センチを超えてしまった。全体的に小柄な中沢家において、冬弥は非常に稀有な存在だった。
「あれ、珍しくお疲れだねー」
「いやぁ、疲れたのは疲れたんやけど、ちょっと意味がちゃうと言うか……」
「んー?」
玄関扉を網戸に変えて、涼やかな夜風を家の中に通す。直後、中沢はショルダーバッグを肩から下げたまま、上がり框に突っぷした。今日の掃除当番は湖月と綺月だから、はっきり言ってあまり綺麗ではない。それでも突っ伏さずにはいられなかった。花壇にまいた肥料の匂いが仄かに香っている。
「あー! ねーちゃんおかえりー!」
「おかえりー!」
「あぁ、ただいまぁ」
「ねーちゃんおつかれだ!」
「おつかれだ!」
今日の玄関掃除を担当した二人の弟妹が、ニコニコしながら走り寄ってきた。中沢家次男にして綺月の双子の兄、湖月(5歳)と、中沢家三女にして湖月の双子の妹、綺月(5歳)。この二人は家族以外では見分けがつかないほど似ている。弟妹達が期待のこもったどんぐり眼で長女の身体を揺する。近頃なぜか冬弥のTシャツを着たがるようになり、今も裾を床に引きずっていた。ちらちら見え隠れする二人の足が、寝転ぶ中沢の目線と同じ高さにあった。
「ねーちゃんいっしょにぬりえしよー!」
「だめ! ねーちゃんはうちとおりがみするの!」
「うそうそ! ねーちゃんとゆびきりしたんやぞ!」
「うちだってしたー!」
仲良くお出迎えしたのも束の間、兄妹が早速姉の取り合いを始める。昨晩、元プロ選手と対戦できることにテンションの上がった中沢が、双子二人と別々に遊ぶ約束をしてしまったせいだ。姉が帰って来るのを今か今かと待っていた5歳児達は、互いに譲り合うことを知らない。まだ5歳なのだから知らなくて当然だ。今更になってやってしまったと気づいた中沢だったが、二人を宥める方法が思いつかない。喧嘩がエスカレートしていくのをただただ傍観する。すると、
「こら。姉ちゃん疲れとんやから、あんま困らせたらあかんやろ。遊んでもらうんなら冬音姉ちゃんにしぃや」
喧嘩の騒音を聞きつけた冬弥が間に入ってくれた。双子の後ろ襟をそれぞれ掴んで左右に引き離す。だが、二人はぐずるのをやめない。
「やだー。ふゆねぇなにやってもへたなんだもん」
「だよねー」
「ぶきっちょ。ちょうぶきっちょ」
「聞こえてんぞチビども!」
鍵盤ハーモニカの右端から鳴ったみたいな怒声が響いてきた。中沢家次女にして冬弥の双子の姉、冬音(14歳)の声だ。上の双子は二卵性のため、あまり似ていない。冬弥は目鼻立ちのはっきりしたソース顏。冬音はきりっとした一重瞼が目立つしょうゆ顔だ。また、冬弥は五分刈り、冬音はワンレンと両極端な髪型をしているため、血が繋がっているようにすら見えない。唯一共通しているのは、姉譲り、と言うか母親譲りのさっぱりした性格だけだ。
「ゆり姉ちゃんおかえりんご。ねぇ、後で因数分解教えてくれへん? なんかもうぐちゃぐちゃやねん」
冬音は数学が大の苦手だった。今も眉間に皺を寄せて教科書と睨めっこしている。
「お前な、俺の話聞いとらんかったんか。姉ちゃん疲れとんやぞ。わからんとこは俺が教えちゃるけん、ゆっくりさせてあげれや」
「なんやお前。うちはちゃんと『後で』って言うたやろ。話聞いてないんはどっちや。それに、お前に教わるなんか死んでも嫌や」
「んやとコラ。因数分解の公式でドタマぶち抜くぞ」
「弟がナマ言うなオラ。そのオタマでシバいたろか」
「はぁ? 数分先に産まれただけで姉貴ズラすんなよな」
「数分後に産まれたんはお前の責任やろ」
「取り上げた助産師の責任や」
上の双子は昔から仲が悪く、何かある度にすぐ衝突する。その回数は年々増加しており、近頃は顔を合わせるだけで顰めっ面になる。
中沢家の五人兄弟が全員集まったことで、広くない玄関の空気が一気に熱っぽくなった。中沢家には、家族が帰宅してきたら必ず全員で出迎えるというお家ルールがある。共働きで帰宅の遅い両親が、子供の顔を一秒でも早く見たいがために作ったルールだった。割と横暴な取り決めだが、二男三女の子供達はこのルールを律儀に守っている。
「あーわかったわかった。湖月、綺月はご飯食べた後で遊ぼな。冬音は寝る前に一緒に勉強しよか。うちも宿題あるし」
長男と次女、次男と三女が双子という少し特殊な中沢家では、長女の中沢にかかる負担が大きい。妹弟達は一番上のお姉ちゃんにべったり甘えるし、家を空けがちな両親も、ついついしっかり者の長女に頼ってしまう。中沢百合子の日常生活は、学校よりも自宅の方が何倍も忙しい。だが、中沢は持ち前の器用さと要領の良さ、何より度量の広さで、こういう家庭でも楽しく暮らしている。彼女にとってはこの日常が当たり前で、両親のために我慢しているとか、弟妹達を煩わしく思っているとかは全く無い。
「まぁ、姉ちゃんが良いなら構んけど。あ、せや。姉ちゃん、今日の味噌汁の具、何がええ?」
夕食作り担当の冬弥と冬音が揃って不器用なため、大体いつも中沢が隣で手伝っている。ただ、今日ばかりは手伝ってあげられそうにない。
「ん……。シジミと油揚げ、あと玉ねぎ」
「おっしゃわかった。おい冬音! スーパー行ってこい!」
「姉を顎で使うな! ったくもー。おら、チビども行くぞ」
「うおー! おつかい!」
「わーい!」
基本的に四人とも中沢のことは全員大好きなので、少しでも役に立てるのなら積極的に働く。中でも冬弥と冬音は、中沢の代わりに幼い弟妹の面倒をよく見てくれていた。今も、これ以上喧嘩をしないように一緒にお使いに行ってくれている。
三人が賑やかにお喋りしながら近お使いに出かけた。それを見届けてから、中沢は風呂に直行する。中沢家は父親の趣味で一階に内風呂、二階に外風呂がある。外風呂は高い塀に囲まれているので、ご近所に見られることもない。中沢はスパイクとスパイク磨きセットを持って、階段をゆるゆるとあがった。汗と制汗剤の匂いのする練習着を脱衣所で脱ぎ散らかし、一糸まとわぬ姿で外に出る。ふわりとした風が脇腹の辺りをくすぐってきた。その瞬間、
「恥っっずぅぅぅ……!!」
中沢は顔を両手で隠して座り込んだ。右手に持っていたスパイクがころころと転がる。
「どこまで通用するか楽しみ! とか、どの口が言うねん……!」
誰にも見られない浴室で、耳まで真っ赤にして悶える長女の姿がそこにはあった。
中沢は大橋氏とのマッチアップを思い出す。だが、時間をかけて記憶を辿っても、はっきり脳内に描ける部分はほとんど無い。それがより彼女の羞恥心を撫で上げる。何がどうなって負けたのかもわからないから、記憶に残ってすらいないのだ。気がついたら大橋氏が視界からいなくなって、突然現れて、また消える。振り向いた時には、ボールがゴールに入っていた。中沢と大橋氏の間には、大人と子供以上の実力差があった。完膚無きまでに、というのはこういう事なのだと精神に叩き込まれた。
同年代、同性との勝負で負け知らずだった中沢は、センターバックとしての強い自負を持っていた。それゆえに今日の完敗は、頭頂から漬物石をぶつけられたような衝撃だった。羞恥で身体を震わせる。
「い、井の中のカワズ……。いや、もうミジンコレベル……!」
中沢百合子。長女ゆえに実は打たれ弱い。己の脆弱さと慢心、その両方がひたすら恥ずかしい。穴があったら入りたくて、一人になれる外風呂に直行してきた。だが、
「……ふぅ。スパイク磨こ」
中沢百合子。長女ゆえに立ち直りも早い。シャワーでざっと汗を洗い流し、ミズノのスパイクを手に取った。トロトロしていたら三人が買い物から帰ってきてしまう。中沢家の長女に与えられた時間は長くない。
それに、中沢は思うのだ。今日負けたのなら、明日勝てばいい。この理屈が現実的でないとしても、一日を正しく終えようとする気構えがあるなら、負けは負けで終わらない。中沢はそう信じてサッカーと向き合ってきた。今やるべきことは、一日頑張ってくれたスパイクの手入れ。もう一度冷たい水で顔を洗って、気分を入れ替える。
「はぁ。あした兄ちゃんに聞いてみよかな……」
スパイクを磨き終え、軽く溜め息をついた。立ち直りの早い中沢でも、敗北を引きずることはある。自分の何が足りなくて通用しなかったのかがちっともわからないのも大きい。これが壁なのか。だとするならば、結構高い。
「やっぱり兄ちゃんに聞くしかないな」
藍から黒へ変わってゆく星空を、中沢は湯船に浸かって見上げていた。浴槽の縁に後頭部からもたれかかっていると、身体の芯がゆっくりと温まっていく。心地良さに身を任せ、そっと目を瞑った。結局のところ、やるべきことは、変わらない。
また明日から頑張って練習しよう。今まで通りを今まで以上に。
「今年中に、一回くらいはボール奪ったる」
脚を投げ出し手を伸ばし、ご近所さんに聞こえない程度に叫んでみた。
月曜日、八尾望は最後の正念場を迎えていた。公太郎が提示してきた条件、「月曜を休みにする」の履行期限が、すぐそこまで迫っているのだ。
「んー」
指先でシャーペンを回転させる。文章を書く手が止まっている良い証拠だった。机に広げたノートには、月曜休みのメリットが箇条書きで書かれている。これを交渉材料にするつもりなのだが、どうにも物足りない。あと一押しが必要な気がする。だが、ここ数日色々と考えてみても、上手いアイディアは浮かんでこなかった。ここから先は他の部員、主に遠藤綾と中沢百合子に頼るしかなさそうだ。
「あ、おはよう。小鳥遊さん」
「おはよう」
ホームルーム開始五分前、ギリギリに登校してきた小鳥遊が八尾の隣に座る。彼女はいつも学校に一番遅く来て、一番早く帰る。
「ねぇ小鳥遊さん。月曜休みにするのに何か良い案ないかな?」
ノートを見せてみる。小鳥遊は鞄から勉強道具を取り出しながら、瞳の動きだけで文字をなぞっていく。そして、
「成績かな」
簡潔に言った。
「……やっぱそうだよね。でも、それだとなぁ……」
成績の良い部活からの要望なら、学校側も耳を傾けるだろう。周囲の理解、同意も得られやすい。やはり部活動の発言権というのは、強さや伝統、人数に比例して強くなる。だが、サッカー部は絵に描いたような弱小で、そもそも部員数が足りない。
強くなるために必要なものが、強くないと手に入らないという悲しき二律背反がそこにはあった。
「人数のことも後回しにはできないしね……」
小鳥遊の入部により、桜峰サッカー部の部員は七人になった。試合をする上で必要最低限の人数が揃ったことになる。だが、それはマナージャーである八尾を含めての話だ。実際には、八尾は選手としてピッチに立つことができない。ただユニフォームを着るだけなら可能だが、それだと本質的な意味がない。八尾自身もそんな形でサッカーに関わるのは不本意だ。だから、どうしてもあと一人必要なのだ。
「勧誘が先か交渉が先か……」
猶予はないが、焦るのもよくない。とりあえず、もう一人くらい入部してくれそうな人を探すか。
「おーい。席つけー。ホームルーム始めるぞー」
八尾が一人唸っていると、一年四組の担任、門川が入ってきた。ポマードで七三に固められた髪を更に撫で付けながら、出席簿を教卓に置く。どんな時も真顔を崩さないロボットのような男だが、話してみると意外と気さくで、普通にジョークも言う。二十七歳、あまり知られていないが、実は既婚者。
「えー。早速ですが、皆さんに転校生を一人紹介します」
たった一言だったが、教室が俄かに騒がしくなった。転校生という単語は、学生を無条件に高揚させる。こんな早い時期に転校生が来るのも珍しい。わざと閉めたとしか思えない扉に少女達の澄んだ視線が集中する。
「では阿部さん。どうぞ、入って下さい」
扉が開かれた。この瞬間、クラス全員が悟った。
「皆さんどーも初めまして! 東京の烏沢学園から転校して来ました、阿部翼でーす!」
教室の中央まで踊るように歩いた「転校生」は、そこでくるりと半回転してみせた。服装規定ギリギリまで切り詰められたスカートがひるがえる。胸元のリボンの結びはゆるく、左手首には水玉模様のシュシュが巻かれている。
「好きな食べ物はスフレパンケーキ、趣味はショッピング! 好みのタイプは、オーランド・ブルームみたいな人ですっ。気軽につーちゃんって呼んでね!」
一年四組の生徒達は目をそらせなかった。そらしたかったが、そらせなかった。何故なら、阿部翼という少女から発せられるラメのような煌めきが、
「………………………………あれ?」
壊滅的に似合っていなかったからである。
ーーあ、これが高校デビューか。
地味目な少女がいっぱいいっぱいに塗り固めた空想上の「女子高生感」が、本人の狙いとは百八十度違う方向に作用してしまっている。明らかに染髪ミスしたカラメル多めのプリン頭が象徴的だった。何故そのまま来た。
背中に猛烈な痒みを感じてしまいそうな沈黙が、一年四組に流れていた。そして、それに最初に耐えられなくなったのが、転校生自身だった。
「……ごめんなさい。調子乗りました。スフレパンケーキとか食べたことないです。好きな食べ物はモズクです。あ、あと……」
俯く姿は痛々しさで満ちている。
「サッカー部に、入るつもりです」
その一言を最後に、門川が締めた。
「はい、はくしゅー」
パラパラとした拍手は、次第に大きなものへと変化していった。頑張れ、という想いがこもった素敵な拍手だった。




