逃げることは許されない
マイカのいる世界に、望まれない訪問者が出現する。
声と声でごった返す店内から一つ、明確に話しかけられる。それまでに明らかに非常事態であることを、散々伝えられたにもかかわらず、呑気にぼんやりしていた俺ははっと意識を取り戻す。
「おいそこのお若いカップル」声が再び聞こえる。
違いますそんなんじゃないです。などと言っている場合ではないのだが、俺はつい「いいえ、違いますカップルとかそんなのじゃ」と反論してしまう。
「なんでもいいわ、そんなん」
声の主は上品そうな男性だった。普段だったら、大人の色気たっぷりの女性と膝を突き合わせ、酒と肉を嗜んでいそうな、そんな感じの大人だ。
だがそんな余裕のありそうな人も、今は上品さとはかけ離れた意識の乱雑さを、一つの体に詰合せている。体全体で、こんなガキ共なんかさっさと見捨てて、自分だけでも安全な場所へ逃げ込みたい、と訴えている。しかし彼の上品な大人の部分が、それを阻止して俺達に注意し警告せよと命令し、その意志のみで彼は懸命に立ち止まっていた。
「君たち、そんな所にいないで、早く奥の避難シェルターへ逃げなさい」
彼の行動意志は凄まじかった。にもかかわらず俺は状況が理解できずに「いや、あの」と緩慢に口ごもってしまう。
「何だどうした」
男性は見るからに苛立つと、すぐに焦りの表情を浮かべる。
「もしかして、動けないのか?体調が悪いとか」
焼肉を食べて動けなくなるほど体調を崩すなんて、どんだけ食ったんだよ。なんてことは絶対に言わない。
「だったら俺が、それとも誰かにおぶってもらうとか」
この親切心に感謝しつつ「結構です」と断り、気になっていることを思い切って質問してみる。彼なら答えてくれると、ひどく不確かな確信があった。
「あの、すみません」
「なんだ?」
「皆さん、一体何から逃げようとしているんですか?」
「はあ?!」
彼がいよいよ苛立ちを露わにした。一度溢れた感情は、現実の非常さと相まって見る見るうちに膨れ上がり、俺へとぶつけられる。
「君、この非常時にふざけているのか」
「あの、俺ここに来るの初めてで、だからこの国のこととか、よくわからなくて」
居心地が悪くなった俺は、つい本当のことを伝えてしまう。そんな突拍子のない俺の言葉を、彼はあくまでも真剣に受け止めようとするが、どうしてもできない。「くにって何だよ」などと文句を言った後に、我儘で厄介な子供に言い聞かせるように、状況を説明してくれた。
「無イが来たんだよ。たった今このバルエイスの地上で大暴れしていて、今すぐにでも逃げないと全員皆殺しになる」
「それってどういう」
「ああもうやめてくれ、よしてくれ。これ以上気味に付き合っている場合ではない」
男性はそう言い残すと、ようやく体の声に従って避難をしようと店の奥へ逃げた。
「ナイが来た?」
その単語は何度も耳にしたはずだった。その言葉こそが俺がここにいる意味ではないのか、そう思っても状況がいまいち現実味を伴合わない。それが一体なんだというのだ、散々勿体ぶったが何がそんな重要なんだ、下らないことだったら。そんな脳内会議が左右の耳を行き交った。
とにかく座っているだけでは何もわからない。まずはずっとなり続けているサイレンに従って、避難シェルターとやらに逃げる必要がありそうだ。立ち上がろうとしたその時。
巨大な和太鼓を粗暴に叩いたかのような轟音が世界に響いた。そしてすぐさま鼓膜を揺らしたのは、聞くに堪えない叫び声だった。 鼻腔と気管を全力で握りつぶしたかのような、呼吸を殺しきった声を悲鳴と認識するころには、サイレンは鳴り止んでいた。
世界に短い静寂が訪れる。
他人に状況を説明できるのって、それだけで貴重な能力だと思います。