3 あまい卵焼き
昔はそれほどでもなかったのに、どうも最近、お父さんの存在が鼻についてしょうがない。
顔はあぶらぎってるし、息はくさいし、人前でフツーにおならするし、はげてはいないけどいつも髪テカテカしてるし。つまり、見た目がとにかくきたないのだ。いや、見た目だけならまだいい。お父さんはとにかく、粗野で鈍感で不器用だ。
たとえば食事のとき。お父さんはものを食べるとき必ず、ぺちゃ、くちゃ、と音を立てる。あまり噛むひつようのない食べ物まで、ごうかいに音を立てるのだ。昔はたいして気にならなかったのに、いまは耳がむずむずして、鳥肌も立って、たまらなくなるほどガマンできなくなっていた。
「お父さん、口開けてもの噛むくせ、なおしなよ」
お父さんは目をぱちくりさせて、へへへ、と笑った。
「こりゃ、失礼いたしやした」
お父さんはイラッとくるくらいおどけて、ぎとぎとのひたいをぺしっとやった。
洗濯機から洗濯ものを取り込むゆりちゃんのもとに詰めよって、わたしは「あーっ」と声をあげた。
「ゆりちゃん、お父さんの服とわたしの服、いっしょに洗ってたでしょ!」
ゆりちゃんははっとして、「もうしわけない、うっかり」と言った。ゆりちゃんの手から洗ったばかりのわたしの服を取り上げて、再び洗濯機にほうりこんだ。洗濯用洗剤をたっぷり入れて、スタートボタンを押した。
「ゆりちゃんは、なんでお父さんなんかと結婚しちゃったの?」
「だって、野生的だし、イケメンじゃん」
目がくさっとるんじゃなかろうか、とわたしは思った。でも、ゆりちゃんとはケンカしたくないので、口には出さなかった。
わたしはある日、涼二といっしょに美容院へ髪を切りにいった。ほんとうは兄妹そろって散髪なんて恥ずかしかったんだけど、ふたりとも髪が伸びてきたからいっしょに切ってきなさいって、ゆりちゃんが多めにおこづかいをくれたのだ。バイト代だとおもえばやすいものだった。
美容師のお姉さんが、手もとの台に週刊雑誌をおいた。その雑誌が『週刊春光』だったので、わたしはちょっとイヤな気分になった。
しかしわたしは、「きらいな雑誌なので替えてください」なんて図々しいことを要求できるほどたいそうな根性は持ち合わせていないので、仕方なくその雑誌を手にとった。
わたしはとある記事に目を通して、かっ、と頬が熱くなるのを感じた。
「美容師さん、この雑誌、わたしに売ってください」
美容師のお姉さんは小首をかしげて、「いいですけど?」と言った。
美容院を出て、わたしは涼二に『週刊春光』をつきだした。
「36ページの、『44歳のぼやき』を読んで」
「おやじのコラムじゃないか。どうしたんだ急に」
「いいから読んで」
涼二はしぶしぶ雑誌をひらいた。そして彼は、くすり、と笑いだすのだ。
「これ、麻衣のことが書いてあるじゃないか」
わたしはぶぜんと腕ぐみして、そっぽを向いた。
わたしのお父さんは、フリーライターの仕事をしていて、この『週刊春光』でもコラムだかエッセイだかを連載しいている。
今週のお父さんの記事では、読者からの質問コーナーがひらかれていた。
『Q:最近、十三歳の娘がひとことも口をきいてくれません。べつに娘本人には悪いことをした記憶はないのですが、これってやっぱり、私の不倫がバレてしまったからでしょうか? 心配で夜もねむれません』
こういう読者の質問に、お父さんはこうこたえていた。
『A:不倫はイカンですよ不倫は(笑) まぁ、その不倫とやらがバレていないことを前提にしても、そういった年頃の女の子はむずかしいですからね。いえ、むしろ健全です。それに、こういう思春期の通過点をじっと耐えるのも父親のつとめですから。僕も中学三年生になる娘がいるんですがね、このあいだなんか、ふつうに飯を食ってるだけのつもりだったのに――』
これ以上は、腹がたつので思いだしたくもない。
わたしは、「家族のこと、とくにわたしのことは記事のネタにしないで」と、ふだんからきつく言いつけているはずなのに、わたしがちょっと目を離した隙に、お父さんはこうなのだ。
健全? 思春期の通過点? まったくお笑いぐさである。道ばたに、ぺっ、とツバでも吐いてやりたい気分だった。
「お父さんは自覚がないんだよ。自分がきもいからいけないんだって、ぜんぜんわかってないの。ねえ涼二、わたしが言っても効かないみたいだから、こんどは涼二が文句言ってみてよ。なんなら、グーでなぐってもいいから」
涼二にしがみついて懇願したけど、涼二はげらげら笑うだけで、まったく取り合ってくれなかった。
庭先にて、サボテンの周りで伸びきってしまった多肉植物の摘みとりをしていると、お父さんがやってきた。にこにこと変な愛想笑いを浮かべていた。
「あの記事のこと、まだ怒ってる?」
わたしは無視を決めこんだ。
「お父さんが悪かったよ。もう麻衣のことは書かないから」
わたしは無視を決めこんで、せっせと多肉植物の摘みとりに没頭した。
「それ、いいサボテンだね。お父さんにもよく見せてよ」
いきなり、お父さんの手がサボテンの鉢へと伸びた。わたしはびっくりして、とっさにお父さんの手をひっぱたいた。おもわず手が出てしまったことで、わたしは自分自身にさらにおどろいて、ちょっと涙目になりながらお父さんをにらんだ。
「クミカのサボテンに、さわらないで……」
いつもひょうきんにわたしをあしらうお父さんも、これにはさすがに口を閉ざした。たたかれた手の甲をおさえて、肩を落としながら家に戻っていった。
お父さんをたたいてしまったわたしの手のひらは、じんと痛んだ。
◆
あれから、『週刊春光』の発売日になると、わたしは深夜こっそり家を抜け出してコンビニに行き、お父さんのエッセイをチェックするようになった。
またわたしのことが書かれていないか監視するためでもあるし、それに、このエッセイにはお父さんのふだん見せない一面が隠されているような気がして、ちょっとだけ興味がわいたからでもあった。
いつかお父さんが言っていた。『週刊春光』での連載は、わりと好きなことを書かせてもらえるから楽しいって。だからかもしれない。
お父さんの手をたたいたあの日からも、お父さんは不自然なくらい相変わらずだった。
一度ウケたギャグをしつこく何度も連発してくるし、ご飯のくちゃくちゃはなおらないし、おならは脳細胞が死んじゃいそうなほどくさい。
だからこそわたしは、お父さんの本性をあばきたくなったんだ。
コンビニから帰ってくると、もう深夜の二時になっていた。でもぜんぜん眠くなくて、わたしはベッドのうえで何度も寝がえりをうった。
そうしているとだんだん浅い眠気がやってきて、ずるずると足をひっぱられるみたいに、わたしは夢の中におちていった。
わたしは、家の玄関の前でうずくまっていた。やけに庭が広いなぁと思ったけど、わたしが小さくなっていただけだった。わたしは、小学二年生のあのころにもどっていた。
そうだ。わたしはいま、家から締め出されているんだっけ。
その日、わたしはソロバン塾の帰りに万引きをした。おなじ塾の五年生の男の子にそそのかされたのだ。
駄菓子屋のおばあちゃんは、たびたび居眠りをしているから無防備だった。アメの数個くらいパクっても大丈夫さ、と男の子が言った。
ほんとうはわたし、そんなことぜったいしたくなかったけど、その男の子は学区内でも有名なケンカ自慢だった。べつに弱いものイジメはしなかったけれど、歯向かう者はすぐにゲンコツでだまらせた。それだけだから、それほどわるい子じゃなかったと思う。男の子も、ちょっと魔がさしただけだったんだ。
それでもわたしはその男の子をおそれていて、うながされるままにモンブランチョコレートを一個だけ盗んでしまった。
いざ家に帰ってみると、わたしはきゅうに後ろめたくなっていた。子供は牢屋には入れられないってことはなんとなく知ってたけど、自分がものすごくイヤになってきて、おもわずゆりちゃんに万引きのことを告白した。
ゆりちゃんといっしょに、駄菓子屋のおばあちゃんのところへあやまりに行った。その帰り、ゆりちゃんはとつぜん泣きだして、わたしのほっぺたをひっぱたいた。たたかれたほっぺたはいつまでもしびれて、体ぜんたいに浸透していった。ぼうぜんとして、涙もでなかった。
それでわたしは家を追い出されて、しばらくそこで反省するように、とゆりちゃんから言いつけられた。
ほっぺたをさすりながら、わたしは玄関先に座りこみ、庭を見ていた。
庭にはおおきな木が生えていた。たまにやってくる風に揺れて、木はゆらゆらとダンスしている。わたしにはそれが巨大な怪物みたいに見えた。いまにも一歩ふみだしてきて、わたしにおそいかかってくるように見えたのだ。わたしはふるえながら泣いた。
万引きしても、たたかれても泣かなかったのに、わたしはそこではじめて泣いた。ひとりぼっちの恐怖や、だれにも守ってもらえないという不安は、どんなものよりもおそろしかったのだ。
顔をふせて、わたしはそれらすべてのおそろしさから耐えた。
すると、わたしの体がとつぜん、ひょい、と宙に浮いた。
「どうしたんだ麻衣、こんなところで」
お父さんが、わたしの脇に手を入れて、猫みたいに持ち上げてわたしの顔をのぞきこんでいた。
そのときのお父さんはおおきかった。うしろで揺れる木よりもおおきく見えた。お父さんよりおおきい人はこの世にいないんじゃないかと、わたしはそのとき本気で思った。
事情を一から七くらいまで説明したところで、お父さんはいきなりわたしを地面に降ろして、いきおいよく玄関を開けた。
お父さんに手を引かれて、わたしは家に入れてもらうことができた。
お父さんにしかられるゆりちゃんは、うさぎみたいにちぢこまってちょっと可哀想だった。わたしはお父さんの背中に隠れていた。お父さんの背中はやっぱりおおきくて、すごくたよりになった。
お礼に、お父さんに料理をつくってあげた。といってもわたしはまだ小さかったし、たいしたものはつくれなかったけれど、一番自信のある卵焼きをつくってあげた。
そうだ。わたし、卵焼きを食べるお父さんに向かって、こう言ったんだ。
「わたし、将来お父さんと結婚する」
目が覚めたわたしは、きゅうに伸びた身長にかなり困惑して、それが夢だったと気づくのにしばらく時間がかかった。
そして、「イヤなことを思い出したなあ」と枕に顔を押しつけてじたばたした。結婚したいだなんて、あのころのわたしはなんて恥ずかしいことを言ってしまったんだろう。
ひとしきりじたばたしていると、こんどは胸がきゅっとしめつけられるような感覚におそわれた。
お父さんは、あのころとなんにも変わっていない。いつまでもずっと、わたしのことを大切にしてくれている。なのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。この胸のくるしさはいったいなんだろう。
わたしは顔をあげて、窓の外で揺れる木々をながめた。なんであんなのが怪物に見えてしまったのか。いくら見つめてみても、それはわからなかった。長い間ながめて、わたしはふうと息を吐いた。
変わってしまったのは、わたしだけだったんだなあ。
◆
早朝、お弁当をつくるゆりちゃんの横に立って、わたしは卵焼きをつくった。ゆりちゃんはなにも言わず、お父さんの弁当箱のはしにそっと、小さなスペースを空けてくれた。
「お父さん、気づかないかもしれないよ?」
「気づいてくれなくていいもん」
わたしは空いたスペースに卵焼きを二切れだけ入れて、逃げるように台所をあとにした。
『第67回 44歳のぼやき
(前略)
記念日といえば、先週は父の日でしたね。全国のパパさん方はしかるべき功績をあげられましたでしょうか?
(中略)
というわけで、娘から『こんどわたしのことを記事にしたら一生口利いてやんない』と言われてしまったのですが、先日、あまりにうれしくて思わず泣いてしまった出来事がありまして。なので、思い切って書いちゃおうと思います。
あれは、まさに父の日のことでした。編集部のすみっこで弁当を食おうと思ったんです。弁当箱のふたを開けた瞬間、甘い香りがもわっとやってきて、それで僕は直感しました。あぁ、娘の作ったものが混じっているなと。
僕の予想通り、卵焼きでした。これがまた甘くて甘くて、「ケーキか!」とつっこみたくなるくらい砂糖たっぷりなんですけど、間違いなく娘が作ってくれた卵焼きだとわかりました。
泣きながら食ってたら女子社員のみなさんから白い目で見られましたけど、男性陣はポンと肩をたたいてくれました。パパにだけしか伝わらないものがあるんですよね、これが。
(中略)
さて、この記事を読んでいるアナタ、特に美容室や床屋などでこの雑誌を手に取っている方々へ、ひとつだけお願いがあります。今すぐこのページをやぶり捨てて、僕の証拠隠滅に協力してください。でないと僕、こんどこそ娘から口を利いてもらえなくなるので……』
いきつけの美容室の中、わたしは『週刊春光』から目を上げて、『44歳のぼやき』のページに手をかけた。いい度胸だ、やぶり捨ててやろう、と。美容師のお姉さんはハサミを止めて、不安そうにわたしを見まもっていた。
しばらく考えて、やっぱりわたしは、ページから手を離してあげることにした。
「この雑誌、わたしに売ってください」
美容師のお姉さんはほっと胸をなでおろして、「タダでいいですよ」と言った。