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11 ブルーベリー

 講義室の一角にて、となりに座ったひとから、じろじろと顔を見られた。ちょっとイヤな気もちになったけれど、わたしはなにも言わず、じっとそのコを見つめかえした。

 そのコの目はおっきかった。わたしがいま腕に着けている時計盤の、たぶん1.2倍はある。髪をツーテールにしており、毛先には金色に染髪されたあとがのこっていた。髪型のせいか、キツネみたいにしゅっとしたあごのラインが目立った。両耳にはピアスの穴があいている。かんじんのピアスはついていない。

 そのコはおっきな目を細めた。うたぐり深く、どこかいじわるな目つき。

 わたしたちはその状態で、およそ二分ほど見つめあった。かといってなにか言葉を交わすわけでもなく、ただただ、お互いの瞳をよく観察しつづけたのだった。

 やがてそのコは、ヘアバンドのついた手首を頬にあて、頭をささえて首をかしげた。

「だいぶ落ち着いてきた、キミの目」

 そのコは、唇のはしをあげて笑った。意味がわからなかった。

「新歓のときなんか、キミ、ずーっときょろきょろしてたのにね」

 新歓と聞いて、しぜんと眉根が寄っていくのがわかった。八の字。いわゆる困り眉である。そのときのことを思いだして、とたんに胃が痛くなる。

「わたしのこと、見てたの……」

「見てたよ。キミ、オリから放り出されたニワトリみたいだったもん。同じ場所をいったりきたり、あっちこっち見まわして、まさに挙動不審ってカンジで」

 彼女の声のトーンは、台詞にあわせて徐々に大きくなっていった。まわりの聴講生が怪訝に振りかえる。講師がせき払いすると、そのコも、調子をあわせて喉をごほんと鳴らした。

「あたしのこと、覚えてないんでしょ」と、彼女は衣ずれのような声でささやく。「あたしは覚えてるよ。西江さんでしょ」

 ぼうっとして、返答にこまっていると、そのコはあきれたようなため息をついた。

「ほら、キミがげーげーしたとき、介抱してあげたじゃん」

「あっ」

 わたしの青ざめた顔は、いっしゅんで熟れた赤色へと染まっていった。そのコの手もとに置かれた立てかけ式の手鏡に映り、わたしはそんな、自身のひどい顔色を知ったのだった。


 入学してまもなくのことだった。一年生をあつめた、新入生歓迎会のイベントがおこなわれた。伊豆のコテージを借りてキャンプをする。先輩たちと一晩をともにし、親睦を深めるというものである。

 自由参加だったので、とうぜんわたしは行く気がしなかった。しかし、

「一発目の飲みくらい参加しなきゃ、このさき友達づくりで苦労するよ。友達のいない大学生活はつらいよ。お義母さんも一回、そのせいで腐りかけたからね」

 と、ゆりちゃんにおどされ、しぶしぶわたしも参加することになったのだ。だけど、その選択は安易すぎた。元来からの人見知りであるわたしにとって、キャンプは最悪のものとなった。


 終始、わたしはだれとも話せなかった。話しかけられても、気の利いたおもしろい返事はできなかった。そもそも、みんながすすんで話題にあげるような、テレビ、インターネット、芸能人、漫画、ファッション、その他さまざまな俗っぽいジャンルには、とてもついていけなかった。

 山登りでは、わたしをはさんだ前後のコたちが、ツバを飛ばしあいながら熱心に会話していた。いたたまれなくなって、わたしはじっと自分のつま先を見つめた。

 浜辺では、グループごとの潮干狩り大会がおこなわれた。わたしはどのグループにも属せず、ずっと公衆トイレにこもり、本を読んで時間をつぶした。

 夕食のカレーづくりでは、人目のつかぬところにかくれ、ひたすらニンジンやジャガイモの皮をむき、その後は、悪いとは思いつつも林の中を行ったり来たりしてカレーが出来上がるのを待った。

 夕食後。そろそろ寝るのだろうと安心しきっていたら、コテージ内で酒盛りがはじまった。同コテージ内のメンバーは、みんなわたしと同じ、十八歳の女のコたちだった。しんじがたいことに、みんなお酒のことをよく知っていて、知識自慢までできて、そしてアルコールの免疫をそれなりに身につけていた。

 わたしは木製ベッドの二階で寝たふりをしていたのだが、そうしていると酔っぱらったコがわたしのところまで上がってきて、「のめ。世界がかわるぞお」と缶ビールを差し出した。おずおずとそれを受け取る。すると、部屋じゅうに謎の音頭がこだまし始めた。

 なーんで持ってるの。のみたいかーら持ってるの。

 わけがわからなかった。わけがわからないまま、わたしは缶に口をつけた。

 もともと胃が痛んでいたのと、周囲からのプレッシャーも加算され、とどめに未体験のアルコール投入である。いっきに鳥肌がたって、頭髪の毛先がぴんと逆立った。

 わたしはコテージを飛び出し、ちかくの沢で、おなかの中のものをぜんぶ吐いた。ちょっとだけ涙がでてきた。わたしは、友達のつくり方を忘れてしまったらしかった。このありさまで、いままでどのように人間関係を成立してこれたのか、自分でも不思議なくらいだった。沢のまわりはひとの気配がなかったので、そこで思いっきり泣くことにした。

 しかし、涙はほとんどでてこなかった。こんな目にあってまで、ちょっと涙目になるくらいだった。わたしの人生において、このキャンプは、その程度の苦難でしかなかったということなのだろう。

 ふと、わたしの背中をさするものがあった。どうじに声をかけられた気がしたけれど、川のせせらぎ以外はうまく耳にはいってこなかった。わたしが返事もできない状態なのだとわかると、そのひとは、だまって背中をさすりつづけてくれた。そのときのわたしは、あまりの恥ずかしさで面をあげられなかった。なので、そのひとの顔は確認できずじまいだった。そのまま、わたしは貧血で意識をうしなった。


 あのときは大変だったんだからね、とエリリは話した。エリリとは、さきほどのツーテールのコだ。つまりキャンプのときにわたしを介抱してくれた恩人だが、エリリというのが本名かどうかはさだかではない。たぶん、愛称なのだろうと思う。

 わたしたちは大学ちかくの古本屋さんにきていた。哲学科教授が出版した教本を買うためである。教授の口ぶりでは、自分の本を買って講義を受けなければ、とても単位は取得できないであろう、とのことであった。

 だが、構内で売られていた彼の本は、四千五百円と高額だった。

「詐欺だよ詐欺、こんなもん」とエリリは口をとんがらせる。

「わたし、このまえ教授の本見たよ。近所の古本屋さんでだけど……」

 わたしの声はありえないくらい小さかったらしく、すくなくとも二回は聞きかえされた。

 というわけで、エリリといっしょに、古本屋さんで教授の本を買った。七百円でたたき売りされていた。マックで斜め読みしてみる。内容はやけに理解しづらく、ただむつかしい単語を羅列しただけのように見えた。一般向けじゃとうてい売れないだろうな、とわたしは思った。

「難しいことを難しいままに説明するのって、ぶっちゃけ、馬鹿でもできるよな」

 彼女の意見に、わたしはおおむね同意だった。


 エリリはとても広い交友範囲をもっている。

 たとえば、他学部の生徒など、わたしにとっては同じ学校に通っている気さえしないほど遠い存在に思えてしまうのだが、彼女にしてみれば学問の垣根など意味をなさないようだった。いっしょに校内をあるいてみればわかるが、エリリは男女学生職員とわず、さまざまな者から声をかけられる。入学から半年も経っていないのに、どうすればそういった人脈を築けるのか、こちらとしては不思議でならない。そのため、エリリが呼び止められるたびに、わたしは手持ちぶさたに足を止めなければいけなかった。

 それでもエリリは、できる限りわたしと行動をともにした。わたしがひとりぼっちなのがよほど気にかかるらしい。

 わたしは拒絶しなかったし、もし拒んだところで、いちばん困るのは自分だと思っていた。学生にとって友人間の情報交換とはかなり重要な役割をになっている。なにより、なまじエリリという友だちができてしまったせいか、わたしの内にかくされたさみしがり屋っぷりがここにきて再燃してしまった。もうひとりぼっちで食堂の昼食をやり過ごすのはごめんだし、教授に質問されてうまくこたえられなかったときの空気は死にたくなるし、わたし抜きで盛りあがるグループ学習はすぐ涙目になってしまう。いままでは自己完結な妄想でどうにか逃げてこれたが、やはりそんなちゃちな現実逃避など、限界のようだった。

 エリリと話すようになってから、わたしはほとんど初めてといっていいくらいそれを思い知らされてしまったのだ。

 そんなおり、運よく、例によってエリリ経由で知ったサークルに所属する機会を得た。非公認の園芸サークルである。

 活動拠点の畑や花壇は、わたしもよく利用する図書館のうら側にあった。とはいえ、ほとんどお遊びみたいなもので、土台もたいした広さはない。ほんとうに趣味でやっているようなひとたちばっかりだった。いちおう、学園祭のときなどは鉢植えや花の苗などの露店をひらくらしいが、最小限の活動方針がわたしにはしっくりきてしまうのだった。

 そのサークルには、ひと一倍、園芸にくわしいひとがいた。二年生のクロキさんという女のひとで、ひととおり植物にかんして精通しているわたしでも、彼女の知識量にはたびたびおどろかされた。

 その日の活動は、ブルーベリーの成長にあわせて、土に肥料をほどこすというものだった。わたしは今までブルーベリーにせっする機会がなかったので、クロキさんに、ブルーベリーの肥料について訊いてみることにした。

「ブルーベリーを育てるときは、やっぱり土壌がポイントになってくるわね」と彼女は語った。「ブルーベリーってめずらしいものでね、酸性の土を好むのよ」

「酸性の土、ですか?」

「そうよ。ですから、肥料はアンモニア態窒素を維持しておく必要があるわけね。窒素の大別はわかるよね? 硝酸態窒素とアンモニア態窒素。PH5・5以上になると硝酸化成菌の働きがつよくなってしまうから、PH5・5以下の土、つまり酸性土壌をつくってあげることがブルーベリーにとっては居心地がいいわけ。麻衣ちゃんが、『酸性土壌なんて珍しいなぁ』と思うのも無理はないわ。ジャガイモや茶葉、ツツジなんかにも酸性土壌がいいけれど、それでも一部だものね。そういう特異な環境を好むのは、やっぱり少数派。酸性はアルミナが活性化するし、有用な微生物も死んじゃうでしょう? そういう意味では、ブルーベリーって孤独なのよ。現実にもいるじゃないそういうひと。まわりと同じ土じゃやっていけないっていう、そういうひと」

 熱心にあいづちを打つ。背中には汗がたらりとながれていた。

 ぶっちゃけ、クロキさんがなんの話をしているのか、わたしにはさっぱりだった。植物に精通しているだなんてうそぶいていた自分が、はなはだ馬鹿らしくなってくるじゃないか。わたしはかんぜんに、知ったかぶりの勘違い女であったらしい。

「どうしてクロキさんは、農学部のある学校に行かなかったんですか?」

 彼女はお上品にほほえんだ。

「わたしのこれは、ただの趣味だからね」


 ファミレスでの勉強のあいま、クロキさんとのメールのやりとりを楽しんでいたら、エリリが眉間にしわをよせて言った。

「クロキってやつ、あんまり関わらない方がいいと思うな」

「どうして?」

「だって、あきらか変わりものじゃん。お嬢さまだし、無駄にきれいだし、いっつも気味わるいくらいニコニコしてるし。ああいうタイプって裏ではなにしてるかわかんないよ。なーんか宇宙人みたい。ほら、もとの姿じゃ地球の空気にあわないの。擬態してごまかしてるみたいな。わかる? ぜったいあいつ、調子よくまわりに空気あわせてるだけなんだよ」

 エリリの言う空気のたとえは、クロキさんの土壌の話にどこか似ていた。なるほど、とわたしは思う。環境にそぐわないと、そのひとは変わりものと呼ばれてしまうらしい。ちょうど、畑から植木鉢に分けられてしまう酸性土壌のブルーベリーみたいに。

 ところがわたしには、どうもクロキさんが変わりものというふうには見なかった。まわりと同じ空気や土壌を共有できないという意味では、むしろ、友達のひとりもまともに作れないわたしの方が変わりものであろう。ちょっと、かなしいことだけれど。

 でも、このままでもいいやといまは思う。まわりと環境がちがっても、すばらしい作物や花をつちかうことは確かにできるのだから。これも、ちょうどブルーベリーみたいに。

 すくなくともわたしは、ちょっとずつではあるけれどもこの大学生活に慣れてきた。友達がすくないからってなんだ、関係ないや、といまなら声を大にして言える(実際にやれと言われればこまるが、これは気もちのありようなのだからかまわない)。

 わたしは真剣な顔をつくった。

「空気や土壌なんて関係ないんだよ、エリリ」

「ドジョウ?」

 エリリは腕ぐみして、あたしは淡水魚の話なんてしていないんだがなあ、とぼやいた。へんなところで鈍感なエリリはかわいかった。


 ある日の学校がえり、エリリとショッピングセンターに寄り道した。パスタ専門店にはいり、デュラムセモリナ粉とやらで仕上げた生麺パスタを食べた。エリリはバター醤油パスタで、わたしは、きのこと蒸し鶏と梅しその黒胡椒あえ和風パスタを注文した。ほんとうにそういう名前だったし、なんだかミョウな味がした。

 それからふたりで夏服を物色して、エリリのCDえらびにつきあった。そのときエリリが「なんかデートみたいだね」と言ってきたので、まともにデートも経験したことのないわたしは、心底照れくさかった。

 さいごに話題のジブリ映画を鑑賞して、ミスドで一時間ばっかし感想を討論しあい、電車に乗った。

「今日はうちに泊まっていきなよ」とエリリが言った。

 そういうわけで、ゆりちゃんに電話をした。友だちの家に泊まっていいかという旨をつたえると、ゆりちゃんは二つ返事で「いいよ」って言ってくれた。

「お父さん、心配しないかなあ」

「だいじょうぶじゃない?」

 ゆりちゃんがだいじょうぶと言うのならば、それはだいじょうぶということなのだろう。

 帰りがけに、コンビニで缶ビールを三本買った。わたしがじゃなくて、やっぱりエリリが。アパートにはいると、わたしたちは飽きもせずにジブリ映画を観た。エリリはそうとうなジブリマニアで、DVDをほぼ全作品そろえていた。宮崎駿のヒゲの感じについてあつく語りながら、ビールと焼酎をのみまくっていた。酒豪である。

「ねむいー」と、わたしにもたれかかってきたかと思うと、すぐに寝息を立てはじめた。

「エリリ、寝るなら髪くらいとかないと」

 ツーテールの片方のむすび目をといてあげる。もう片方は、エリリ自身の乱暴な手つきでといていた。肩にのってくるエリリの寝顔を見ると、かるくアイメイクをしているらしかったので、わたしは「お風呂はいってきなよ」とすすめた。

「いっしょにはいってよお」

 酔っぱらいの言うことは過激だった。

「子供みたいなこと言って、甘えちゃだめだよ」

「いけず」

 そこで、ほっぺたにチューをされかけた。さすがに引いてしまって、やんわりと避けながら、エリリをお風呂場へとつれていった。

 お風呂からあがると、エリリはさっそくベッドにもぐってしまった。わたしもシャワーを拝借して体を洗い、それから寝ようと思ったが、どこに寝ていいものか、そもそも予備の布団などはあるのか、他人の部屋というのはまったく勝手がわからなかった。

「エリリ、わたし、どこで寝ればいいの?」

 ぐったりしたエリリの体をゆすると、おっきな目がうすく開いた。

「このベッドだけ。ひとつしかないよ」と彼女は言う。

 わたしは困惑した。そもそも友だちの家に泊まるということじたい小学生以来のことであったので、すくなからずとも緊張していた。昔は、友だちの家へ大所帯でお泊まりしにいったので布団が足らず、二人一組でいっしょに眠ったが、そのときのわたしたちは十歳にも満たないほんの子供であった。したがってへんな意識もなかったし、むしろたのしかった記憶がある。

 たとえ同性とはいえ、わたしたちはもう、十代終盤もいいところだった。

 しかたがないので、エリリのとなりに恐る恐る横になる。エリリは酒くさかった。ぜんぜん、あのころの感覚はもどってこなかった。


 あさい眠りから覚める。

 台所のほうで、エリリがコップについだ水を飲んでいた。キッチンの薄黄色の照明が、その横顔を照らしていた。ツーテールをとくと、うしろ髪は背中まで伸びているのがわかった。横髪がほおにかかり、彼女の小顔がさらにちいさく見える。

 それだけ確認すると、わたしは寝がえりをうち、もう一度目を閉じた。ふたたび逆説睡眠のなかにおちていく。

 うっすらと、背後に掛け布団のこすれる音がする。エリリの空気とあわい存在感が耳たぶにふれた。そこでわたしは、唐突な覚醒感によって目を覚ました。

「西江さん」

 背中ごしに抱きよせられる。彼女の吐息に、わたしは身を硬直させる。パジャマのすそがずれて、エリリの指がくるりとお腹をなぞった。首筋がぞくぞくとふるえる。

「このまえ、クロキさんのことわるく言ってごめんね」

 わたしは、寝たふりをとおした。

「だって西江さん、クロキさんに憧れてるっぽかったもんね。あたしにも見せたことないくらいのいい笑顔でさ。あんなの、ぜったい、嫉妬しちゃうよ」

 嫉妬、嫉妬、と頭のなかでくりかえす。

「あのあと、ブルーベリーと土壌のはなししてくれたよね」声が湿って聞こえた。「あたし、ブルーベリーに共感しちゃったんだよ。気づかなかったでしょ。土壌のはなしなんて興味ないふりしてたもんね。ねえ西江さん、どうしてだろうね」

 エリリの指が、わたしのお腹をつまむ。皮がよじれ、ビリッ、と全身までしびれる。

「起きてるんだよね、ほんとは」

 わたしは、それでも寝たふりをつづける。首もとに、水気を含んだ息がかかる。空気の流れと布団のこすれる音で、わたしは目を閉じたまま、周囲の光景を想像した。その結果、エリリは上半身をおこして、わたしにおおいかぶさるようにしているのだとわかった。

 下唇に、濡れたものがくっついた。なぞるように唇の上を推移していく。それは舌だった。

「好き」声は直接、わたしにふれていた。自分自身をたしかめるように彼女は言った。「あたし女だけど、西江さんが好き」

 上唇をなぞられたあと、舌は前歯のあたりまで侵入してきた。もうだめだと思ったころ、エリリの動きがとまった。数秒間固まって、唇がはなれた。

 どうやら、わたしは泣いてしまっていたようだった。エリリがはなれた瞬間から、ちいさな泣き声まであげていた。どうすればいいかわからなかった。もう一回寝たふりをすればとも思ったが、どうかんがえても手遅れだった。わたしは枕に顔をうずめ、わけもわからず出てくる涙を必死にこらえた。

 エリリの立ち上がる気配を感じとる。

「ごめん……」

 それをさいごに、彼女は部屋から出ていった。



 図書館裏のブルーベリーと同じように、うちのサボテンも、土の植え替えをしてあげることにした。梅雨にはいる直前のこと。雨がつづくと、そのぶん太陽光がよわり、空気もしめり、サボテンが生きていくには困難になる。そのまえに土を替えて肥料を与え、つらい季節をしのいでもらおうというわけだ。わたしがサボテンの植え替えを思いたったのは、まさしくちょうどよい時期だといえた。

 クミカからもらった当時の鉢より二倍は大きい駄温鉢を倉庫からえらんで、底に防虫ネットをしき、ネットに少量の土をふりまいた。

 古い鉢からサボテンをはずす。以前のように土をおとし根っこを散髪した。駄温鉢にサボテンを入れ、根をやさしく広げる。ちょっとずつ土をかけて固めていく。土は多肉植物用のものをつかい、緩効性の化成肥料をまぜてあった。

 わたしはサボテンについて考える。サボテンは生長のおそい植物だ。人間みたいに体のほとんどが水でできていて、まるで天然の水タンクのよう。ほかの草木のように頻繁に水やりをすれば、キャパシティオーバーですぐにおぼれてしまう。日本の冬じゃさむすぎて、中身からこごえてしまう。暑さと乾燥につよくて、つらい環境でなければ満足しない双子葉植物綱。サボテンに花を咲かせるなら、とにかく厳しく育ててあげることだ、なんて迷信まである。

 肥料について考えた。そんなサボテンでも、肥料は年に一度は与えたほうがいい。土にほんのすこし、まぜるだけでいい。

 植物にとっての土とは、人間でいうところの社会のようなものだと、わたしはそう思う。わがもの顔でずぶとく見えるサボテンにだって苦手なものはある。ときは甘い蜜、肥料がほしくなるときがある。ひからびた大地に合わせるだけじゃ生き地獄にひとしい。ただ厳しくすればいいだなんて、そんなの、生きものにたいする接しかたじゃない。

 だから、と思う。エリリには悩みなんかないんだろうな、なんて、わたしのかんちがいに過ぎなかった。わたしがいなくても大丈夫だなんて、友だちがいっぱいいるからうらやましいだなんて、ただの妄想だった。彼女はだれからも理解されない土のなかでじっと耐えてきた。肥料もあたえられず、くるしいはずの水を必要以上にのまされてきた。エリリだけにさだめられた、適正のやすらぎがそこにはあったはず。

 クミカのときと逆だ。わたしはクミカに与え、求めすぎた。はんたいにエリリには、与えなさすぎて、求めなさすぎた。これで友達だと言いはっていたのだから、わたしってほんとうバカだ。もうひとつやりようってものがあったはずなのに。

 でも、わたしにはどうしていいかわからなかった。いままで積み重ねてきたつめの甘さがここであらわれた。わたしには、決定的な解決策がぬけていた。


 それから、エリリと顔を合わせることはほとんどなくなった。もともと学部も違ったし、共通で履修できる科目にさえ出なければいいだけのことだった。わたしは、在学生二万人の影にエリリが埋もれていくさまを思いうかべた。

 あのときのことを思いだすと、いまでも呼吸がくるしくなる。それ以上に痛むのは胸のほうだった。わたしは結局、エリリを避けてしまったんだ、って。

 一度だけ、古本屋の店頭でエリリが立ち読みしているのを見かけたことがある。エリリと教授の本を買いにでかけた、あの古本屋。あれからもう半年が経っていた。空はいまにも雪が降り出しそうで、空気を切るような冷気が街じゅうをつつんでいた。彼女は店先にならべられた雑誌を手にとり、たいくつそうに瞳をうごかしていた。ツーテールがしょんぼりと垂れ下がり、ときおりやってくる風にゆらされた。

 わたしは声をかけようとした。ほぼ無意識的に、だった。だけど、それはすんでのところで抑えこまれる。やがてやってきたエリリの友だちを認めたとき、わたしはコートのポケットに手を差しいれ、したを向いた。

 じっと、霜のはった街路樹の土を見おろした。

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