大脱走大作戦
めえめえ
そうだ、俺はあの悍ましい造形の生き物に対して。
「殺したかったんでしょう?」
違うよ。
「違う、そんなんじゃない」
俺はそんなことを、
「殺すなんて、そんのなことを考えたわけじゃ」
だとしたら何を考えて望んでいた、はっきりと言え。ルドルフの冷えた視線がそう要求してくる。いやむしろ、俺自身が答えを求めているのかもしれない。
俺は俺は、怪物をどうしようとしていた。まさか、でもそんなこと。許されない、誰が許さない?どうでもいい、今すぐにでも否定を言い訳を考えなくては。でないとこのままじゃ。
ゲル状の冷たい思考が、ぬらぬらとした手で心臓を掴もうとしてくる。
顔色が相当悪くなっているのだろう、ルドルフが心配そうにこちらを眺めている。ついさっきまでとは立場が逆転していた。違う要素と言えば、俺の方はマジで本格的に視界が暗くなってきていることだ。たぶんこのままだと本当に倒れる。
そしてついに本当に倒れた。
「うわあ?」
ただし原因は俺の不調ではない、何者かにひざ裏を割と容赦なく追突されたのだ。前方に体が大きく傾き、そのまま地面に手を叩き付ける格好になる。
「痛ってえー」
「おい大丈夫か?」
今までの冷淡な追及をすっかり忘れ、ルドルフは素早く俺を助け起こす。立ち上がると突撃された部分がじんじんと痛んだ。いったいどこの誰が、俺のような人畜無害な男をいきなり攻撃してきたのか。小一時間問い詰めてやる、と意気込んでいると。
その誰かが無言で通り過ぎて行った。蹄で地面を力強く踏みしめ、毛並みを優雅に風に流している。
「山羊だ」
そう、それはまさしく山羊であった。山羊は横長の魅惑的な瞳孔をじっとこちらに向けている、審判を受けているような気分になり、つい姿勢を正してしまう。
めえめえ。山羊はたくさんいた、一頭二頭三頭、数える気にもならないほど大群の山羊。彼らは呆然としている二人の子供など意に介さず、それぞれがあらゆる方向へとことこと歩いている。
見ると畜舎の柵が然るべき高さを失っていた。哀れにも跨げるほど低くなってしまった柵の上を続々と、進軍する遊撃隊の如く勇猛に飛び越えている。
「山羊が」ルドルフが目を丸くしている。
「逃げてるね」俺もただぼんやりとするばかりであった。
なんということだ、すっかり会話に夢中になっていたばかりに、気付くことが出来なかった。すでに山羊は大群となり、大脱走を現在進行形で実行している。
「えーと多分こう考えることは出来なかな?山羊の一頭が柵に突進して壊した。あるいは偶然にも不幸にも、柵を留めている金具的なものが緩んだとか。その結果なんとびっくり、大事な家畜が逃げてしまいました」
「呑気に考察している場合か!あほんだら!」
先にルドルフが慌ててくれた。俺の後頭部を思いやりがある程度の強さではたく。
「家畜が!家畜が逃走している!急いで捕まえるぞ!」
「わかってる!でもどうやって!」
「知るか!」
ルドルフが咆哮する、するとなぜか山羊たちは一斉に「んめえええっ!」と激しく泣き始めた。
「え、何?」
俺が驚いている間に、山羊の大群はあらぬ方向へと駆け出していた。
「ああああ、走り出した?」
「しまった…」
ルドルフが苦渋の色を浮かべる。
「とにかく追うぞ!」
「追ってどうすんだ、生憎だが山羊の捕まえ方は知らないぞ」
「ここで追いかけなかったらさらにマズイことになる…」
ルドルフの目は焦りに溢れていた。
「ただでさえ作戦が難航しているのに、そのうえ貴重な資源まで損失したら…」
隊長殿は頭を抱えそうになっていた。
「と、とにかくあの一番肉付きがよさそうなのを追いかけよう!」
作戦としてはいい加減極まりないが、この場ではこれしか思いつかない。ルドルフが気を取り直して前を向いた。
「障壁付近まで逃げられると厄介だ」
「障壁?」
「生産所と楽園を隔てる壁のことだ、無イの侵攻を知らせる役割もある」
「そうか、それがあるなら安心だね」
少しでも安心したかったのだが、ルドルフの言葉がそれを許さない。
「限りなく楽園に近い場所だからな、地下のような安全は全くない危険な場所だと覚悟しなくてはならない。同じ保護区内とはいえ、無害な生き物が無事に生きられる場所でないことは確かだ」
「…オーマイガー」
混乱している頭は、それ以上の情報を求めなかった。
俺とルドルフは山羊を追いかけて全速力で走りだす。
牧羊犬の歴史は4000年前に遡ります。