15 ギンガムチェックの夜空
東京拘置所を出たあとのわたしはひどくぐったりしていて、涼二の運転するミニバンの助手席にうなだれていた。長い道のりを走り、三軒茶屋をこえ、国道246号沿いをすすんでいた。もうすぐ自宅というところで、とつぜん車は横道にそれる。わたしは涼二の横顔に話しかける。
「家、そっちじゃないよ」
「知ってる」
「じゃあ、どこへ行くの?」
涼二は進行方向の一点を見すえていた。ハンドル片手に鼻下に指をそえて、鼻をすすった。
「おれは、これから家出をするんだ」
短く彼は言う。それはおかしな話だった。家出もなにも、もとより涼二は東京のアパートでひとり暮らしなのだから。そしてこの車は、わたしを実家に送るために走っているだけ。このまま家に帰れないと、むしろ家出になるのはわたしの方だ。
だけどそこまでは、常識的なわたしの解釈にすぎなかった。
「イヤなら降りてもらう」
「わたしもついてく」
じっさい、わたしはそう答えている。ミニバンは進む。海へと進んでいく。
「ついてっていいんだよね」
「おう」
七年前とおなじ。秋夜の海岸をめざしている。二人で見あげた空を、わたしたちはめざしている。
家出は、ほんとうに不幸にさいなまれたゆえの結果なのだろうか。家出をネガティブなものだと決めつけていたのは、いったい誰だろう。
いまのわたしだと思う。二十歳のわたしはおそらく、家出をネガティブなものだと決めつけてしまう。わたしは月並みにただしく成長してしまったのだから。正常な思考を獲得している。家出娘はなにかしらの希望を持っているとか、自分探しがどうとか、命がなんぞやだとか、もう恥ずかしくて言えない。
だからこそ取り戻さなくてはいけない。十三歳を取り戻すのだ。わたしだけじゃない。クミカも、涼二も同様に、いまだからこそ振り返っておくべき地点だった。
この世には、わたしたちを非現実的な世界へとみちびくものが多数存在する。アイドルのコンサート、遊園地、映画館、海外旅行、そして家出。あたらしい自分に生まれ変わる瞬間とは、まさにそこにあった。人間もセミみたいに脱皮できるのだ。
ミニバンは走る。国道246号の現実からシフトし、非現実世界の一般道をひたすら突きすすむ。その先には海がある。
コインパーキングにミニバンを停めて、歩道をあるくこと約十分。海の家々がつらなる浜辺が見えてきた。涼二はネクタイをゆるめる。スーツのズボンをたくしあげ、スタートダッシュの構えをとる。
「競争だ」
わたしはうなずき、ギンガムの布バッグを肩に持ちなおした。
「ようい、どん!」
地面を蹴る。涼二が容赦なく先陣を切った。もはや認めざるをえないことだけれど、わたしごときが涼二の俊足にかなうはずがなかった。いまも昔も。いっぺんたりとも彼の隣に並べたことはない。これはけっして自慢ではない。
暗闇の中に涼二がうもれていく。わたしは不安だった。こんなところでひとりぼっちになるのは、けっこう不安なものなのだ。
わたしが砂浜に到着するころには、涼二はすでに砂のうえで大の字になっていた。海がゴールなのに、またわたしに無益な勝利をゆずるつもりだろうか。わたしはあきれて立ち止まり、彼を見おろした。
「もう、涼二の勝ちでいいよ」
涼二は寝ころんだままガッツポーズをした。わたしはため息をつき、そばに座る。涼二はスーツが汚れるのも気にせず横になって空を見あげているから、わたしも遠慮せず背中を砂につけた。二人の体で時計の一時二〇分くらいを指し示した。
ハンカチで指先をぬぐい、両目のコンタクトレンズをはずす。わたしは夜空に目をこらした。数えきれない、あるいは数える気も失せてしまうほどの星の群。目が不自由に慣れれば慣れるほど、光はぐうんと円をひろげる。その様をよくたしかめた。
人はしばしば因果にとらわれる。なぜ自分はいま、ここでこんなことをしているのか。ほんとうに自分がなさねばならないことなのか。この現象は神さまからの啓示ではないか。日常になんらかの暗示がひそんでいるのではないかと疑い、そこに関連性を見いだし、もっともらしい理由づけをする。心のどこかで、わたしたちは運命や奇跡の存在を否定できないでいる。
たとえばわたしの場合。サボテンの花からクミカの笑った顔を連想する。いまだにお父さんとの仲なおりには卵焼きをつくる。ときおり河原で石を投げて不安を解消させる。都会の星の見られない夜空に安堵する。かつんとなって、こんと落ちる会話。『しぃん』と『きぃん』の連続性。ブルーベリーの土壌と人間社会の近似。ヘアピンがつなぐ義母との絆。
そしていちばん頭に持ってくるべき事項が、わたしがいま見あげている夜空だった。視力がわるいくらいで、じっさいにきれいなギンガムチェックの夜空が見えるはずがない。どうしてわたしは、ギンガムチェックの夜空のしたで生まれたなどと思ってしまったのだろう。そこにあるのは、因果からくる錯覚でしかなかったのに。
「ねえ、涼二」
「んー」
「わたしのお母さんに、会ったことある?」
わたしは唇をとじ、つばを飲む。涼二はゆっくりと口をひらいた。
「あるよ」彼はつづけて言う。「この空を見るたびに思い出す。麻衣の母ちゃんのこと。曖昧で儚げで、ちょっと子供じみた幻想がまじっているような。よくわからんけど、そういうひとだった」
因果はふたたび形を変えてやってくる。わたしは改めてこの夜空から母の存在を感じている。自分の命の在りどころを認めていた。とても重く、のしかかってきそうなほどに。わたしにとって因果や想像を思い描くことは案外簡単で、そして、それはわたしの人生に大きな比重を置いていた。
このままでいい。しばらくはそういう風に生きていたい。
クミカがもどってくるその日まで、わたしは錯覚しつづける。わたしがありのままでいつづける限り、クミカはきっと帰ってくる。そうしたら、これを見せてあげたい。黒と灰色が折り重なり、星の瞬くきらめきが互いに手を取り合う。この網目模様のコントラストは、まぶたを閉じても、ぜったいに消えない。
地面に頭を押しつけ、もう一度天をあおぐ。風が吹き、砂塵の巻きあがる音としずかな波音を耳にする。
まだ、だいじょうぶ。そうして心をふるいたたせる。こうして世界の一部にとどまれている。わたしには、ギンガムチェックの夜空が見えていた。
完結です。
ありがとうございました。