声が出ないよ
喉の痛み。
すごくどうでもよく、名前を呼ばれることが大嫌いだった。理由は、あることにはあるかもしれないが、考えたくもない。
ルドルフがウサミに命令しようとする。
「操縦士」
「…はいはい」
言葉が終わるより先に、ウサミは最後の無意味な抵抗として溜め息だけを返す。もう何でもいい、どうでもいい、そんなことは全く言っていない。だがいまにも声にしそうな雰囲気の中、映像の中の男性は帽子の下の頭皮を掻いた。
ぼりぼりぼり、皮膚が破れ血液が滲む寸前、指を止める。そして滑らかな動作でハンドルの下辺りを探り、そこにある茶色く着色されたガラス板に触れる。板を外すと中には赤いボタン、なんともいかにもな赤いボタンがあり、落屑がこびり付いた指の腹がすべすべの林檎のような丸みに押し付けられる。
「ヤエヤマ君」
また名前を呼ばれた。
「はい」
今更もう文句を言うような場面でもないし、こんなとこで言っても意味がない。なのでぼんやりと返事をする。
ウサミは多分俺の視線の方向に気づいていそうで、しかしあえてなのかわからないが俺の方を見ず、ただ真っ直ぐ前を見たまま笑った。
「今更僕が何を言おうとも、きっと君になんの意味も無いだろう。だからこそ言わせてもらう」
息を吸う。
「誰に何を求められようとも、そんなのは結局他人の言葉でしかない。だから、えーと、あんまり気負わず好きにすればいい、君の心と体は君だけのものだ」
「…はあ」
つまりどういうことですか?と質問するより先にウサミはボタンをぽちりと押す。するとすぐに体中が痺れに襲われた。
最初の数秒はびりびりと、皮膚の内側からたわしで擦られているような痛みが走る。そしてすぐに痛みは和らぎ、液体内にいることも相まってまるで電気風呂に入っているみたいな感覚が肉を加熱した。温まる体と体表の微かな刺激に、思わず変な声が出そうになった。歯を食い縛って喉からこぼれそうになる音を止める。
痺れは束の間の不快感を肉体に与え、脂っぽい汗を少しだけ滲ませた。しかし心臓が鼓動を重ねるごとに麻痺は水彩絵具のように薄まり、形を失っていく。後に残されたのは骨と関節のずくずくとした痛みと、筋肉の発熱が引き起こす火照りだけだった。
「どうかね」
いつになく真剣な面持ちでウサミが指を組む。
「これで機体の動作権利は、一部を除いて一応君に移った筈。なんだけと、調子はどう?」
仕事らしい態度で俺の心配をする。
「気分は悪い?」
とりあえず深呼吸をしてみる、喉が腫れているみたいに痛かった。
「悪くはないです」
最後の発音は掠れて、スナック菓子を踏み潰したような声だった。
ボタンを押さない選択ばかりでした。