表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ヤマダヒフミ自選評論集

狩野尚信の絵から芸術について考える

 国立博物館の常設展をざっと見てきた。体調が悪かったので、ろくに見られなかったが、印象に残ったのが、狩野尚信の「瀟湘八景図屏風」と酒井道一の「夏草雨図屏風」の二つだった。

 (酒井道一の作品は酒井抱一の模写らしい。ややこしい事に、酒井道一は酒井抱一と血縁関係はない)


 話を狩野尚信に限ると、この人は狩野探幽の弟だそうだ。個人的な話だが、小学生の時、どこかの城に家族で行った時、狩野探幽の鷹の屏風絵を見ていたく気に入った。帰りがけにお土産用の小さな屏風を小遣い全部使って買った。確か三千円だったと思うが、この小さな屏風は今も部屋に飾ってある。小学生の頃の自分と今の自分、やっている事が何も変わっていないというのには自分でも奇異な感じを受ける。あの頃から何も変わっていない。


 話を戻すと、狩野尚信の屏風絵は墨汁で書かれた山水画で、したがって、黒白のコントラストだけで全てが表されている。おまけに、尚信の屏風絵は余白をたくさん取ってあり、描かれている部分は屏風の大きさに比べると、少ない。それも、いかにもサッと、筆で描いたというように描かれている。つまる所、余白を存分に使い、なおかつ余計なゴテゴテとした装飾はない、簡素で清潔で美しい、というスタイルの山水画だ。

 

 しかし、その絵を見て、つくづく、達人というのは凄いものだと感心した。絵の中に、小さく三角のようなものが描かれているのだが、よく見ると「おそらく、これは傘を差している人間なのだろう」と予測できる。本当に何気なく、墨でサッと描いているだけなのだが、ただ墨の濃淡、線の太い細いだけで、そこに一つの世界を具現化できる。日本人というのは、抽象的な思考や哲学は苦手な部類だろうが、ほんの僅かな線を太くした細くしたり、年がら年中土をいじくってその色がどうであるとか光沢がどうのとか、そういう事に関してはかなり発達した感覚を持っているのではないかと思う。

 これに関しては特色であって、良い悪いの話ではない。また、今のオタク文化、Pixivなんかでそれぞれに絵を描いて見せ合うというのも大きく言うとそういう日本人の特色の延長にあるのではないかと思っている。


 それでただの感想で終わっても面白くないので、ここから芸術論に持っていこうと思う。狩野尚信の簡素でありながらも、達人的な絵が何故素晴らしいのか。それはもちろん、狩野尚信の努力と修練、その達成によるものだが、最近読んだ中谷宇吉郎のエッセイを見ると、そこに、読者の方の認知機能も大きく関わっている事が分かる。中谷宇吉郎の「南画を描く話」から引用する。


 「或る日新聞の写真を見て、一つの発見をした。それは知った人の顔が沢山並んで小さく写っている写真であったが、それが皆ちゃんと誰れ彼れの顔に見える。一人の顔が小豆粒大に写っている写真である。よく気をつけて見ると、顔の形をなすものは大部分が黒くて、その一部に白い斑点があるだけのものである。中間の墨色のような所はほとんどないし、白い斑点の形もほとんどどの顔でも同じような恰好である。それでいて皆の顔にそれぞれの特徴が出ていて、表情までも分るのであるから、これは大したことだと感心した。」


 「要するに人間というものは誰でも、すべての物について、単にいくつかの要素を抽象した像だけを頭の中にもっているものらしい。それでそういう像を頭の中に再現してやれば、それで満足するのではないかと思ってみた。そうすると、観者を共同製作者とするための一つの技術は、観者の頭の中にある沢山の線の中の一本をぴんと鳴らしてやればそれで良いので、後は共鳴現象に似た作用で、観者が初めからもっている像が再現され、それが立派な絵に見えるものらしい。」


 重要だと思うので、長々と引用した。要するにここで言われている事は、例えば僕が、狩野尚信がサッと描いた小さな三角形を、「傘を持った人」と認識する、視聴者の側の作用も重要だという話だ。狩野尚信が達人なのは間違いないが、それは見ている側にある、いわば、「形態認識作用」を刺激するのに十分な描き方を知っており、実践できるという事と大きく関係がある。


 この「形態認識作用」が脳科学的にどこに位置されているのか全く知らないが、確かに存在すると言える。例えば、壁の染みが人の顔の形に見える、という時、僕らはその人が「幻を見ている」とは言わない。しかしながら、それは単に「壁の染み」でしかないから、厳密に考えれば幻みたいなものである。しかし、それは幻ではなく、言ってみれば現実から抽象された像だ。この抽象された像は物そのものではない。それとは違うものを取り出す作用を人間は進化する上で手に入れたのだろう、と推測できる。


 さて、この形態認識作用があるからこそ、新聞の顔写真は荒い画像でできているにも関わらず、その人が誰か分かるようになっている。この現実からの認識作用を逆に転用する事ができるようになると、その人は達人と呼ばれるようになる。そんな風に考える事もできるのではないか。つまり、狩野尚信は僕らが、現実をそれぞれの認識作用によって見ているという事を、絵の技法として知り抜いており、それを刺激するようなタッチで描けば、そこにゆうに、山や鳥や傘を差す人が、単なる○だった△だったり・だったりしても、きちんと具現化する事ができる。しかもそれは、単なる○や△なのに、「どうしてこんな見事に描けるのだろう」と感心してしまうようなレベルに到達してしまう。しかしそのような高いレベルも実は、視聴者の認識作用が深く関わっている。


 更にこの続きを考えると、認識作用自体にも高低のレベルがあるようにも見える。芸術の鑑賞眼のある人とない人では同じ絵に対する見方が全く違う。その場合、天才の絵も、見ている方のレベルに合わせて霞んで見えたり、美しく映ったりする。


 こうした時、形態の認識作用というのはどうなっているのか。例えば、新聞の粗い写真を見て、それが人の顔だというのは誰でも分かる。「これは花だ」「これは鳥だ」というのは誰でも持っている形態認識だろう。しかし、「その花は美しいか」「この鳥は美しいか」というと、より一歩踏み込んだ認識になる。この辺りから問題が現れてくる。だから、本源的に言えば、「ゴッホの絵は美しくもなんともない」と言っている人と「ゴッホの絵は美しい」と心から言う人では、そもそも違う絵を見ている、と考える方が至当に思える。彼らはそれぞれの認識力に見合った対象を見ているのであって、そもそも違う対象を見ている。そうくくった方がわかりやすいかもしれない。


 この問題を更に延長して考えよう。例えば、「芸術における想像力」という言葉がある。優れた芸術家は「現実とは違う想像力」を有している。しかし、そうではないのではないか。狩野尚信のように優れた芸術家が見ている現実は、我々よりも一段深い現実なのであって、現実離れしたものではない。現実離れだと言えば、そもそも、壁の染みが顔に見えるというのが現実ではないと言っても良さそうだが、普段、僕らもそのように「現実」を構成している。


 この時、構成されている現実をより深く認識し、それを形に表すのが芸術家の仕事ではないか。とすると、芸術家は、空想的な存在というより、むしろ、一般の人より「現実的」な人物と言っても良いのではないか。認識が深まるという意味において、芸術家はより、現実的だ。


 文学に話を振ると、小林秀雄は、同じ自然主義作家のゾラよりもフローベールの方が優れていると断じていた。ゾラにおいて感じない、現実のリアルな空気感はフローベールの小説により感じる事ができる。しかし、ゾラもフローベールも、言葉という抽象的なものを用いているではないか。そこから、「よりリアルである」という評価はどうして出てくるのか。それはつまりーー現実と呼ばれているものがそもそも抽象的なものだからだ。


 例えば、シェイクスピアのセリフというのは全く日常的ではないし、大げさで、わざとらしい。だが、シェイクスピアの作品を空想的とは我々は呼ばない。シェイクスピアの作品にあらわれているセリフは、狩野尚信が僅かなタッチで再現している事実と同じように、事実をある角度から非常に極端な形で抽象して、取り出したものと言える。人の心理を描くというが、そもそも心理とは何かという事柄それ自体が「描く」という方法論と溶け合っている。つまり、心理があってそれを描くのではない。そもそもいかに描くかというのが、その人の心理そのものなのだ。


 このように考えていくと、芸術家というのは、事実をいかに深く認識するか、という一点にかかるように思われる。芸術家は現実と離れて空想を生み出す、我々が愉しめる空想を生み出すのではなく、そもそも、我々が現実を空想的に構成しているという事実からスタートし、より詳細で、確かで、深い現実を空想という形で生み出す。そう言った方が至当に思われる。


 だからこそ、「芸術なんて所詮、絵空事だ」という時代を通じた批判を越えて、芸術は存在し続けてきた。「芸術なんて所詮、絵空事だ」というのであれば、「我々のしている事は全て絵空事だ」と言い切ったほうが良い。そこまで言い切った時、ようやく絵空事である芸術は力を発揮する事になる。逆に、現実と空想を分けて、現実的なものに固着する行為はしばしば、空想を追いかけ、現実を見失うという結果に終わる。何故そうなのかと言えば、そもそも我々が現実と呼んでいるもの自体が空想的ものだからだ。

 

 と、すると芸術はその空想を通じて現実を構成するものだ、と言えるだろう。もっとも、今の時代のように、フィクションが膨大に膨れ上がり、一般化した時代で、そうしたもの自体を現実として捉える芸術がどのような形になるのか、誰にも分かっていない。そうした事はおそらく、それぞれのジャンルの芸術家がこれから具体的に、少しずつ作り上げていく事になるのだろう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] やはりヤマダヒフミさんの論は面白い。 理解しきれないところばかりだけれど、たまに読み返すと感じるところがあります。 私は先日、とある美大の学祭に行きましたが、このような展示を観ました。 名…
[良い点] このエッセイを読んで、マグリットの絵が頭に浮かびました。 「構成されている現実をより深く認識し、それを形に表すのが芸術家の仕事」というのが、マグリットの絵のイメージとぴったりで、今まで漠然…
[一言]  世界認識と世界解釈、美意識の問題、なんだと思うのだけど、『芸術家は、現実をより深く認識している』というのは、当人にとっての美の追求という意味ではそうだとは思う。  ただそれが、普遍的か…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ