冷たさを失う
冷え切った水が、ソルトとマイカの深層意識に呼びかけてくる。
タンに始まり、ホルモンロースカルビ、ミノハラミ時々サラダ。気まぐれに、この世界では食中毒問題に敏感ではないらしい、まったくの加熱されていないユッケを久しぶりに食べた。いやそもそも空腹に身を委ねて、心行くまで食事をしたこと自体、かなり久しぶりだった。
ごくり、と一息つく。空の腹がある程度満たされると、それまで意識してこなかった世界を無意識に認識し始める。
「ごくごく」ソルトは相変わらず、ビールジョッキで水を呷りまくっている。その胸以外は比較的ほっそりしている体のどこに、そこまで大量の水分が吸収されるのだろうか。店員がいよいよおびえた視線を向けてきているが、気にしないことにした。いろいろ気の毒だが、水は無料なのである、お許しいただきたい。
ソルトに紛れて俺も水を一口飲む、確かに冷たくて美味しい水だった。舌を仲介して脳細胞が冷やされる錯覚をする。すると店内の音がクリアに聞こえてきた。
この店は炭と思わしき燃料を使用しているらしい。肉と炭火の熱を伴った香りを鼻腔に満たしながら、俺は店内を観察してみた。
飲食店としては致命的なほど排他的な外観に相応しく、内装も閉塞的でまるで独裁国家のような顧みなさがあった。なんて描写をしたら営業妨害になりそうなので訂正するが、決して居心地が悪くて今すぐにも小銭を叩き付けたい、などということは決してない。むしろかなりおもてなしの行き届いた、いわゆる「素敵なお店特集!」雑誌に掲載されてもおかしくない、素晴らしい焼肉店だった。こういうのなんて言うんだっけ?一見さんお断りだっけ?大体そんな感じだ。普通の健全な男性だったら、良い店でよい肉をほとんどタダで食事できることに手放しで喜べるのだろうか。
だめだ、俺には無理だ。ありとあらゆる、不必要な遠慮が背筋をひたひたと上ってくる。ある程度、生命が保証されてから後悔の念を抱くところが、また一層意地汚い。
それにしても。
「あいつって、結構金持ちなのかな」
「誰がですか?」ようやく一息ついたソルトが、ビールジョッキをごとりと机に置く。
「ほら、ムクラだよ。高そうな焼肉屋を知ってるなんて、なかなかのブルジョアなのかなって」
今思い返してみると、顔もなんだか貴族っぽかった。なんていうか色白で肉はあるのに不健康そうな。ただの偏見だけど。
「そうでもないと思いますよ」
ソルトは俺の考えを、やんわりと否定する。
「誰だって大人になれば、これくらいのお店に行くようになりますよ」
「そうかなあ?」
「確証はありませんけどね」
ソルトはそこで目を伏せる。
「だけど、それくらいのご褒美があっても良いと、私は思います。じゃないと」
一呼吸
「子供を捨てる意味がないじゃないですか」
彼女の言葉には複数の意味が込められていそうだが、ここでは追求しない方がよさそうだ。そのかわりに、もう一度水を口に含んで下で転がし、そして飲み込む。液体が喉を下って冷たさを失った。
焼肉店「薄荷」にようこそいらっしゃいました。当店ではお客様の五感を満たす時間を提供いたします。
当店では合成、または人口食肉を一切使用しておりません。正真正銘の本物の肉を使用しております。
肉以外にもサイドメニュー、ドリンクはすべて天然食材を使用しております。
安心安全、心行くまでお食事を楽しんでください。
(焼肉店 薄荷)