9 やさしいボール(後)
アオイの成長はすさまじかった。メンタル面が安定しないのが弱みらしいが、本気さえ出せれば、部長さんでも一セットも取れないだろう。
他校との練習試合などでは、エンちゃんも団体戦に出ることもあったが、もはや主戦力はアオイに固定されつつあった。
エンちゃんは、気にしてませんよ、当たり前じゃない、って顔しているけど。わたしには、彼女の心境の変化が手にとるようにわかった。
体育や部活でラリーの相手をしてもらうとき、エンちゃんの球は日に日に粗くなっていく。あせっているような、向こう見ずな、力まかせな球だった。エンちゃんは、前みたいにやさしく打ち返しているつもりみたいだった。だけど、わたしにはわかった。
こんなことがあった。アオイとの練習試合で、エンちゃんはアオイから一点も取れなかった。
「今朝から、おなかの調子が悪かっちゃんね……」
ぼそぼそと、だれにも聞こえないような小さなつぶやきだった。
「だいじょうぶ? 保健室いく?」
だれにも聞かれなかったと思っていたらしく、わたしが心配して声をかけると、エンちゃんはバツが悪そうに口をつぐんだ。
エンちゃんはそうやって、徐々に自分のペースを見失い、試合のたびにおじさんにウソをつく。べつに口止めされたわけでもないが、わたしはいつも、そのウソの報告をだまって見届けた。
「私、期待されとるけん。いつも負けとるって知られたら、パパに顔向けできんもん」
エンちゃんがいつかそんなことを話した。彼女の目元には影がおちていた。おじさんは、エンちゃんのウソに気づいている。エンちゃんも、ほんとうは気づいているのだろう。おじさんの過去の栄光が、じつはウソだったってことに。自分がサラブレッドなんかじゃないってことに。
そんなことが度重なり、どうしていいかわからなくなったわたしは、ある日、わたしの部屋にやってきた涼二に相談してみた。
涼二は、サボテンのトゲを愛おしそうにさわりながら、口をひらいた。
「どうしようもなにも、麻衣にはなんにもできないだろう」
「どうして? エンちゃんもおじさんもウソをつきあって、しかも、お互いのウソに気づいているんだよ。こんなの、もやもやじゃん」
「しゃーない。うまくいかないのに、それでも親や子に自慢しなきゃならんときは、これはもう、ウソをつくしかない。スポーツって、実力がすべてだもの」
「実力……」
スポーツマンじゃないわたしには、共感しえないことだった。
八月に全国高校卓球大会の予選が行われた。
片井先生が発表する団体メンバーは、今回もエンちゃん抜きの五人だった。団体戦に向けて準備運動をはじめる五人をしり目に、エンちゃんと試合会場の外に出て、いっしょにピノを食べた。
会場入り口の脇に、落葉小高木が植えてあった。樹皮はすべるように滑らかで、枝のさきには薄紅色の花が咲いている。無言がつづいたので、ひまつぶしに頭の中で植物図鑑をひらいた。たしかこれは、百日紅の木。夏のあいだじゅう咲きつづける樹木で、幹がツルツルして猿も登れなさそうだから、百日紅と書いてサルスベリと読む。
エンちゃんは百日紅の幹に背をあずけた。
「応援する気、だんだんなくなってきちゃった」と彼女は言う。
「スポーツは実力の世界やもん。私が弱いのがいけんのやし、仕方なかといえば仕方なかとやけど……」
実力という言葉を、エンちゃんも使った。エンちゃんは自己嫌悪気味にかぶりを振って、ピノをもう一つ食べた。
「あー、もう。私はホントしょんなかなあ」
「しょんなか?」
「どうしようもないヤツ、って意味」
「どうして、エンちゃんがしょんなかとね」
「博多弁うまかじゃんけ、麻衣ちん」
エンちゃんはげらげら笑った。わたしは笑い返せなかった。そんなことを言い出すエンちゃんに、わたしは何故だか、泣いてしまいそうだった。
「しょんなくないよ、エンちゃんは。練習がんばってたじゃん。こんどこそ個人戦で勝って、先生に見直してもらえばいい」
「ムリだよ。私、だめだめやもの。だって私、みんなが団体戦で戦っとるときに、応援するフリしとるだけなんだよ。ホントは、はやく負けないかなって思っとるもん。ちゃっちゃと負けて、はやく帰りたいなって、思うとるもん。こげんしょんのなか選手が、勝つるわけなかどもん……」
エンちゃんは言葉尻をちいさくして、細かく鼻をすすった。
団体戦は四回戦まですすんだが、ここにきて去年の優勝校と当たった。一番手のアオイだけはなんとか辛勝できたが、チームはここで敗退してしまった。
つぎは個人戦である。トーナメント表を見たわたしは、すぐさまエンちゃんに歩み寄った。一回戦を勝ちすすめば、アオイと当たる組み合わせだったのだ。
「エンちゃん、チャンスだよ」
エンちゃんをつつむ空気は暗かった。
「私、すくなくとも二回戦負けじゃんね。もし一回勝てたとしても、アオイと当たるんじゃなあ」
「勝てなくてもいいよ」わたしはつよく言った。「がんばればいいんだよ」
わたしはこういう勝負ごとに関してはからっきしだし、うまくアドバイスできないが、これだけは言える。エンちゃん、がんばるだけでいいんだよ。ふてくされるばっかりじゃいけないんだよ、って。
エンちゃんのシングル一回戦で、わたしは部長さんとアオイをたずさえて彼女の試合を観戦した。一セット目は相手が先取。二セット目は六対二点で、またしてもエンちゃんが押されている。
「エンちゃん、なにがいけないと思う?」
部長さんとアオイはフェンスにぴったりくっついて、エンちゃんの動きを観察した。
「ちょっと、フットワークが固いかな」
「あとは、相手の弱点をもっとついた方がいいと思います。相手、左右のゆさぶりに弱いみたいです」
わたしは一階に降りて、エンちゃんのセコンドについた。
「エンちゃん、もっとリラックスだよ。足をうごかして。それに相手のひと、左右のゆさぶりに弱いみたいみたいだから、やってみて」
二人の助言をまるぱくりした。エンちゃんはためらいがちに、やってみる、とうなずいた。
エンちゃんは最後までねばり、ぎりぎりで勝利をおさめた。それでもエンちゃんの顔色はよくなかった。これからアオイと戦うからだろう、そう思ったが、どうやらそれだけではないようだった。
「一回戦勝ったって、パパにメールしたっちゃけど。そしたらパパ、いま会場のちかくにいるから、見にきていいかって」
「いいよって返しなよ、エンちゃん」
エンちゃんはおどろいてわたしを見た。わたしは、もしかしておせっかいなことをしているのだろうか。クミカやノブテル、利恵のときみたいに。
「負けることは恥じゃなかって、そう言ったの、エンちゃんだよ」
そしてわたしはアオイの方を振り向き、「あんたも、手抜いちゃだめだからね」と言った。エンちゃんは携帯をにぎりしめて、下を向いた。卓球部の全員がエンちゃんに視線をおくっていた。
エンちゃんは、今日だけでやたらゆるくなった鼻をすすり、意を決しておじさんに電話をかけた。「もうすぐ始まるから、はやくきて」、そう告げた。
「アオイ。私なんかに負けたら、鼻水だして笑っちゃるけんね」
アオイはぽかんとしてから、「はい!」とおおきく返事をした。
わたしはエンちゃんのセコンドにつく。部長さんはアオイについた。頭上の観客席からは、おじさんと、ほかの部員たちが見まもっている。
第一球目、アオイが新幹線のように速いサーブをはなった。エンちゃんは打ちそこねる。だけど、彼女の顔にはもう翳りはなかった。
一、二セットとアオイに取られるが、次セット、エンちゃんは巧みなストップレシーブとねばり強いドライブを上手に使い分け、見事アオイから11点をもぎとった。
これで一対二セット。あいかわらず、エンちゃんにあとはない。
わたしはかたく目をつむった。
「エンちゃん、がんばれ!」
そして白球が打たれた。
◆
あれから、数週間が経つ。
アオイは個人トーナメントで準優勝をかざり、インターハイ進出となった。彼女はいま、都内で全国の卓球プレイヤーと戦っているだろう。
わたしたちは結果報告を待ちながら、体育館で練習していた。練習のあいまに食べようと思い、ギンガムの布バッグにおにぎりをたくさん入れてきた。「こらまた、かわいいバッグやね」とエンちゃんに笑われたけど、わるい心地はしなかった。
「エンちゃんの球、やさしくなった」
ラリーをしながらわたしは言う。ラリーばかり半年もやっているものだから、五十回はつづけられるようになった。どことなく、太ももや二の腕が細くなった気がする。
「そうかなあ」
エンちゃんは、いまいちピンとこないようだった。
「そうだよ。エンちゃんの球、やっぱり好きだな」
やさしくて、マイペースで、純朴。かつん、となって、こん、と落ちる。エンちゃんだけのやさしい球。
がんばるだけでいいんだよ、エンちゃん。自分だけの、きみだけのペースで、エンちゃんはがんばればいいんだ。
――かつん。
エンちゃんはなんだかハラオチした様子で、ふっとほほえんだ。わかったよ。そう言われているみたいだった。
――こん。
「もしかしていま、会話できてた?」
「うん、たぶん、できとったよ」
感激して、おもわず空振りしてしまった。