宙ぶらりんホルマリン
少年は未経験の感覚を体感する。
俺は室内にいたはずだ。絶妙に薄暗くて、謎の液体が充満していることを除けば、いたって普通の部屋。四肢を思う存分伸ばしても御釣りができるほどの、心地よい広さのある空間に閉じ込められていた、そのはずなんだが。
だけど俺の目玉に映るのは、前述には相応しくない事物だった。
安心感に満ち溢れていた暗闇は、跡形もなく消え去っていた。その代わりに現れたのは風景だ。もうそこそこに見慣れてしまった不思議な異世界、不可解な地下世界の風景。
今更世界に驚けるほど、俺の心は純粋ではない。問題なのは世界が見えすぎることだ。室内から外が見えると言えば、窓などの外部と繋がる連結部分が必要となるはずなのだが、残念ながらこの部屋にそんなものはない。それなりに完成された密室内に、俺は閉じ込められいる。
室内の電灯の光度が高まり、俺自身の肉体の周辺が明るくなって室内が見渡せるようになったわけではない。そんな常識的な範囲は、明らかに飛び越え飛び去っている。
皮膚で感覚していた部屋の広さ、それを無視した広大さの映像が俺の周りに色を伴って、極めて現実的に展開されている。
「ア、アラジステムを見渡している…」
驚きのあまり、ありのままの事実を玩具のように口に出して発音することしかできない。そして俺にしては珍しく、状況を的確に言葉にできてしまっていた。
いや、やっぱりこの表現は間違っている。見渡しているなんて言葉は、いまだしつこく脳細胞にこびりつく俺のいた世界での常識、そんなものに基づいた語弊だ。
「見渡す、っていうか」
そんな程度では済まされない。俺は今世界を左回りに右回りに、見上げ見下ろすことを可能としている。視界が許す範囲とそれを超える範囲まで、アラジステムの全貌をぐるりと見渡せてしまっている。
要するに超小型の御一人様専用360度ビューが、何の予備動作もなく俺の目の前と後ろに出現したのだ。
今の状況がもしも、3泊4日のお気楽異世界ツアーだったならば、俺はこの設備に感嘆し賞賛を贈ったことだろう。久しく忘れ去っていた純粋な心でもって、子供みたいにはしゃいだに違いない。
だけどそんな下らない妄想及び願望は、現実なんかに掠りもせずただ脳髄に溶けていくだけだ。っていうか今純粋に、直接身体を襲いかかっていることがある。
「おぅえ…」
発作的な吐き気を堪えるために、俺は唇を懸命に閉じる。壮絶の一歩手前ほどの気持ち悪さが、胃液を絞り出そうと働きかけてきた。
こんな所でリバースしたくない、と苦し紛れに下を見る。そしてとどめの一撃の如く、信じ難いものを追加で目視してしまった。
床までもが実像を失ってしまっていたのだ。これによって俺は完全に風景の中へ、屑紙の如く投げ出されたことを否応なく確認してしまった。
そのお陰とはと言ってしまうのもなんだが、吐き気を忘れることには成功した。嬉しくない成果だった。
予備動作のない動きに、とてつもない恐怖を感じます。