8 やさしいボール(前)
春も目前のことだった。雪は冬休みのうちにしぼり布巾みたいに降りきってしまい、校内の落葉樹には新芽が萌えはじめている。もうすぐ桜が見られるのだ、そう思うと、気楽な高校一年生の終わりも気にならなかった。
「麻衣ちん。ペンホルダーの持ちかた、そげんじゃなかって」
エンちゃんが卓球ボールを手でキャッチして言った。てっきり返球がくるものと思っていたわたしは、そのままへんなかっこうで空振りしてしまい、耳まで真っ赤になってしまった。
体育の授業だった。エンちゃんはわたしにつきっきりでラリーを教えてくれる。三学期の体育は選択科目で、バドミントン、バスケ、卓球とえらばされる。バドミントンもバスケも体力的についていけないな、と踏んだわたしは、いちばん楽ちんそうな卓球をえらんだ。
しかし、卓球はおどろくほど人気がなかった。わたしとエンちゃんと、他二名の男子だけだ。
「こう、卵をつつむようにして、そう、それでよか」
「ありがとう」
エンちゃんは屈託のない笑みをうかべた。地元福岡弁のなまりもそこそこに、麻衣ちんは運動オンチやけんね、と笑った。わたしたちはラリーを再開した。
「エンちゃんって、もしかして卓球部?」
「いちおう、うん。麻衣ちんは?」
「わたしは、むかしから塾通いだから……」
「ははあ。麻衣ちん、いつも成績トップやもんね」
照れついでに、もう一回空振りしてしまった。
こうしてエンちゃんとあいさつ以外で言葉を交わすのは、じつはこの授業が初めてではなかろうか。彼女はいつも教室のすみっこにいて、少数規模の交友範囲でアニメやインターネットの話をしている。わたしも、どっちかといえば大人しいほうなので、一歩間違えばエンちゃんたちのグループに入っていたかもしれない。だが、そもそもわたしは、脳みその古いタイプの人間であった。アニメやインターネットといったサブカル文化にはついていけそうもない。
しかし、わたしは今日づけでエンちゃんの弟子になったのだ。エンちゃん流卓球術の門下生である。まぁ体育の授業のあいだだけ、なんだけど。
「わたし、今日は塾お休みだよ」
エンちゃんは、それがどうしたの、という顔をした。
「卓球部の見学していい?」
卓球部は、部員たった五名の弱小部だった。男子はいない。五人とも、エンちゃんみたいな、ものしずかな女の子たちばかり。
「五人でちょうどいいよ。団体戦は五対五だからね」
これは二年生の部長、朝田先輩の言だ。
卓球台を一卓借りて、エンちゃんと授業のつづきをやった。
エンちゃんがバックスピンサーブを打った。回転ボール。わたしごときに打ち返せるものではなかった。ボールはラケットの角っこに当たり、あらぬ方向へと飛んでいく。
「イジワル」
「ごめんごめん。すっかり部活モードに入っちゃって」
そして彼女はボールを拾って首をかしげた。
「麻衣ちん、もしかして、卓球部入りたい?」
「ううん。わたし、ダイエットがしたいんだ」
わたしの理想は、運動部のスラリと引き締まった足だった。かくいうエンちゃんも、おっとりした顔つきに似合わずカモシカレッグだ。
「部活には入れないけれど、卓球って、運動嫌いなわたしでもけっこう楽しいかも。どうしてだろう?」
何度ラリーをつづけても最初にミスするのはわたしだったが、楽しいものは楽しいのだ。エンちゃんはフォアハンドをしゅっと振りぬいた。
「卓球って、相手との距離が近いし、球のテンポも早かろう」
「それがどうしたの?」
「なんか、会話みたいじゃん。ヒソ、ヒソ。コツ、コツって。ほら、おしゃべりのペースに似とらん?」
たしかにそうかもしれない。エンちゃんは詩人みたいなこと言うんだな、と感心してしまった。
「エンちゃんの球はやさしいから、わたし好きだよ。本人に似たんだね」
「お世辞が上手、麻衣ちんは」
そう笑ってから、エンちゃんは真剣な顔をつくった。
「ばってん、こげん甘か球ばっか打っとられん。部員の中じゃ、私がいっちゃんへたっぴやけんね」
「エンちゃんが?」とてもじゃないが、しんじられなかった。
「そう。このままじゃ、来年度入ってくる新入生にしめしがつかんし。今のうちに鍛えんとね」
「がんばってね、エンちゃん」
エンちゃんはかわいらしく笑って、うん、とうなずいた。
どうしてもっと早く彼女と友達にならなかったんだろう。エンちゃんは、教室ではわたし以上に大人しいけれど、いったん話しかければ気持ちいいくらいの返事を返してくれる。ひねくれもののガリ勉が多いこの学校では珍しいくらいだ。
エンちゃんのかけてくれる言葉は、ほんとうに彼女の打つ卓球ボールのようだった。かつん、と耳心地よい音がなって、こん、と拾いやすい位置に落としてくれる。とってもやさしい、エンちゃんだけの返球だ。
山がピンク色に染まる。校庭にも、しだれ桜やライラックが咲いた。
四月のおわりに久しぶりに卓球部へ遊びにいくと、見慣れぬ部員がいた。部長さんが近づいてきて、その新入部員を紹介してくれた。
「こちら、新入生の水谷アオイさん。強豪、山岡中のエースだったんだよ」
アオイはほっぺたを赤くして頭をさげた。卓球部の例にもれず控えめそうなコだった。
これで部員は偶数の六人になったので、わたしは遠慮して、今日はみんなの練習をながめるだけにした。アオイは、部長さんとロビングをやっていた。部長さんが決めるスマッシュやドライブを、アオイがひたすら遠くから打ち返すのである。部長さんがいくら鋭い攻撃を放っても、アオイは受け流すようなツッツキで返していく。たしかに彼女は上手だった。いともたやすくボールをさばく姿は、芸達者なサーカス団員のようだった。
エンちゃんがタオルで汗を拭きながらやってきた。
「こりゃ、負けとられんばいな」
いつもよりオジサンっぽく言うので、わたしは思わず吹き出してしまった。
そして六月、しのつく雨が降りしきる日曜日に、県連盟が開催する高校卓球大会が行われた。場所は市街地にあるスポーツセンターである。部員たちは、顧問と副顧問が運転する二台の車に分乗して向かった。
開催施設までは、わたしの家からけっこう近い距離にあったので、用意したお弁当を手に会場まであるいた。
選手たちのウォームアップと、梅雨の湿気も手伝ってか、会場内はむっとするような空気がたちこめていた。わたしは、うちの卓球部員をさがした。
「麻衣ちん、こっち」
二階の観客席からエンちゃんが手招きした。ラバーを拭いたり、素振りしたり、卓球部はもう試合の準備をはじめている。
「おやつのババロアつくってきたんだよ。みんなの分もあるから」
一晩じゅう冷蔵庫でキンキンに冷やしておいたマンゴームースのババロア。みんなよろこんでくれて、部長さんがわたしの背中をぽんとたたいた。
「うちの専属マネージャーになる? 西江ちゃん」
まんざらでもないわたしは、はにかんで頬をかいた。
団体一回戦がはじまった。エンちゃんだけ観客席にのこった。
「団体戦、でないの?」
「私、二回戦の三番手からやけん。片井先生はさっそくアオイを活躍させたいみたいよ」
わたしは片井先生の意向にあまり納得できなかった。アオイはあくまで新人だ。いきなり団体に出すなんて、ひいきだと思った。
「じゃあ、二回戦からがんばってね」
エンちゃんは苦笑いした。
「うん。勝ちすすんだらやけどもね」
一試合目はアオイが出た。
以前アオイが、自分は新しい環境に来るとすぐにおじけてしまうのだと、自身で語っていた。たしかに彼女は緊張しているようだった。アオイの戦型は、守備を重視した、いわゆる『カット主戦型』だ。どんなに相手から攻撃を受けようとも、意地でも下回転のカットやブロックで守りきり、敵のミスをさそうのである。そのためカットマンは常に冷静でなければいけないが、アオイはあせってスマッシュに手を出し、自らミスを呼んでいた。
なんとか初セットは勝てたが、結局三セット取り返され、負けてしまった。
元強豪中のエースがやられてしまったせいか、すぐさまチームの士気がおちたように見えた。勝てたのは部長さんだけで、我が校は一回戦敗退をきしてしまった。
「エンちゃん……」
おもわず彼女の顔色をうかがうが、エンちゃんもどう反応してよいものかわからないようだった。
団体メンバーが観客席にあがってきて、アオイが泣きだしそうな顔でエンちゃんのもとへやってきた。
「やっぱり、遠藤先輩がでたほうが、よかったんです……」
「そぎゃん顔して、バチあたるよ」
エンちゃんはむりやり笑ってみせた。
「せっかく試合に出してもらえたとに。負けることは恥じゃなか。なんていうか、私なんていっつも負けよるけど……その、なんちゅうかなあ」
いいことを言おうとするエンちゃんだったが、耳がしだいに赤くなっていくにつれて、言葉ももごもごとつまっていった。チョコボールのふたを開けて、「まぁ、食わんね」と苦しまぎれに言った。
「つぎ、個人戦やけん。そっからがんばれば良か」
アオイは両手をそろえて上に向け、おちてくるチョコボールをうけとった。
「あ、ありがとうございます……」
そのあと、トイレへ向かうアオイに、わたしは話しかけた。
「エンちゃんは口べただから、たまにああなっちゃうんだよ。へんな意味はないから」
アオイは首を振った。
「あたし、むしろさっきので勇気がでました。ほかの先輩方のはげましと違ってぶっきらぼうだけど、その分、ちゃんと心のそこから言葉をかけてくれて。あたしもうまく言えないけれど、遠藤先輩って、すごくいいひとなんだなあ、って」
それを聞いて、分かってるなあこいつ、とわたしはほっとした。
「アオイは、いいコだね」
アオイはもじもじして、頭をさげた。
個人戦、エンちゃんは一回戦で負けた。もうちょっとで勝てたのに、かなり惜しい試合だった。試合後、彼女はすぐトイレに入ったが、出てくると、いつもみたいなケロッとした表情を浮かべていた。
「麻衣ちん、ババロア食べたーい」
そうやって甘えてきた。
二人でババロアを食べているあいだに、第三回戦で部長さんとアオイが当たってしまった。うちで生きのこっていたのはその二人だけだったので、部員全員で体育館に降りて、二人まとめて応援した。
「アオイ、ちょっと」
一セット目を勝ち取った部長さんが、アオイを呼んだ。アオイはすこしたじろいで、部長さんのもとに来た。部長さんの目は真剣だった。
「あんた、手加減しなくていいからね」
つづいて、二セット、三セット、四セットと、アオイは点数的にも大差をつけて部長さんを下した。アオイは煮えきらないような顔をしていたが、部長さんは逆にすがすがしそうだった。
「やっぱ違うねアオイは。まったく、手も足もでなかった。間違いなくうちでもエースになれるよ」
エンちゃんが伏し目がちに、斜めしたへと視線をそらすのが分かった。
アオイは準々決勝まで勝ちあがったが、そこで引退前の三年生とぶつかり、ストレート負けで幕をとじた。
顧問の片井先生が声を低くして、「気にするな。水谷はこれから伸びるんだから」とアオイをはげました。
ミーティング前の休憩で、スポーツセンターの外に出ると、迎えにきたエンちゃん家のおじさんがやってきた。わたしはおじさんと自己紹介しあった。それからおじさんは、わくわくした顔つきでエンちゃんを見た。
「どぎゃんやった?」
「団体戦は一回戦で負けちゃったけど、個人戦で、私は三回戦までいった」
我が校期待の新人に叩きのめされたけどね、と、エンちゃんは呼吸をするようにウソをついた。団体戦も出させてもらえたんだという口調で、わたしのほうは一切見ずに。
「じゃ、これからミーティングあるから」
施設へと走っていくエンちゃんを、わたしは追わなかった。はんたいに、駐車場に戻っていこうとするおじさんを呼びとめた。
「どうしたんだい?」
しかしわたしは、なにも言えなかった。だまってうつむく。やっぱり、なんでもないです、そう言ってエンちゃんたちのところへ行こってしまおうと思った。
「ジュースとコーヒーなら、どっちがいい?」おじさんが言った。
「コーヒーがいいです」わたしは後ろめたさでうつむいたままだった。
植え込みの縁石におじさんと並んで座って、おじさんからおごってもらったコーヒーを飲んだ。
「真弓は、サラブレッドなんだよ」
真弓とは、エンちゃんのことである。おじさんは煙草に火をつけた。エンちゃんと話すときと違って、ただしい標準語を使っていた。
「うちの居間にかざってあるんだ。おじさんの若いころの写真。あのときのことは、いまでもよく覚えている。高校卓球インターハイの団体戦、第四回戦だった。おじさん、当時はマイナーなシェイクハンド選手でね。かっこよく、スパーン、とスマッシュを決めた、まさにその瞬間を切り取った写真だった」
「おじさん、強かったんだね」
「まさか」
おじさんはちいさく笑った。
「そんときのコーチがおせっかい焼きでね。部員一人のこらず、一回でも試合に出してあげようって。そんで父兄を喜ばせてやろうって、そういう先生だった。嫌みも悪気もない、いい先生だった。おじさんは、お情けで出してもらっただけなんだ。おじさんね、たぶん、いまの真弓よりぜんぜん下手くそだったよ」
断言するあたり、愛情からくるお世辞だろうか。
雨あがり。綿毛のような雲が浮かぶ、青い空を見上げた。おじさんの吐く白い煙が、雲にまざって姿をくらませる。わたしはコーヒーを飲む。
「真弓、勘違いしちゃってんだ。パパは強かったんだって。自分はサラブレッドなんだって。たった一枚の写真、たまたま体よく打ち込めた、たった一度っきりの、あのスマッシュに。おじさん、真弓のことだましてんだ」
微糖は、ちょっとだけ苦かった。
「おじさんもウソついてるんだから、真弓とはおあいこさ」
おじさんは吸い殻を踏みつぶして縁石を立った。