21 奇跡なんて
その日、一つの平穏が終わりを告げる。
剣が突き立てられ、村には似つかわしくない、鈍色の鎧が地面を踏み締める。
その眼光は穏やかで、恐らくは笑みを浮かべている。
けれど、その視線にはあるものが欠けている。
まるで家畜を見るような目。
人間を見るような目では、間違ってもない。
鎧――騎士は、まるでそうするのが当然とでも言うかのように剣を振り上げ、振り下ろす。
それだけの動作。
たったそれだけの動作で、ぱっと血花が舞い散った。
呆然と見上げていた顔が、そろりと自分の胸元に落ちる。
その瞬間、初めて自分が切られていることに気が付いた。
騎士の瞳は、穏やかなままで。
その時、彼は思い出すのだ。
自分は未だ、家畜以下の存在だったのだと。
悲鳴が響く。
絹を裂くように、森を裂いて。
だからこれはきっと夢なのだと、彼は意識を手放した。
「我々は栄光あるフェムト王国が誇る第3騎士団である! 我らが王は貴様らの殲滅を命ぜられた! 今日まで生きてこられたのは誰のお蔭か! 我らが王が黙認していた為であるッ! で、あれば、貴様らの命は王のもの。王が死ねと命じたのだ! 疾く死ぬがよいッ!」
大喝する男の姿を、私は知っている。
第3騎士団の副団長。カール・マイヤー卿。誠実で、人柄の良い平穏を愛する人物だった。しかし、だったというのは、私の記憶の中だけの話だったのかもしれない。
だって、こんなことする人じゃなかった。
「お嬢様!」
エミリアが私の視線を遮るように前に立つ。
まるで血の海に沈む彼を見せないようにするように。
人の死から、目を反らすように。
でもそれは全くの無駄なのだと知っている癖に。
デュオが死んだのを目にした時から。
「どいて、エミリア」
いてもたってもいられなくて、エシルさんの制止する声を振り切って外に出てきて……その時には、もう手遅れだったのだ。血河に沈んだ彼には、名前も知らない彼には、声をかけることさえできずに死んでしまった彼には、申し訳がないとさえ思う。
だってカール・マイヤー卿は。
彼は私の父の――
「カールっ!」
私は、思わず飛び出していた。
その際に、一切の思考はなかった。
自分がどうなるかとか、なにも考えなかった。
考えている暇さえなかった。頭の中が真っ白だったし、目の前が赤かった。
「おお! アンナ姫様! ご無事だったのですか!」
全く白々しい。
両手を広げて、嬉しそうにカールは笑う。
「なにを――なにをしているの!?」
「……先ほど言ったではありませんか」
それがどうしたと言わんばかりに、呆れたように息を吐く。
「王の命令ですよ。ええ、この薄汚い奴隷どもの村を、我らが王は殲滅することにしたのですよ」
同じ言葉。
同じ表情で。
信じられなかった。まさか、お父様がそんなことをするなんて、到底信じられなかった。
「なにを馬鹿なことを言うの!?」
信じたくなくて、声を張る。
こちらを見る視線。
そのことを痛いほど感じる。
私の立場。
シルルが私の背後で息を呑んだのがわかった。
知られてしまった。
知られて。
「馬鹿なこと? アンナ様こそなにを言っているのですか? このものたちは奴隷ですよ? 家畜となんら変わりない。いや、家畜以下の畜生かもしれません。王は黙認して生かしていたのですが。ええ、芽は潰さねばなりませぬ。つい先日、決意されたのですよ。ああ、それと」
首を振り、カールは私に剣を向ける。
「あなたの首もお望みですよ。どうやったのかは知りませんが、デュオのやつから逃げたのですね」
「私の、首」
思わず視線を下に向ける。
薄々そんな気がしていた。思えば最初からおかしかったのだ。けど、信じたくなかった。信じられなかったのだ。
「お嬢様! 耳を貸してはいけません!」
エミリアが私を守るように、そんな言葉を告げる。
けれど、けれど、だ。
その程度のことを聞き流せなくてなにが姫だ。
私は知っている。理解している。そんなに守られる程、私の心は柔じゃない。
ああ、知っているとも、父は私を殺そうとした。
そのくらい。
ひゅん、と風切り音。
ぱしんと、何事もないように、カールは剣を振るう。
「っち」
小さな舌打ち。
背後から。
見ればミィルが弓を構えている。すでにその手は離されていて、矢は放たれていたことを示している。そして、その矢が無残にも弾き落とされたことが、カールの足元に落ちる残骸からわかる。
見えなかった。
見ることさえできなかった。
「ふむ」
ちろりと目を細めてカールはミィルを見詰めた。嫌な目。人を見ていない目。
「おい。ここの長は誰だ?」
「私だが」
間髪入れずに、エシルさんは歩み出る。
ゆったりとした足取りで、私さえも押して、前に出る。
庇うように。私には……。
「そうか。お前の村のものが騎士に危害を加えたぞ?」
「誠に申し訳ないことです」
言って、静かにエシルさんは膝をついた。深々と頭を下げる。
「ほう、私の命の危機は、お前程度が頭を下げれば済むのか?」
「いいえ、滅相もありません。どうぞ、私めの首をお取りください」
「そうか、どうしてもか?」
「どうしてもです」
「そうか」
言って、カールは剣を振り上げる。
なにを馬鹿なことを!
私は考える間もなく、その剣の前に身を晒していた。
会って数時間も立たない相手を護る為にだ。私こそ、傍から見れば馬鹿なのだろう。けど、それでも、目の前でさっきまで楽しそうに話していた人が目の前で死ぬのは、見過ごせない。
見過ごしたくない、のだろう。
どうしたらよかったのか。
そんなことはわからない。
知らない。
けど、そうしたかったから、そうした。
そうした所でなにも変わらないと知っていて、そうした。
結局は同じだって知っていて、そうした。
つまり私は卑怯者だ。
自分が見たくないから。
自分がそんなものを見たくないから、先に死んでしまおうとしたのだ。
そう考えた方が辻褄が合う。
この私の行動は何時だって打算塗れで嫌になる。
だから――
ひっ、と思わず目を伏せた。
怖くて、逃げたくて、逃げられなくて。
だから――
だから――
「こわい」
声が漏れるのは必然で。
振り下ろされる刃は遅くて。
現実味がなくて。
だから――
だから――
だから――
「たすけて」
呟くように。漏れた声。
そして衝撃。
がきん、とまるで岩にでも当たったような激しい音がした。
痛くない。
冷たくない。
刃の威力は何時まで経っても私に届かない。
恐る恐る、目を開ける。
「ルティア?」
そこには、よく見知った石がいて、私は思わず意識を手放した。




