やる気を見せろよ
彼女の声と手が、少年を刺激する。
だけど怪物の目的は、まぎれもなく山羊であった。その山羊はすでに己の役割を終え、時計の文字盤の奥に帰ろうとしている。
怪物は醜い喉で叫んだ。やっと見つけた美しいもの、あるいは油の滴っていそうな獲物か、それをみすみす逃すまいと、肉体をすべて使って叫ぶ。
怪物の後ろ脚が、偶蹄類らしい屈折をする。筋肉が隆起し、欲望を叶えるための動作に備えて、力を溜めている。妖獣に食いかかった時のように、次は時計塔に食らいつくつもりなのか。
怪物が低い唸りを上げる。黄ばんだ牙が、ひび割れた唇の隙間から除く。
大変だ!このままではあの美しい山羊が食われてしまう!
「違う」
だけど待てよ?別にそんな事、どうでもよくないか?確かにあの山羊、というかと系統はすごく綺麗な、価値のある芸術作品だ。だけど所詮は建物だ、見知らぬ異世界の建物だ、一つ壊れたところで俺が困る要素など微塵もない。
だから勝手に怪物の好きにさせればよいのだ、俺は今のところ何もしなくていい。
ああだけど。
「それはだめだ」
絶対に怪物の好きにさせてはならない。俺は傍観してはならない。
今まで呑気に呆けていたくせに、どうして今になってそんな意志が芽生えたのか。言っておくが自発的なものではない。かなり自業自得な、自己的な要因によって俺はかつてないほど焦っていた。
「あのままじゃ」
どちらにせよ、このままでは怪物はかってに時計塔に飛びかかるだろう。こんなことになるなら、時計塔を、上から下までくまなく観察するんじゃなかった。そうしたら、
そうしたら今更、時計塔の下に人がいることに気付かなかったのに。
何で、何であんなところに人が、みんな避難したんじゃなかったのか。あんなにもサイレンが、鐘の音より鳴り響いていたというのに。
「その理由は、君が一番よく知っているだろう」
女性の声が耳の奥から脳に伝わる。そうだ、遠く彼方にいる彼が、決して若くなく身なりも整っていない、いかにもカツアゲをしそうな男性が、どうして避難勧告に気付かなかったのか。その理由の一端を俺は知っている。もしも関係なかったとしても、まったくの無責任ということは有り得ない、としかこの時は思えなかった。
許しを請うつもりはない。だってあの時は先にあの男が切りかかってきて、俺はむしろ被害者なのだ。だからなんの罪悪感もない。
「はたしてそうかな。それは君の本心かな」
女性の手が、ソルトの手より大きい手が、俺の頬に触れる。触れた部分、もうすでに無くなった筈の痛みが呼び起された。
痛みが思考を連結させる。
「あひいいい?」
悲鳴が聞こえてきた、野郎の悲鳴だ。その唾を大量に含んでいそうな悲鳴が、俺の元に届くはずがない。時計塔付近から、今いる場所はかなりの距離がある。にもかかわらず鼓膜が、経験したことのない敏感さで音を拾い始めた。きっと彼女のせいだ。
怪物がついに跳躍する。溜めていた力を爆発させるような、見るからに全力な跳躍だった。だが怪物も疲労と損傷に勝てず、目的の山羊にたどり着く前にその体は、ちょうど時計塔の下付近、まだヤロウのいるところには届いていない場所に、運よく落ちる。その一連の流れが、ひどくゆっくりとした映像で俺にやらなくてはならないことを命令してきた。
「嫌々やる、って感じだけど、思い上がるなよ」
実体を持たない、ほぼ幻聴に近い女性が溜め息をつく。
「迷惑をかけた人には、何を犠牲にしてでも誠意を見せるって、そう決めたんだろ。マイカ」
ああそうだ、それは母さんの言葉だ。俺のことを呼び捨てで呼ぶ女も母さんしかいない。だったらこの声は母さんなのか?だとしたらひどい悪夢だ、地獄の方がまだマシだ。
まあ、何でもいいや。
俺は体を動かす。
本編番号が82(ハニー)ですね。特に何もしませんが。