馴れ初め
マイカは運命の出会いを待ち受ける。
扉を抜けると、そこは沈黙に支配されていた。本当に、本当に静かだった。まさに人っ子一人いない、そんな言葉が当てはまってしまうほど、攻撃的な静謐だ。
音のない世界を、ソルトはつかつかと進む。緊張の面持ちで、周囲をしきりに確認している。触覚がうねうねと空気をさまよった。
「大通りに出ましょう」
俺の方へ近付き、手のひらをしっかりと握ってくる。彼女の手の平は、しぼんだ水風船のように柔らかく、作りたてのホットケーキの中身みたいに、じっとりと湿っていた。
あんなに耳障りだったサイレンは、すっかり止まっている。女性の警告文も聞こえなく、俺は奇妙な寂しさを覚えた。
「なあソルト」
静寂に耐えられなくなってきた俺は、ソルトの意見を求め始める。
「俺達も逃げなくて大丈夫なのか?みんないなくなっちまったぞ」
人がいなく車も動いていない、建物までもが息を潜めている気がする。ただ電力だか魔力だかの動力源だけは停止していないらしく、看板のみが宣伝という名の明滅を継続し続けている。その様子は都市から生命のみを抉り取ったようなシュールさがあった。
シュール絵画の中を、俺とソルトは手をつないで歩く。前を歩く彼女の表情は見えない。
「いいえマイカさん」ソルトは俺の提案を否定する。
「私たちは避難しません、やるべきことがあるので」
俺の手を引きながら、或る避けられない運命へ進む女性。その映像になぜか懐かしさを覚える。
「貴方には」一呼吸「貴方には戦ってもらいます」
「戦う?」
およそ平和的ではない単語に、つい身構えてしまう。教えられ理解したはずのことなのに、情けない。
「はい、未確認生命体との戦闘。それに貴方は参加するのです」
「それって、無イってやつのことか?」
俺はテレビで得た知識を活用してみる。俗っぽいとされているらしい表現に、ソルトはほんの少し緊張をほぐす。
「そうですね、そんな言い方もあります。そっちの方が言い易くて良いかも」
都市の何処か、遠く離れた場所で寺の鐘のような轟音が鳴る。またしても悲鳴みたいな絶叫が聞こえた気がした。
ソルトと手を取り合い誘導されて、俺は町中を進む。大通りに向かうといっているが、この道で会っているのだろうか?
俺の不安など関係なく、ソルトは触角を揺らして歩く。そしてついに広い道へ出ることに成功した。ここが大通りなのか。相変わらず人も車も、誰一人として歩いていない、まさに沈黙で不気味だった。
「ここで待機しましょう」
ソルトの手が、俺から離れる。彼女は何かを誘導するかのように、触覚を最大限まで伸ばしてある方向を見つめている。そこは道ではなく、複数のビルが立ち並んでいた。
確か何かが来るとか言っていたっけ。お迎えっぽいことを言っていたけれど、こんな非常事態っぽい状況に、車を飛ばしてくる剛の者がいるのか。
ソルトが道路の真ん中まで進む。俺もつられてみた。普通だと怒られそうなことができてしまうのは、まさに非常事態の醍醐味だ、などと考えている場合ではない。
「来る」ソルトが確信を持つ。
「何が」何が来るんだ?そう質問するより先に、俺も異変に気付いた。
それはほんの些細な感覚だった。最初は羽虫が肌に付着した程度の不安しかなく、俺の意識はこれから否応なく訪れる未知と期待の棘に、ちくちくと刺激された。
「ん?」
なんか近づいてくる。
静寂の水面に、一滴異物の音が落とされる。それは断続ではなく継続する音で、時が経つにつれて次第にその音量を増加し、重厚な実体を持ち始める。
硬いものが転がる音だった。舗装された道路に、重たいものを転がして移動している。
ごろごろごろごろ。転がる音は確実に、俺たちの立っている道路へ向かってきている。俺はたまらず周囲を、道の先を確認しようとした。だが何も見えない。音が限界まで近づく。
音は一瞬停止する。地面が強く砕かれる音がすると、ビルの向こう側から巨大な生き物、かもしれないものが出現した。
彼女は高く空を切ると、俺の寸前に誇らしく着地した。赤い体だった。
何か知らない内に、黄金が終わってしまいました。