7 見栄っ張りな街(後)
終電間際の江ノ島線に乗り、最寄り駅から家まであるいた。
右手にスクールバッグをさげ、左手に一万円札二枚をにぎる。目をこすると、片方のコンタクトレンズが取れてしまった。どうせ1デイのレンズだし、もういいやと思って、もう片目のレンズもはずして捨てた。
目薬をさして、眼鏡をかけると、すこしだけ懐かしい視覚が気分をおちつかせた。
家はもうまっ暗だったけど、鍵はあけてあった。ちゃんと施錠してからリビングにはいる。
テーブルの上には、ラッピングされたオムライスが置かれてあった。あたためるためにお皿を電子レンジへと持っていく。そこでわたしは足をとめた。
キッチンには涼二がいた。いつもはベランダにあるはずのイスを持ち出して、ふかく腰をしずめていた。そのイスは、わたしのお気に入りのモコモコ回転イスだった。
涼二はステンレスの調理台に肘をおき、あごを上げて小窓を見上げていた。小窓からさしこむ青白い光はシンクを反射し、いっそう、彼の横顔を明るくする。はるかとおく、純白の満月がのぞく。
「月を見ているの?」
「そうだ」
涼二は小窓のさきを見つめたまま言った。わたしはオムライスのお皿を持ったまま、しばらく、月明かりを浴びる涼二に見とれた。
おかえりも、ただいまも、帰りが遅いぞも、ごめんなさいも、ふたりのあいだでは交わされなかった。
オムライスをあたため、スツールを涼二の隣に置く。調理台のたもとにふたりで並んで座った。満月みたいにまんまるなオムライスを食べながら、わたしも月夜をながめた。
オムライスを食べおわる。ポケットから二万円を出して、涼二の膝のうえに置いた。
「なんだあ?」
「おこづかいだよ。涼二、いつもありがとう」
涼二は鼻あたまをぽりぽりかいて、
「なんだよ、きもちわるいなあ」
お札をポケットに入れた。なにも訊かれなかったので、だまって小窓を見上げた。まるいはずの満月が微妙にゆがんで見えた。こらえるために下を向き、鼻をすする。もう一度視線をあげると、円のゆがみは決定的なものとなっていた。
「イス、交換しようぜ」
わたしは、こくり、とうなずいた。
涼二はスツールに座って、わたしはモコモコ回転イスに座る。おしりと背中が、花柄クッションにずしっと埋まる。ゆるい疲れがおそってきて、夢の中に片足をつっこんだ。
涼二はやっぱりなにも訊かない。それがわたしの心をほっとさせた。わたしは、今日の出来事をかいつまんで話した。涼二からは、相づちも、問いかけも返ってこない。ことのほか、わたしの唇は滑るように動いた。
話し終えると、いつのまにか、透明の鼻水がさらりと垂れていた。恥ずかしくなって、あわててキッチンペーパーでぬぐった。
気づけば、となりに涼二はいなかった。
振り返ると、リビングの中央で涼二がシャドーボクシングをしていた。ひたいには汗がちらついていた。
「なにをしているの」
「キリヤってやつに、金を返しにいく」
「お金を返しにいくのに、どうしてボクシングの練習をするの」
「金を返してから、ぼこぼこにする」
わたしは、キリヤの大蛇みたいに太い腕を思いだした。
「ぜったいムリだよ。キリヤ、強そうだったもん」
「おれと麻衣が組んで勝てないやつなんか、この世にはいねーんだ」
どうやらわたしも戦力にはいっているらしかった。
お皿を洗ってから、わたしも涼二といっしょに、パンチやキックやチョークスリーパーの練習をした。
学校帰りに待ち合わせして、涼二と渋谷に出かけた。
利恵にキリヤのことを教えてもらおうと思ったけど、電話もメールもつながらなかった。そもそも電話番号から変わっていた。
キリヤを追い求めてあてもなくあるく。今日も渋谷のひとたちはキラキラかがやいていたが、わたしにはもう、それらは擬態にしか見えなかった。
路上でダンスやギターを披露するひとたちは、いちように派手な服を着こなしているが、でも、よく見ればシャツやズボンのすそはぼろぼろだった。
完ぺきメイクの女子高生たちは、コンビニの前でホットドッグを食べ散らかしながら、動物みたいに手を叩いて笑う。
鼻がすぼむほどの悪臭におもわず振り返ると、はやりの髪型をゆらしてあるく、モデル体型のきれいなお姉さんだった。
おしゃれな喫茶店のお手洗いを借りると、床には汚れたトイレットペーパーが散乱し、ハエが数匹ほど便器にたかっていた。
高価そうなスーツを着たサラリーマンが、イカサマだと叫びながらパチンコ店の看板を蹴っていた。
露出度の高い格好をしたオバサンが、死にものぐるいで道行くひとを客引きし、そのたびに通行人から煙たがられていた。
ビルとビルのあいだで、金髪のイケメンホストがこわいオジサン二人に足蹴にされていた。
お巡りさんは路上喫煙を見すごし、韓国人らしきふたり組が母国語で互いをののしり合い、非行少女は今日も青ざめた顔で男のひとに手を引かれ、小学生とおぼしき男の子は耳ピアスをじゃらじゃらとぶらさげ、ラッパー風の黒人がお店の裏で泣いていた。
いろんなひとたちがいる。さまざまな場所に向かって、それぞれがなにかしらの目標に向かって、肩で風を切って街をすすんでいく。
ただ、そう見えていただけかもしれない。そんなの、本当にお金に余裕があるひとや、権力のある一握りのひとたちだけ。
はっきりとした目的を持っているひとなんて、この街にいったいどれだけいるんだろう。本物の自由を手にしたひとがどれだけいるだろう。わたしたちみたいに、ぼんやりとしたなにか、目的ともゴールとも呼べないおぼろげな霞みを求めて、ただ漫然としているだけじゃないのか。
気づけば夜になっていた。
わたしたちはさびれたハンバーガー屋のテラスで、ジンジャーエールを飲みながら灰色の夜空を見上げていた。晴れているのに星が見えないという、ひどく矛盾した夜空。
「そんなかなしそうな顔するなよ、麻衣。これが都会のありかたってもんだろ」
涼二の言葉を耳にひびかせる。わたしもそう思っていたところだった。都会の空はこうであるべきだと。
田舎はひとが少ないぶん、かがやく星々が景色を彩ろうとする。
都会は星が少ないぶん、かがやく人々が景色を彩ろうとする。
しかしその差は、わたしの目には歴然だった。
だから、これくらいの見栄っ張りもいいんじゃないか、そう思う。あがいて、もがいて、それでも星みたいにかがやいてみせて、もっともっと、このビルの光の届かない先、ほんとうにきれいな夜空にすこしでも近づいてくれれば、それでいいのだ。わたしは、そう思う。
その日、キリヤを見つけることはできなかった。それでよかったんだ。わたしたちはもう、血まなこを剥いて彼をさがしあるくこともないだろう。
「おとしものです」
交番に二万円をあずけて、中央林間行き最終電車に乗った。