2 サボテンの花
クミカはわたしの親友だ。出会いはたしか小学五年生の春。彼女は、わたしたちの小学校に転校してきた。
クミカは、最初はぜんぜんクラスになじめなかったみたいで、いつもひとりぼっちだった。それで、陰で女の子たちから『市松人形』って呼ばれていた。昭和のおかっぱみたいな髪型だったし、ぽつ、ぽつとしたちっちゃな目鼻だちも市松人形そっくりだった。そしてなんといっても、クミカの名字は『市松』だったのだ。
ある日、放課後になると、わたしは図書室に本を返しに行った。わたしは友達の利恵といっしょだった。
クミカは図書室のすみっこで心理占いの本を読んでいた。利恵はクミカを指して、ぷっ、とわらったけど、わたしはクミカのことが心配になった。今までほかの子たちと調子をあわせてきたけど、ほんとうはわたし、ひとりぼっちでいるコを見すごすなんて、頭皮じゅうの毛穴から空気がぬけちゃうほどガマンならんという性分だったのだ。
わたしがちかづくと、クミカは雷にでも打たれたみたいに体をびくっとさせた。まばたきをいっぱいして、いかにも自信なさげ、という感じだった。
「占いが好きなの?」
クミカは数秒間ためらってから、こく、とうなずいた。
「じゃあ、わたしのこと、占ってみせてよ」
利恵がわたしの腕をちょんとつついた。利恵は「こんなへんな子ほっときなよ」という顔をしていた。わたしはそれを無視した。
「クミカ、はやく占って」
クミカは、からかわれたり、しかられたりするときの表情をした。クミカは心理占いの本をぱらぱらとめくって、口を開いた。
「お、おもちゃ屋さんにでかけたあなたは、ふと目についたお面を手にとりました。さて、それはどんなお面? A、正義の味方。B、鬼。C、能面。D、ピエロ」
クミカの声は小さくてきれいだった。当時テレビでやっていた、魔法少女アニメのピンクの声によく似ていた。
「Cの能面」とわたしはこたえた。
「Cとこたえたあなた。あなたは、いつも笑顔がすてきなひと。誰にでもやさしくて、困っている人を見ると、助けたくてしょうがなくなっちゃうひとです」
利恵がわたしの肩をつついて、「あたってるじゃん」とからかった。
「ねえ、あたしのことも占って」
利恵は気をよくしてクミカに要求した。クミカはまた、あわててページをめくった。
「あなたはいま、崖からおちそうになっていて、まさに絶体絶命です。でもそこでちょうど、助けてくれるひとがあらわれました。さて、それはどんなひと? A、テレビタレント。B、学校の先生。C、知り合いのお兄さん。D、学校の男子」
みえみえの占いだな、とわたしは笑いそうになってしまった。でも利恵は真剣に考えているみたいだった。
「Dの、学校の男子、かなぁ?」
「この占いは、あなたがいま恋している相手を当てる占いです」自分でえらんだ占いなのに、クミカはすごく恥ずかしそうに言った。「Dとこたえたあなたは、学校の男子のだれかに恋をしていますね?」
利恵は「わっ」とおどろいた。
「すごい、当たってる!」
わたしも別の意味でおどろいて、おもわず利恵にたずねた。
「利恵、だれのことが好きなの?」
「うんとね、道彦くん」
利恵は照れくさそうに鼻頭をかいた。わたしはちょっとショックだった。わたしも、道彦くんのことが気になっていたのだ。
「すごいやクミカ。ほんものの占い師みたいだね!」
利恵はよろこんだ。ばかだなあ、とわたしは思った。この占いをつくったのはクミカじゃなくて、この占い本をつくったひとなのに。
それからわたしたち三人は、外が暗くなるまで占いであそんだ。クミカはいろんな占いをわたしたちに教えてくれた。手相占いとか、人相占いとか、タロットカードとか、いろいろ。クミカが占い好きなことを、わたしはそこではじめて知った。
それをきっかけに、クミカは徐々にクラスになじんでいった。笑顔のクミカは、よく見るとすごくかわいかった。『市松人形』だなんて、もうだれも言わなくなった。
利恵も道彦くんのことが好きだと知って、わたしはずっと心の中でもやもやしていたけど、六年生進級と同時に道彦くんが東京に引っ越してしまって、利恵へのもやもやもすっきりなくなってしまった。
中学二年生になった現在のわたしは、先日クミカからもらったサボテンをぼうっとながめながら、そんなクミカとの出会いを思い出していた。
そのサボテンは自室の出窓のふちにかざってあった。丸っこい形のサボテンが三本、お団子みたいに身を寄せあって鉢のうえで固まっている。
そういえばしばらく水をあげていないな、とわたしは思った。わたしは小棚のうえにあるプラスチックじょうろを手にとった。サボテンといえども、一、二週間に一度は水やりをしないと枯れてしまうのだ。
じょうろに水を入れてこよう、そうして部屋を出ようとしたところで、ちょうど涼二がドアを開けて入ってきた。
「漫画をかえしに来たぞ」
涼二は高校一年生になっていた。受験を終えたばかりなので、彼は暇をぞんぶんに持て余しており、最近わたしの部屋から無断で漫画を持っていくのだ。
わたしは漫画をかすめとった。
「勝手に借りないで。あと、ちゃんとノックしてから入って。でも、ノックしてもわたしが『入っちゃだめ』って言ったら、ぜったいに入ってこないで」
「やれやれ、反抗期だなぁ」
涼二は肩をすくめた。ついこの前まで反抗期だったひとには言われたくなかった。
「おや麻衣。そのサボテン、だれからもらったんだい?」
「クミカだよ」
「クミカってだれだ?」
「わたしの友達のクミカだよ」
涼二は、ふぅん、とたいして興味もなさそうに相づちして言った。
「じゃあ、そのクミカって子に伝えてくれ。おれもサボテンがほしいとな」
「涼二にはくれないと思うよ。このサボテンは、クミカとわたしの友情のあかしだからね」
わたしはぴんと胸を張って言ってやった。涼二はまた、やれやれ、と言ってわたしの部屋を出ていった。
ほんとうのことを言えば、クミカなら、わたしの兄もサボテンをほしがっていたと頼めば、もう一つくらいはくれそうだった。でもわたしは、涼二にわたしたちの友情海域を汚されたくなかったので、クミカには涼二のぶんをねだらないことに決めた。
クミカとわたしは、中学生になってからずっと『エコ委員』に所属している。
エコ委員とは、クラスのみんなからペットボトルのふたや缶のプルタブをあつめたり、節電のために教室の電気をこまめに消す役割を持つ委員だ。クミカは気の利く心やさしい女の子なので、まさにエコ委員はぴったりなのだ。わたしはたんに、クミカにならってその委員に在籍しているだけだけど。
放課後、わたしたちは、みんなからあつめたペットボトルのふたを屋外洗面台で洗った。ひとつひとつ丁寧に手洗いして、ざるに入れて天日干しにする。面倒くさい作業だったけど、クミカは一生けんめい、たのしそうにふたを洗っていた。
「ねえクミカ、どうしてわたしたち、ペットボトルのふたなんかあつめなきゃいけないんだろう?」
クミカは笑顔で答えた。
「このペットボトルのふたから、すごいワクチンができるからだよ」
「すごいワクチン?」
「そう、すごいワクチン。アフリカの子供たちの病気を治すための、すごいワクチン」
「すごいワクチン」
わたしはいたく感心して、ざるの中の洗浄されたペットボトルのふたをながめた。湿った大量のふたは、午後の太陽光をうけてきらきらと輝いていた。
わたしたちはいま、だれかの命を救うとても大きな仕事をしているのだな、ときゅうに誇らしくなってきた。わたしは真剣にペットボトルのふたを洗った。
クミカからサボテンをもらったのは、わたしたちがペットボトルのふたをあつめて半年ほどが経ったころだった。
クミカはサボテンの鉢を持って、教室に入ってきた。鉢をわたしの机においてクミカは言った。
「これ、麻衣ちゃんにあげる」
「どうしたの? このサボテン」
「この前、区役所にペットボトルのふたを持っていったらね、『いつもありがとう』って、職員さんがこのサボテンをくれたの」
クミカはにっこりと笑って言う。
「でもね、私の家、もうサボテンがいっぱいあるから、これは麻衣ちゃんにあげる」
わたしはサボテンを受け取った。サボテンなんか今までぜんぜん興味なかったけど、よく見ると、サボテンって結構いいもんだなって思った。
「すごくかわいい。ありがとうクミカ、大切に育てるね」
「もっとほしい?」
「いいよ。これだけでじゅうぶん」
それからクミカはサボテンの育て方をくわしく教えてくれた。わたしはサボテンの育て方をメモに取ってお礼を言った。
涼二はたびたび、わたしの部屋にやってきて、窓際のサボテンを恋しそうに見つめている。やっぱり、もう一個だけクミカにねだってみようかな、とわたしは検討してみるのだった。
しかし、わたしはひとつだけ心配なことがある。ここ最近のクミカは、心なしか元気がないように見えるんだ。
◆
中二の夏が始まって以来、クミカは一度もプール授業に参加していない。いつも制服姿で、プールのすみっこで体育座りしている。わたしは気になって、授業が終わってすぐにクミカに近づいた。
「水泳きらい?」
クミカは首を横に振った。きらいではないらしい。
「じゃあ、生理?」
クミカはまた首を横に振った。生理でもない、そして泳ぐのもきらいじゃないということは、わたしにはもうクミカがプール授業に参加しない理由が思いつかなかった。
「麻衣ちゃん、サボテンは元気?」
クミカはぎこちなく笑って話をそらした。
わたしはかなりしつこかったと思う。何度も何度も、クミカに水泳をしない理由を問いただした。プールの授業が終わるたびにクミカのそばに来て、「体調わるい?」とか、「泳ぐとぜったい気持ちいいのに、どうして泳がないの?」とか、しつこく訊いた。
すると、クミカはとうとう観念して、「こっちにきて」とわたしの手を引いた。
わたしたちは脱衣所の影にまわった。そこはフェンスと脱衣所の石壁とにはさまれ、ギョウギシバがこんもりとしげっているような、とてもさびしい場所だった。わたしははだしのままだったので、地面がちくちくして足がいたかった。
クミカはいきなり、セーラー服の上を脱いだ。クミカの肌はしろくて、ブラもまっしろだったから、真上から射してくる光に反射してすごくまぶしかった。でもそれだけで、とくにこれといってクミカに変わった様子はなかった。
「だれにも、いっちゃだめだよ」
クミカは、くるん、と回ってわたしに背中をみせた。わたしは息をのんだ。
彼女の肩こう骨のあたりには、五角形のおおきな火傷跡があった。ブラのひもで火傷は二つの島にわかれていたが、ほんとうは一つのおおきな五角形なんだなってわかった。わたしはその跡から、熱い蒸気を発するアイロンを連想した。
「パパがね、うちに帰ってきたの」
なんのことだろうと思った。でも、クミカは声をつまらせてくるしそうだったので、それがとんでもなく良くないことだってのは、よくわかった。
「パパね、むしゃくしゃすると、やつあたりしなきゃダメみたいなの。そういう病気なの」
それだけ告げると、クミカはしずかに泣き出した。うしろ髪のあいだからのぞく耳は真っ赤になっていた。はずかしくて、みじめで、クミカの心は洪水をおこしてしまったんだ。
わたしは火傷跡をじっと見つめた。きれいな赤というよりは、みにくい赤黒で、全体的に汚らしくかぶれていた。クミカが必死に抵抗したことが、ありありと目に浮かぶようだった。
とつぜん、眉間のあたりがじゅっと熱くなった。もし、わたしもアイロンを当てられたなら、こんな感じかもしれないと思った。こんどは、胸のあたりにも焼けるような痛みがはしった。あまりにおさえきれないので、爪をたてておもいっきり搔きむしってやりたいくらいだった。
わたしはふだん、あんまり怒ったり悲しんだりしないひとだけれど、今ばかりは勝手がちがった。
いまのわたしは、とても怒っていて、悲しくて、そしてくやしかった。
この怒りと悲しみをどこにぶつければいいのか、どう処理すればいいのか、わたしはわからなかった。クミカを助けてあげたいと思ったけど、具体的にどうすればいいのか、ぜんぜん、ちっともわからなかったのだ。
夏休みが近づいたある日、クミカといっしょに学校から帰るとき、わたしはある提案をした。
「今日の夜中、学校のプールに忍びこもうよ」
クミカはおどろいて口をつぐんだ。やがて、それがどういう誘いなのか察してしまったように、彼女は顔をうつむかせた。
「だめだよ、そんなことしちゃ」
「だめじゃないよ。だってクミカ、泳ぎたいんでしょう?」
わたしはクミカの制服をつかんで、顔をのぞきこもうとした。だけどそれは拒まれて、クミカはいっそう顔をうつむかせた。
「わたしだけなら、見られても大丈夫だってば」
「ねえ、麻衣ちゃん」
クミカは、すう、と息を吸いこむ。口元には笑みが浮かんでいた。
「心理占いしてあげる」
わたしはあっけにとられてクミカを見返した。
「ある日、おもちゃ屋さんにでかけたあなたは、ふと目についたお面を手にとりました。さて、それはどんなお面でしょう。A、正義の味方。B、鬼。C、能面。D、ピエロ」
聞きおぼえのある占いだった。わたしはすぐに思いだした。
小学生のとき、クミカと初めて話したあの日、クミカはそのときもこの占いをだした。わたしはそのときのことを思い返しながら、慎重にこたえた。
「Cの能面」
「Cとこたえたあなたは、いつも笑顔がすてきなひと。誰にでもやさしくて、困っている人を見ると、助けたくてしょうがなくなるひとです。でもね、この占いには、もうひとつの意味があるの」
クミカはひと呼吸おいて言った。
「ほんとうはね、この占いは、自分が他人からどう思われたいか、をはかるためのものなんだよ。私、あのとき嘘ついちゃった。麻衣ちゃんは、『笑顔がすてきで誰にでもやさしいひと』じゃなくて、『笑顔がすてきで誰にでもやさしいひとに見られたい』だけのひとなんだよ。麻衣ちゃんは、やさしいひとの仮面をつけてるだけなんだよ」
クミカは唇をかんで、走りだした。わたしはしばらくぼうっとして、それからクミカを追いかけた。
わたしは信じられなかった。今まで一度もいじわるを言ったことがなかったクミカが、あんなことを言うなんて、信じられるわけがなかったのだ。
クミカはわざと、あんな風にわたしを遠ざけようとしているんだ。わたしはそんなの、ぜったい嫌だった。
「今日の夜十時、学校のプールに集合だから!」
わたしはそれだけ叫んで伝えて、クミカを追いかけるのをあきらめた。
夜の十時になって、わたしはギンガム柄の布バッグを持って学校に忍びこんだ。布バッグには、水着と、バスタオル二枚と、おやつのおにぎりを二人ぶん握って入れてきた。
フェンスを乗りこえて、わたしはプールサイドに降りたった。
クミカはまだ来ていなかった。
わたしは眼鏡をはずして、布バッグから水着をだして着替えた。バスタオルを体に巻いて、プールのはじっこに座りこんだ。
見上げると、濃灰色の夜空があった。涼二と行った海では、もっとたくさんの星が見られたけど、そこで見上げる空には、ほとんど星は見られなかった。ぼんやりとした光の残影が、うっすらと網膜にのこるだけだった。
わたしはバスタオルのしたで肩を抱いた。お腹がすいてきたけど、クミカがくるまで、ぜったいにおにぎりには手をつけないぞ、と心に決めた。
その日、クミカがプールにあらわれることはなかった。
しばらくして、担任の先生が「市松クミカさんは、とおくの学校に転校しました」と、それだけ言った。
生徒のあいだではある噂が流れていた。
クミカの両親は離婚していたはずなのに、父がとつぜんクミカの家にやってきたそうだ。帰ってきたクミカの父は、多額の借金をかかえていた。その噂では、クミカは転校じゃなくて、家族につれられて夜逃げしただけなんだって、面白はんぶんにささやかれていた。
家に帰ると、サボテンに花が咲いていた。
乳白色のかわいくて小さい花で、それはクミカの笑顔によく似ていた。
あんまりかわいいのでおもわず手を伸ばしたら、サボテンのトゲで指を怪我してしまった。そんなところまで、クミカにそっくりなんだなあ。
指にばんそうこうを貼って、ベッドに腰かけながら、わたしは乳白色のサボテンの花をながめた。いつまでながめていても、サボテンの花はきれいで飽きなかった。