白渦の少年騎士 ~少年は世界を守るために最強を目指す~
強烈な光がその部屋を白く染め上げる。
床に描かれた魔方陣が空中へ浮かび上がり、複雑な三次元構造を形作る。
いよいよ輝きを増した紋様は、陣に込められた効果を忠実に実行した。
かくして、人族一の王国は異世界からの勇者召喚を成功させたのだった。
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14歳の上級騎士、エンハルートの朝は早い。
夜明けと同時に起きると、ベッドを整え、石造りの兵舎を出て井戸で顔を洗い、日課のマラソンを始める。
静かだが、人の営みを感じられる露店街を走り抜け、王都の周りに築かれた城壁へと足を進める。
王都と外界を繋ぐ、大きな門へ辿り着くと、見張りの兵士が声をかけてくる。
「おはよう、エン」
「おはようございます」
足踏みをしながらエンハルートは挨拶を返す。
辺りを見回し、見張りが一人足りないことに気付く。
「もう一人はどこへ?」
「あいつなら、遠くにお前が見えた途端、中へ入りやがった」
「あぁ……、なるほど」
「エンが来たから俺も交代させてもらうよ。上への扉は開けてある」
「ありがとうございます」
兵士はふわぁ、と欠伸をすると、門の横にある詰所へ入って行った。
エンハルートが走る時間帯は見張りの兵士の交代時間とほぼ被っている。
兵士達は彼が通るのを確認すると、眠っている兵士を叩き起こし、見張りを交代するのだった。
エンハルートのマラソンコースは市街から城壁の上へ移る。
先程の兵士が開けてくれた扉から、城壁の中を貫く螺旋階段を駆け上がり、屋上へ。
風が髪を揺らし、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
地平線へと目を向ければ、朝焼けが山々を照らし出し、長い影を引かせる。
日の光の暖かさを感じながら、彼はペースを早めた。
門の兵士と同じように、城壁の見張りはエンハルートの姿を見ると、伸びをして交代の用意をする。
城壁の外と内の安全確認を済ませ、通り過ぎるエンハルートに声を掛け、螺旋階段を降りていく。
兵士達の日常であった。
エンハルートは城壁の四半分まで来ると、回れ右をして来た道を引き返す。
帰りは身体強化を掛けながら倍の速さで走っていく。
交代した兵士達に挨拶を返しながら走ること15分。
露店街へ戻ってきた。
静かだった露店は、王都の開門に備え、ちらほらと人が見え始める。
そんな露店街の一角に在る屋台の前で、エンハルートは足を止めた。
「ルヒエさん、おはようございます」
「あぁ、おはようエン坊、ここ最近は早いね。ほれ、いつものやつだろ?」
「お願いします」
ルヒエと呼ばれた快活そうな年配の女性は、骨が丈夫になるという果物を手渡す。
「お代を……」
「そんなのいいから。持っていきな」
「でも……」
「そこそこ有名なあんたが、この店を贔屓にしてるってだけで客が寄ってくるのさ。子供がちっちゃいこと気にしてんじゃないよ」
屋台から身を乗り出し、エンハルートの背中を叩く。
わざと意地悪そうに笑うルヒエを見て、敵わないなぁ、と思いながら頭を下げた。
与えられた自室に戻り、バナナのような果物にかぶりつく。
窓の外を眺め、ほうっ、と息をついた。
『勇者召喚に成功した』
ほんの数日前だ。上級騎士以上の階級を持つ者に伝えられた、驚くべき事実。
勇者を説得し、その実力を測るために数日が空いたが、今日は上級騎士にも紹介するのだと言う。
そして、さらに数日後には王国全土へこの知らせを届けるらしい。
勇者について考えを巡らせていると、ふいに部屋の扉からノックの音が響いた。
「エンー、起きてるだろー。入るぞー」
くぐもった声が聞こえたと思えば、そのまま声の主が部屋に入ってくる。
窓際の椅子に座り、黄昏た老人のようにこちらを見るエンハルートに、入ってきた青年は呆れた顔をする。
「エンよぉ、お前がそんなんじゃこっちの気分も落ちるんだよ」
きっちりとした服装に身を包む少し年上の青年は、壁に背を預ける。
「そうだな、ごめん、ケイ。もう着替えないと」
「さっさと用意しろよ。エンが一番最後なんて天変地異が起こりそうだ」
軽口を叩き、部屋を出ていく親友に、エンハルートは感謝する。
幾分か軽くなった心に喝を入れ、クローゼットにかけられた正装に手を伸ばした。
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騎士達が集められたのは、王城内にある近衛騎士用の修練場だった。
王城や、王を直接守る近衛騎士に任命されるということは、国の信用を勝ち取ったとも言える。
そして、その実力は言わずもがな。
近衛騎士は国に仕える騎士達の一つの目標でもあった。
そんな近衛騎士が使う修練場は、縦横150×100メートル、強固な結界が張られている。
広大な敷地面積を持つとはいえ、上級騎士全員が入るほど広くはない。
今回召集されたのは、上級騎士の中でも実力を持つ者達と、何故かエンやケイのような、青少年騎士達だった。
騎士礼服の騎士達がだいたい並び終えた頃、一人の男が修練場に入ってきた。
巌のような体躯に、鋭い眼光を放つ男性は、この国の騎士全ての上に立つ騎士団長である。
緩んでいた姿勢は、強制的に正された。
騎士長が歩いてくると、自然と騎士達の隊列は左右に別れ、中央に道を作り出す。
騎士長はその道の中腹まで来ると、踵で地面を踏み鳴らした。
騎士長の周りの地面がせりあがり、即席のステージが出来上がる。
背筋を伸ばす上級騎士達を見やると、ややあって口を開いた。
「諸君らに集まってもらったのは他でもない。我が王国が召喚した勇者たちをその目で見てもらうためだ」
若干周囲がざわつく。召喚される勇者は一人ではなかったか。
そんなざわつきを尻目に、騎士長は声を張り上げた。
「勇者をここへ!!」
再び静かになるが、壇上に上がった勇者を見て、さっきよりも明らかにざわめきは大きくなった。
「なっ、子供だと?」
「しかも何人いるんだ? おいおい、30人以上いるじゃないか」
連れてこられた勇者達の見た目は16~17歳で、多くの騎士にとって大分年下なのは言うまでもない。
そして、その場にいる青少年騎士はそれよりも驚いていた。
「俺は夢を見ているのか? エン、ちょっと脛を蹴飛ばしてくれ」
「同じ事を思っていたよ、ケイ……」
騎士長はもう一度、大音声を上げる。
「驚くのはまだ早い! キョウゴ、いけるか」
「はい」
名を呼ばれ、前に出た一人の勇者。
杖を掲げ、目を閉じる。
すると、周囲の温度ががくんと下がった。
地面には霜が降り始め、空気中の水分が凍り付く。
なお気温が下がっていきそして……
「天翔る氷龍」
短い文句と共に、空へ氷の奔流が打ち出された。
ゴバァッ!
空を切り裂き、氷を振り撒きながら昇っていく氷の龍。
パッキャァァァン!
結界すらも突き抜けて、さらに数メートル上がると、龍は大量の霜となって霧散した。
「そこまでやれとは言ってないぞ……」
「す、すみません」
騎士長とキョウゴがそんな話をしているが、誰もが唖然として耳に入らない。
気を取り直した騎士長は、魔力を込めて手を打ち鳴らした。
強化された音の波が、呆けていた騎士達を引き戻す。
「このように、勇者として申し分ない実力を持っている。彼らは戦いとは無縁の場所に居たそうだ。しかし、この世界の惨状を聞いて、力を貸すと言ってくれた。さぁ、ようやく邪神との争いに希望が見えてきた! 勇者達と共に悪しき神を打ち倒そうぞ!」
どこからともなく拍手が起こる。やがて喝采が起こり、その音は王城の外まで届いた。
エンハルートは手を叩きながらも、無言で勇者を見つめていた。
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青少年騎士が集められたのは、剣を教えたり、戦いを習うために接しやすかろうという、勇者への配慮である。
というのは建前で、異世界から来た勇者に、歳の近い者も戦っているというのを見せることで、同情を煽るためだったりする。
青少年とはいっても、上級騎士。
その辺りの事情は少なからず察しているのだろう。
しかし、なにも言わないのは、戦力となるものが喉から手が出るほど欲しいことも分かっているからだった。
勇者の披露会が終了し、その場には騎士長と勇者達、そして青少年騎士が残された。
「みんな、集まってくれ」
騎士団長、マルセクト・インセデスが声を掛ける。
比較的緩い雰囲気の勇者達と、緊張で身を固める上級騎士。
「早速だが、勇者一人につき、お前達一人が付いて手合わせをしてもらいたい。魔法の使用は禁止、勇者は基本的な体術を学んでくれ」
勇者達と青少年騎士の数は奇しくも同数。
誰一人余ったり欠けたりせず、指導が出来るだろう。
異世界の少年少女の反応は様々だ。
緊張の面持ちを浮かべる者もいれば、にやにやして気持ち悪い者、何故かイライラしている者。
騎士達は手合わせについて、声を揃えて賛成の意を示した。
「よし、じゃあ適当に組ませるぞ」
そうして始まった異世界人との手合わせ。
「エンハルートです。よろしく」
「あぁ、よろしくなぁ」
エンハルートより頭二つ分大きい青年は名乗りもせず、そう返した。
見下したようにこちらを見る彼に、エンハルートは嫌悪感を覚えた。
気にしていても仕方無いので、取り敢えず木剣を手渡し距離をとる。
「では、お願いします――ッ!?」
言葉の途中でいきなり斬りかかってくる青年。
ぎりぎり鍔迫り合いに持っていけたが、重心が後ろに傾いているぶん、エンハルートの分が悪い。
ミシミシと木剣から音がなる。
凄まじい膂力で押し込まれていく。
押さえ込めないと判断したエンハルートは大きく後ろへ跳んだ。
しかし、着地したと同時に、相手の驚異的な脚力でその間をすぐに詰められてしまう。
そこはさすが上級騎士。
今度の剣は危なげなくいなし、反撃へ持っていく。
今度は相手が大きくバックステップした。
「ちっ、んだよめんどくせぇな」
異世界の住人が、知らない言語で何かを吐き捨てるように言う。しかし、何を言っているのかが分かってしまうのだ。これは勇者が基本的に持っている「先導者」というスキルらしい。普通なら違和感を覚えることは無いようだが、今はとても不愉快だ。
エンハルートは嫌な顔を隠そうともせず、異世界の勇者を睨み付ける。
「何だよその顔は。俺はこの世界になんざ、興味は無ぇ。ただ力を振るえればそれでいいんだよ。俺ら勇者はてめぇら雑魚の10倍以上のスペックが有るらしいぞ? さっさと終わらせてやるから動くなよ」
話を聞いてやっていたエンハルートからスッと表情が消えた。
次の瞬間には相手の目の前に。
左手で木剣を持った相手の手首をはたき、右手に持った剣で喉仏に触れる。
一瞬で勝負がついたことに驚きを隠せない勇者。
手首を叩かれ、力の入らない手から木剣が落ちた。
「もう終わりですか? 勇者様」
「てっめぇ……!」
怒り狂った目の前の勇者は何かの魔法を発動しようとした。
身構えるエンハルート。
しかし、それは杞憂に終わったようだ。
異変に気付いた、騎士長のマルセクトが止めに入ったからだ。
「リュウヘイ、魔法は使うなと言っただろう」
「くそっ!」
「エンハルート、お前も大人げないことはするな」
「すみません」
名前を覚えて貰っていたことに驚きつつも、そう答えた。
「エンハルートは他の補助に回れ。リュウヘイは俺と手合わせだ」
上手くマルセクトがその場を纏めてくれたことで、大事には至らなかった。
エンハルートはその時間を適当にやり過ごし、一日は終了した。
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その日の夜。
ケイは騎士寮で食事を済ませ、部屋に戻ろうとすると、エンハルートが両開きの玄関から外へ出ていくのが見えた。
あとを追いかけ外へ出る。
すると星を見上げるエンハルートの姿が目に入った。
「どうしたんだよ、エン」
「あぁ、ケイか」
ふぅ、と息をついて言葉を続けた。
「勇者のこと、どう思った?」
漠然とした問いだったが、言わんとしていることは分かる。
そうだなぁと、一拍おく。
「超高スペックな身体能力に魔力。おそらく、固有能力も持っているだろうな。器としては文句なしの勇者だ。でも、器だけだ。それを満たしている精神が俺らとは違いすぎる」
だよなぁ、と自嘲ぎみに笑うエンハルート。
「なぁ、ケイ。俺らはこの世界が好きで、守りたくてここまで来た。邪神を倒すのは俺達なんだっていつも思ってた。なのに何で、神様は異世界の人間を選んだんだろうなぁ」
上を見上げ、反対を向くエンハルートの表情は窺い知れない。
しかし、エンハルートの理想や望みを知っているケイは、どんな顔をしているか痛いほど分かった。
この世界には冒険者という職業がある。
いや、あったと言うほうが正しいか。
彼らの仕事は主に魔獣と呼ばれるモンスターの討伐。貴重な植物の採取など。
しかし、エンハルートが生まれるずっと前、邪神を名乗る者がこの世界を侵食し始めた。
魔獣を仲間に引き入れ、着実に手勢を増やしていったのだ。
そして、邪神との攻防が激しさを増す中、冒険者という職業はやがて国が取り仕切るようになった。
理由は、国から人材を出さないようにするため。
自国を守るのに精一杯であるこの状況で、無駄に人を死なせるわけにはいかなかった。
その代わり、国を守る騎士という職業は、比較的なりやすい物となっていた。
冒険者になるには、国では手が余るほどの実力を兼ね備えなければならない。
それこそ、世界規模で活躍できるほどの実力を。
冒険者はそれだけで人々の希望になりうるし、邪神にも手が届く存在であった。
だからこそ、冒険者はやがて大衆の中で、勇者と呼び表されるようになるのは、当然の事だった。
平凡なエンハルートは、勇者になりたい一心で家を飛び出し、騎士学校の門を叩いた。
天才と凡才の差を努力で埋め、今や上級騎士である。
彼をそこまで押し上げた心の炎は、いまや消えかけようとしていた。
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数日後。
王国全土へ勇者召喚の御触れが届いた。
国民は大いに沸き、希望の光が見えたと喜んだ。
勇者の存在が公式となった次の日。
本格的に勇者達の訓練が始まった。
しかしそれは――特にエンハルートにとって――そこからは地獄の日々だった。
今まで自分が積み上げてきたものを、あっさりと抜かされていく感覚。
毎日一人ずつ違う人を相手にして、一ヶ月経つ頃には、例え魔法を使ったとしても勝てるかどうか分からなくなっていた。
相手が魔法を使わなくてもこれだけの差があるのに、さらに強力な魔法や固有能力まで持っているとなれば、諦めという感情すら起きないだろう。
エンハルートはこの間、ただ機械のように振る舞った。
異世界人が、この世界をゲームの様にしか考えていなくとも、面倒だとしか思っていなくとも、彼は職務を全うした。
しかし、彼の精神は腐っていく。
それは、小さな切っ掛けが有れば吹き出るような、巨大な膿となって心を苛んでいた。
そして唐突に災厄は訪れる。
その日は、騎士との手合わせが一周し、実力も十分となった勇者達による魔獣狩りを明日に控えた日だった。
一ヶ月の訓練から今日だけ解放された勇者達は、年相応に王都内を楽しんでいるようだった。
何人かの青少年騎士は、異世界人と仲良くなり一緒に行動していた。
エンハルートも一応監視役として、一定の距離を保ちつつ王都を歩く。
不意に肩を掴まれた。
振り向くと、そこには初日に相手をしたリュウヘイと何人かの男子がいた。
「よお、久しぶりだな。ちょっと道に迷ったから案内してくれよ」
肩を組まれ、強引に連れていかれる。
周りを他の男子が取り囲み、背の低いエンハルートは見えなくなってしまう。
迷ったなんて言いつつも、するすると人気の無い所へ歩いていく。
「ここら辺でいいか」
リュウヘイがそう言うと、エンハルートを強く押す。
エンハルートと合計四人の異世界人は向き合う形になった。
「明日の遠征が不安でなぁ。少し稽古をつけてくれよ」
「街中では出来ません」
「うるせぇ、黙って相手をしてりゃいいんだよ」
底冷えするような威圧を発し、エンハルートを殴り付けた。
ベキッ!
嫌な音がして、エンハルートは吹き飛ばされた。
しかし、痛がりもせず虚ろな瞳でリュウヘイを見るのみ。
「なんだこいつ。気色悪いなぁ」
そこからはただ一方的な暴力だった。
仲間の一人が〝復元魔法〟のレアスキルを持っていたため、殴られて、再生され、また殴られる。
一頻りリンチすると、興味を失ったように手を止めた。
「面白くねぇ。あぁ、そう言えばお前、仲の良いやつ居ただろ」
ぴくりとエンハルートが反応する。
にやりとリュウヘイが口元を吊り上げた。
「名前は確かケイ、とか言ってたな。あいつにも道案内頼みに行こうぜ」
四人は背を向けその場を去ろうとする。
しかし、彼らをエンハルートが呼び止める。
「それだけは、ゆる、さない!」
よろよろと立ち上がり、剣を抜いて剣先をむけた。
しめたように笑うリュウヘイ。
彼はエンハルートを罠に嵌める、卑劣な計画を立てていた。
一太刀をわざと受け、自分達に傷を付けさせる。
強力な防御魔法を掛けているから大した傷はつかないだろうが、勇者に手を出したとあっては大事だ。
復元魔法があるこちらは、エンハルートを完璧に治している。自分達が先に手を出した事実を隠蔽するのだ。
そうして、エンハルートに一方的に罪を擦り付ける。
リュウヘイら四人がこんなことをする、明確な恨みなど無い。
ただ、日々のストレス発散と、彼のこれからの人生がどう狂うのかの興味。
そしてもう一つ。
明らかに仲が良いとは言えない連れ去り方に、四人が怪我をしてエンハルートに傷一つ無いという不自然感。
穴だらけの計画だが、これは勇者という立場がどれ程大きいか確認するためでもあった。
おそらく、誰もが口をつぐむだろう。勇者の暴力沙汰は揉み消されるだろうと踏んでいた。
しかし、エンハルートには味方が多かった。
見張りの兵士や露店街の人々。
仲間の上級騎士。
名前を覚えるくらいには期待している騎士長。
一方的に悪者になることはきっと無い。
それでも、この場で相手を傷付けてはいけない。
傷付けたが最後、心を蝕んでいるストレスが勇者に対する憎悪に変わりかねないからだ。
彼の本来の目的を見失う可能性があった。
にやけた顔のリュウヘイへ一歩踏み出すエンハルート。
最悪の形で彼が道を踏み外そうとした、次の瞬間。
ガラァン!ガラァン!
王都中に響き渡る鐘の音。
それは、エンハルートが失いかけていた思考を取り戻すには十分すぎた。
「っ! 対軍級以上の魔獣襲来!?」
濁ったような鐘の音には状況を伝える魔法が編み込まれている。文字通り、音速で騎士達に的確に情報を共有させた。
エンハルートは呆けている異世界人を怒鳴り付ける。
「あなた達は早く王城へ戻って下さい!」
返事も聞かずに、走り出す。
路地を抜け、パニックに陥る住人を各地に点在する地下シェルターへ誘導する。
「落ち着いて下さい! こちらへ!」
遅れてやってきた治安部隊にその場を任せ、城へ急行する。
途中で何人かの騎士と合流し、情報を交換しながら足を速めた。
王城内では、怒声が飛び交っていた。
『勇者を招集しろ!』
『あと、一時間もない!』
『民の避難状況はどうなっている!』
そこへ、人をかき分け息を切らす騎士が一人。
そして、声を張り上げた。
「たった今姿を捉えました! こっ、黒竜です!」
「なっ……」
驚きの声は誰が上げたか分からない。
皆一様に絶望の色を浮かべた。
黒竜は邪神とともにやって来た数少ない配下の一柱だという。今まで確認された個体は三体。そのどれもが一夜で国を滅ぼし、数的不利にありながら勇者をも屠った。
そんな強大な存在がこちらに向かっているという。
実践経験の無い若い勇者は出せない。一時間以内に救援に来れる手練れの勇者もいない。
城内はすでに負け戦の雰囲気が漂っていた。
「臆するな!」
はっとして声のする方を見ると、国王が騎士長を携え、威厳ある風体で佇んでいた。
「絶望するな! それは今することではない!」
王の声が響き渡る。
「我々は今日、唯一黒竜を撃退した国としてその名を轟かせるのだ!」
鼓舞する言葉が人々の心に火を着ける。
騎士は手を掲げ、声をあげ応えた。
王は彼らの猛りに頷くと、指示を出し始めた。
「勇者殿を集めよ! 魔術師は結界を急げ!」
騎士は訓練通り、城壁と王城内の中庭にそれぞれ集合する。
敵は黒竜。
結界が破られるのは必至。
ならば、民の被害が少ない王城へ誘導し、そこで叩けば良い。
王城上空の結界をわざと脆くし、黒竜の侵入後、結界を城の周りに限定し狭める。
おそらくだが、敵の目標は勇者を潰すこと。
少々危険だが、勇者を一所に集めれば釣れると踏んだ。
それでも、勇者は安全な所に匿われているが。
騎士の配置が完了し、いよいよその影が肉眼でも見えてきた頃。
『結界術式、展開!!』
城壁へ配置された騎士と魔術師が魔法を発動させる。
同時に城の魔術師も魔力を注ぐ。
薄い膜が王都の中心と端から広がっていき、やがて都を完全に覆った。
続いて上級騎士が遠距離の攻撃魔法を用意する。
高まっていく緊張、額を流れる冷や汗。
――時は満ちた。
グガアァァアァァルル!!
凄まじい咆哮がビリビリと結界を震わせた。
遠くに見えるは、翼を広げて100メートルはある巨大な竜。
黒く輝く表皮は何をも通さず、大質量の身体は全てを押し潰す。
絶対的上位存在であることが、人間の薄れてしまった本能ですら分かってしまう。
しかし、ここで引くわけにはいかない。
咆哮に怯む身体を叱咤し、上級騎士は黒竜へと照準を合わせた。
「撃てぇぇぇぇ!!」
騎士長の雄叫びと共に黒竜との戦いが始まった。
充填された魔法が、結界に開けた穴から黒竜へ向かって飛んで行く。
さながら機関砲のような連続攻撃が空中に炸裂した。
城からの攻撃を黒竜は気にもせず向かってくる。
魔法がその体に命中するが、硬い鱗に阻まれ傷一つ付いていない。
続いて、近衛騎士が合同魔法を完成させる。
たちまち黒竜の周りに暗雲が立ち込め、雷鳴を轟かせる。
「篠突く――」
刹那、発動しようとした魔法がただ一度の羽ばたきで散らされてしまう。
そのままもう一度翼で空気を打つ。
すると、両翼の前にそれぞれ一つずつ紫色の魔方陣が展開された。
空間が歪み、魔力が二つの魔方陣に集まっていく。
「あれはまずい! 着弾地点の結界を厚くしろ!」
ブラックライトのような光があやしげに明滅し、強大な攻撃が来ることを予感させる。
遂に臨界点に達した魔法は、一拍の間をおいて、黒い光線を放った。
二本の光線は螺旋を描きながら混じり合い、より破壊力をあげて迫り来る。
――サアァァァ
不気味なほど無音な光線が、結界の端から中央までを撫でた。
ビキビキビキッ!
一直線に亀裂が走り、案の定、王城の上空の結界は呆気なく壊れる。
穴が開いたと見るや、黒竜は王城まで脇目もふらずに飛んでくる。
ここまでは作戦通り。
巨大な黒い影が、市街を恐るべきスピードで移動していく。
あっという間に結界の穴にたどり着いた。
影の主は、王城の上に滞空し、愚かな人間を睥睨する。
一度バサァ、と翼を拡げ太陽を完全に覆い隠した。
金色の目を爛々と光らせ、自分こそが絶対的王者だと主張する。
そして、ゆっくりと翼を畳んでいき、その巨体からは考えられないほど滑らかな宙返りして、頭から猛スピードで降下を始めた。
「穴を塞げ! 誘導しろ!」
大きく空いた穴を閉じ、修練場へ落ちるよう誘導する。
果たしてそれは成功し、黒竜は修練場にクレーターを作った。
強者の余裕からなのだろうか。
ここまで誘導されてやった黒竜は、おもむろに周囲を見渡す。
そして、まるでかかってこいとでも言うように、胴体を立たせ人間を見下ろし、鼻を鳴らした。
本当の戦いは今始まった。
━━━━━━━━━━━━━
先手を打ったのは人間だった。
自分の放て得る最大の魔法でもって、黒竜を攻撃する。
爆炎が、雷撃が、氷塊が、黒い敵を消し去らんと迫り、そして突き刺さる。
数百に及ぶ魔法の弾幕は徐々にその巨体を押し始めた。
黒竜は堪らないとばかりに、両翼で身体を守る。
数分に渡る攻撃は、最後に騎士長による、青い炎の戦術級魔法によって締め括られた。
ジリジリと肌を焼く、超高温の極大剣。
それが黒竜に振り下ろされた。
グガァァァァア!!!
断末魔のような叫びが辺りに木霊した。
誰もがこれで終わってくれと願う。
しかし、
甘くはなかった。
黒竜は倒れない。
絶対硬度を誇る鱗は、所々焼け爛れ、明らかなダメージが入っている。
翼の膜はボロボロになり、飛べるのか分からないほどだ。
それでもなお、佇立する姿は一種の神々しさすら感じられた。
黒竜が行動を起こす。
一気に息を吸い込み、強靭な肺が肥大し、身体すらも大きく膨らむ。
「ぼうぎょ――」
――――――!!
世界から音と色が消えた。
否。
鼓膜が破れ、一瞬で身体を駆け巡った威圧が脳に影響を与えたのだ。
黒竜による狭範囲、高威力、全方位のただの咆哮。
ただしそれはもはや、空間の爆発と言っても過言ではない。
黒竜を中心に全てのものが、放射状に吹き飛んだ。
蹂躙が始まった。
いや、それはもう蹂躙とすら呼べないかもしれない。
黒竜にその気が無かったからだ。
黒竜はただ歩いているだけ。
己の目標は勇者をこの世から消すことのみ。
勇者が匿われた場所へ一直線に向かっていく。
その途中で、堅牢な城がその巨体によって紙屑のように削られていく。
城の残骸が未だ動けない兵を押し潰す。
(治癒!)
痛む頭と体に鞭打ち、何とか起き上がる近衛騎士や上級騎士達。
周りの惨状を嘆く暇はない。
黒竜の足を止めるべく、残った国の兵は動き出した。
━━━━━━━━━━━━
「エン! 大丈夫か!」
「うっ、ぐぅ……」
呻き声を洩らし、よろけながらも立ち上がるエンハルート。
ケイがその肩を持つ。
修練場が見える二階から攻撃していたはずだが、足場が崩れ、下に落ちてしまったようだ。
身体を魔法で回復し、耳も完全に治す。
頭はまだ霞がかかったように不明瞭だが、何とか世界から色が戻る。
「すまないが、休んでる暇はないぞ」
「分かってる。ここでアイツを倒さないと国が崩壊する」
そして、二人が移動を開始しようとした、まさにその時。
バッガァァァァン!
瓦礫の山が飛び散った。
普通であればソレが近くまで来ていることに気付いていただろう。
しかし、先程の咆哮は人の機能を著しく低下させていた。
二人の目の前には、太陽を遮る黒竜。
一瞬だけ目が合うが、黒竜にとって彼らなど有象無象の一つでしかなかった。
今思えば、彼がなぜあのような行動を取ったのか。
なぜ俺が何の行動も取れなかったのか。
わからない。
ただ、スローモーションの中でケイが俺を押し飛ばし、次の瞬間、彼が黒竜の脚に当たってボロ雑巾のように吹き飛んだのは、紛れもない事実だった。
「ケイー!!」
国や勇者、そして邪神という彼を縛る柵は、この時だけは全て取り払われた。
なりふり構わず親友のもとへ駆け寄る。
ケイの着ていた上級騎士の鎧は原形をとどめず、ただの鉄屑と成り果て。
彼の姿もまた同じように、ひどい有り様だった。
「治癒! くそっ、治癒!」
なけなしの魔力を振り絞り、回復を施す。
表面上の怪我は治ったが、ケイはぴくりとも動かない。
「…………」
エンハルートは力の入らない体に鞭打ち、なんとかケイを抱き抱え、少しでも安全な所に移動させた。
そっと地面に寝かせる。
エンハルートはケイが死んだなどこれっぽっちも思っていなかった。
ケイを早く救うには、何をすればいいか。
ただ一つ、黒竜を討つこと。
彼は剣を抜き、無言で走り出した。
━━━━━━━━━━━━
黒竜はたった今、青い炎の大剣を振り回す人間を翼で弾き、戦闘不能に陥らせた。
自慢の鱗は所々炭化してしまったが、この程度気にすることではない。
そしてまた、悠然と歩きだす。
羽毛で撫でるような攻撃をする人間を無視し、数歩進んだ時。
「お前が、お前が黒竜か!!」
二百メートルは離れた位置に人影。
隠し扉と思われる、床の扉から異世界人の半数が姿を現した。
勇者。
己の目標であるその存在を認めると、今まででは考えられない、素早い動きで魔方陣を展開させた。
初めに放った黒い光線。
しかし、それは明らかに威力が高いことは一見して分かった。
五つもの魔方陣を浮かび上がらせていたからだ。
一拍遅れて勇者が魔法を構築させる。
一瞬でも遅れてしまった勇者側は、不利な状況に立たされてしまう。
数秒の後、発動に足りうる魔力を注ぎ込まれた黒竜の魔法は、最大威力で以て、無音で発射された。
数瞬遅れて勇者も魔法を放つ。
五色の魔法と、回転しながら迫る黒い魔法は、僅かに勇者寄りで拮抗した。
「うっおおおお!!」
勇者の放つ魔法が太くなった。
身体が淡く光っていることから、何かの支援魔法だろうか。
拮抗していた魔法は、じりじりと勇者が押し始めた。
黒竜の目が僅かに細められる。
『沸き立つ我が血肉よ――』
「なっ! 黒竜が詠唱だと!?」
頭に直接響くような声が辺りを支配する。
『――其の灯を肯定せよ、其の火勢を肯定せよ。我は其を喰らい尽くす者なり』
「押せぇぇぇぇ!!」
黒竜の両翼に新たな魔方陣が造り出される。
内側から広がっていくように構築される魔法は、黒い光線を放っている魔方陣とは一線を画するほど複雑だ。
残り一節で魔法が完成する。
『エプテンフの結晶、円環の――』
『お前の相手はこっちだ、黒竜』
『――!?』
黒竜のみが、一瞬だけ感じた存在感。
それは紛うことなく、勇者より強い。
押されていることも忘れて、視線をそちらへ向けた。
そこには、有象無象と変わらないただの人間がいた。
さっきの存在感は何だったのか、息を荒げてこちらを睨む少年。
しかし、竜の本能が警鐘を鳴らす。
こいつは無視してはいけない。いずれ我らに仇なす最大の敵となる。
今すぐ殺さなくては。
この時の黒竜の判断は完全に失策であった。
この少年にはまだ、黒竜をどうこうできる力は一つも持っていない。
ゆえに、勇者を討ち滅ぼしてから、例え魔力を失っていても踏み潰すだけで事足りたのだ。
だが、黒竜といえど切羽詰まっていたこの状況で彼―または彼女―は本能に逆らえなかった。
集中を完璧に乱された黒竜と異世界の勇者の均衡は、あっという間に崩れ去った。
五条の光が黒線を引き裂き、勇者達の気合い一閃、黒竜を貫いた。
ガアァァァアァァア!!!
今度こそ断末魔の叫びが王都中に響き、この戦いの幕が下りたことを人々は悟った。
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黒竜との戦いは、勇者の華々しい緒戦として記録されることになった。
それにはおそらく、勇者がたった三日で城を直してしまった事が大いに関係しているのだろう。
亡くなってしまった騎士や魔術師の葬儀は大々的に行われた。
勇者も参列し、国王自ら邪神の凶悪さを説いた。
勇者への信仰、勇者達の同情心、国への信頼を一手に集められたこの騒動。
貴族の間では、不謹慎にも僥倖であったなどと言われた。
世間では悲しみに暮れる者よりも、希望に胸を踊らせる者が多い今日この頃。
心の晴れない少年が一人。
エンハルートは自室にある窓際のイスに座り、ぼんやりと晴天の空を眺めていた。
考えるのは自分の無力さ。
あの時、なぜ黒竜がこちらを見たか分からない。
自分を鼓舞するために、敢えて相手を挑発するようなことを言ってみたが、黒竜に改めて対峙した途端、震えが止まらなくなった。
結局はただの雑輩であったということか。
勇者がいたから勝てたのだ。
いや、そもそも勇者がいなければ黒竜は来なかったのでは?
あぁ、ダメだ、この考えは。
感情が渦を巻いてドロドロになっていく。
今まで感じたことのない苦痛に、彼はどうすればいいか分からなくなっていた。
ドンドンドン!
突然、部屋の扉が強く叩かれた。
「エン君! いる!?」
返事も待たず飛び込んでくるのは、二歳年上の女性。
同じ上級の名を冠した青年騎士である。
「ケイが起きたって!!」
エンハルートはガタンとイスをひっくり返し、焦ったように立ち上がる。
付いてきて、という彼女の背を足を縺れさせながら、必死に追いかけた。
黒竜戦で深手をおった者達が収容された、診療所。
直後に比べると、血の臭いがする空気の悪さは殆んど無い。
未だここに寝かされているのは、回復魔術ではどうにもできない精神的な傷を負った者や、魔力異常を起こした者達だ。
そんな診療所の一角にケイは横になっていた。
エンハルートが勢いよく診療所のドアを開けると、ケイは場にそぐわない軽いテンションで、ひらひらと手を振った。
「ケイ、大丈夫か?」
ベッドの横まで移動したエンハルートが問う。
「まぁ、そうだな。身体は動かないがぴんぴんしてるよ。こういうのは命あっての物種、だろ?」
気丈に振る舞う彼の痛々しさに、血が滲むほど唇を噛み締めた。
エンハルートの反応に、ケイはやれやれ、と笑う。
そして、表情を真顔にするとこう言った。
「エン、お前に同情なんてされたくない。あの時、俺がお前を突き飛ばしたのは正しかったと思ってる。こんな言い方は酷かも知れないが、お前は俺の覚悟を踏みにじるつもりか?」
「ちがうっ! 俺は、ただ……」
エンハルートがそう言ったのを聞いて、ケイはふっと表情を弛める。
そしてこう付け加えた。
「お前自身の目的を忘れるなよ、エンハルート」
はっとして顔を上げれば、そこには弟を慈しむ兄の顔があった。
何だかむず痒くなってエンハルートは頭を掻いた。
丁度そこへ同僚がやって来た。年はバラバラだが、みな上級騎士だ。
口々にケイを労い、彼はそれにおちゃらけて返す。
彼らは暫しの間、たわいもない会話に花を咲かせるのだった。
数十分は話し込み、疲れて寝てしまったケイに、一言ありがとうと言って診療所を去った。
晴天の道を歩く。
目的、かぁ……
ケイの言葉を反芻する。
おそらく、俺は勇者に嫉妬していたのだろう。
その気持ちは完全に無くなったわけではない。
何で異世界人なのか。
その考えもまだ凝りのように残っている。
しかし、そんな気持ちはお門違いだ。
勇者召喚をした王国は必死だったし、勇者達もただ巻き込まれただけだ。
それに、こんな状況になったそもそもの原因は何だったか。
そう、突然この世界に攻め入って来た邪神だ。
美しいこの世界を守りたくて、冒険者を目指し俺は騎士に……。
あぁそうか。
別に王国に縋る必要は無かったんだ。
国を出て、俺が邪神を倒しに行けば良いだけの話じゃないか。
覚悟を決めた。
旅に、出よう。
翌日、一人の少年が王国から姿を消した。
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「うーん、どこへ行こうか」
太陽が果ての空を薄く照らし始め、ぼんやりと世界の輪郭がその目に見えるようになってきた。
少年は踏み均された道を歩きながら、地図を睨む。
「この道を行けば……、あぁ、なるほど」
地図を仕舞い、バナナのような果物を取り出す。
「お別れに行ったら、泣かれちゃったな」
一応、お世話になった人には挨拶に言った。
もちろん、王国には何も言わない。
戦力である騎士を手放すとは思えないし、ややこしくなるからだ。
少年は次なる道を定める。
彼はまだ気づかないが、内に眠る能力は既に芽を出した。
進む先に何が待っているのか。
それはまだ分からない。
世界を守るための道はここから始まるのだ。