表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/15

10 なくす音

「擬音っておもしろいよな」と道彦くんは言った。

 図書館の自習室。そのすみっこテーブルを陣取って、銀河鉄道の夜を読む。だんまりしていると、道彦くんは天井をあおいで「しぃん」と言う。

「音にならない音って、どうして『しぃん』なんだろう。ぼくはむしろ、『きぃん』だと思うけどな。ほら、あんまりしずかだと耳鳴りがしてこない?」

「わかるけど」とわたしはあいづちして、「でも、わたしはちょっとちがうかな」

 道彦くんは食べようとしたフリスクをテーブルに置いて、かるく身をのりだした。

「ちがうって?」

「『きぃん』は、なくなったときの音なんだよ。なくなったときだけ、耳鳴りがするんだ。きぃん、きぃん、って」

「なくなったとき。たとえば?」

「たとえば……」

 彼の望むような返答は思い浮かばなかった。だってこの音に気づいたのは、わたしだってつい最近のことなんだから。

 いつのまにか道彦くんの目は文庫本へと戻っていた。小学生のころと変わらずマイペースなままだった。

「どうしてこっちに戻ってきたの?」

「親父がリストラにあってさ。向こうのマンションのローンが払えなくなったから、こっちの実家に戻ってきた。情けない話だけど、高校出たらぼくも働くっきゃないよな」

 彼の目は見られなかった。昔のとおりなのはわかるが、勝手なうしろめたさにかられて、目をそらした。わたしは恵まれた子供なんだって、いつか利恵に言われてしまったから。そんなこと、気にする必要ないのに。

「野球、もうやめちゃったの?」

「うん。最近はバイト漬けだし……」

 そっか、つぶやいて、わたしも手もとの本へ視線を落とした。

 わたしたちは図書館を出た。偶然の再会だったけれど、べつだん盛り上がるようなこともなかった。道彦くんは毎日いそがしいというし、学校も別だし、次にいつ会えるかもわからない。連絡先を交換するにも、わたしはふだんから携帯電話を持ち歩いていなかった。


 家に帰って、夕食を食べたあと部屋にはいった。携帯に涼二からメールがきていた。

『三万勝った』

 涼二は上京し、都内の公務員専門学校に通っている。安いアパート暮らしで、パチスロにはまっているのだという。こうことばっかり報告してくるのだ。

 涼二の部屋は以前のままにしていた。学習机の上の怪獣人形にはほこりがたまっている。手にとって持ち上げると、怪獣の足あとが残った。ベッドに腰かけて目を閉じると、黴びたにおいが目立って鼻先をさわった。

 そのうち掃除してあげよう、と思った。大晦日には帰ってくると言っていたし、きれいにしておくと喜ぶだろう。

 きぃん。

 音が聞こえた。

 さみしくないと言えばうそになる。でも、いなくなったからどうというわけではない。新幹線の改札で涼二を見おくるときだって、はやく帰って本読みたいなあ、なんて内心考えたくらい。

 ただ、この無人の部屋の空気はわたしの全身をさいなんだ。空間に重みがなくて、やけにすかすかだった。目を閉じただけで六帖の間取りが果てしなく広大に感じられる。たった一人ぽっち家からいなくなるだけで、どうしてこんなに広くなってしまうんだろう。

 きぃん、きぃん。

 なくすって、つまりこういうこと。とても身近で、ありふれていて、とりあげて悲しむことでもないのだけど。これもたしかに、なくすってことなんだ。

 瞼をおしあげる。携帯をひらく。登録された涼二の番号を呼び出して、通話ボタンを押しこんだ。

「どうしたぁ」

 一ヶ月と九日ぶりに聞く声だった。


 W大学文学部を受験したところ、今年一月、内定をもらった。四月から電車で一時間ほどのキャンパスまで通うことになる。涼二のようにアパートを借りるか、学生寮にはいってもよかったが、大きくなってしまったサボテンの置き場所に困るだろうし、なによりわたしはこの町がすきだった。

 合格祝いの翌日、こたつで寝そべりながらお正月番組を観る涼二に、初詣へいこう、とさそってみたが、ことわられた。せっかく帰省したんだからゆっくりさせろ、とのことである。

 かなしかったけど、意地をはって一人で出かけることにした。セーターの上にねずみ色のダッフルコートをかさねて着た。外に出るとおもいのほか寒かったので、いったん戻ってぼんぼりのあたたかいニット帽をかぶり、毛糸のてぶくろをした。もう一度玄関を出る。


 小高い山の上には、三が日ですら無人の神社があるらしい。

 活気のうすい商店街を抜けると、山頂への小道をすすんだ。お正月なのに、それともお正月だからか、道中で人とすれちがうことはなかった。ひどくしずまりかえっており、木々のざわめき以外はなにも聞こえない。

 無音をあらわす言葉として「森」というのがある。わたしが「森」にはじめて出会ったのは、おそらく銀河鉄道の夜。「しぃん」、と宮沢賢治は表現した。

 わたしも、無音には「しぃん」だと思う。

 だけど道彦くんは「きぃん」だと言う。しかしわたしの中での「きぃん」は、なくなったときの音だった。

 やがて山頂付近の分かれ道に到達した。尾根へとつづく道をえらび、さらにあるいた。尾根の途中に、その神社はあった。

 神主さんも参拝客もいないので、地面は枯れ葉でいっぱいだった。がしゃり、がしゃりと葉をふみながら、石造りの古い鳥居をくぐる。手水舎には濁った雨水がたまっていた。柄のへし折れた柄杓が地面にころがっていた。

 お金をそっとお賽銭箱に入れ、手を合わせる。本坪鈴はない。鈴緒だけが頭上にだらんとぶらさがっているだけだった。

 お参りを終えて、お賽銭箱のとなりにすわった。くさった板床の、みしり、という音が鳴る。頭を柱にあずける。苔っぽいかおりがした。足もとには、枯れかけのサニーレタスみたいな花があった。頭の中で花図鑑をひらく。葉牡丹だ。

 わたし、いったいなにやってるんだろう。せっかくのお正月で、なんでこんなところにいるんだろう。万が一ここにひとが通りかかったとして、「そんなところでなにをやっているんだ」と訊かれれば、わたしはなんとこたえる?

 初詣です。両親は親戚のところへ行っているし、兄をさそっても来てくれないので、ひとりでお参りしています。近所の稲荷神社はひとがいっぱいなので、ここに来ました。わたしはひと混みがきらいです。

 ぜんぜんだめだ。わたしが不審者なことに相違ない。

 とどのつまり理屈なんかないんだ。わたしはたぶん、「しぃん」の上位互換である「きぃん」をさがしたいだけ。特別な日だからこそ、こういう天の邪鬼な無意味さがしをしたくなる。わたしはそういう人間であった。

 苔のはえた柱に寄りかかり、わたしはゆっくりと目を閉じた。


 むかし、もっとも「きぃん」に近い体験をしたことがある。

 小さいころだった。自分がどれだけ小さいのかわからないくらい、小さかったときのこと。

 今日のような冬の夕方だった。ゆりちゃんと涼二と三人でこたつにはいり、わたしはうたた寝をしていた。なにか夢を見た気がするけど、いまとなっては思い出せない。

 目を覚ませば、まわりにはだれにもいなかった。こたつ布団から半身をあげた状態で、わたしはしばらく固まった。

 縁側の窓から夕日が差しこみ、手もとの畳まで伸びていた。まっ赤な夕日が目を刺激した。音はどこからも聞こえてこない。ここにはだれもいないんだって、わたしは自分の直感をしんじた。

 きぃん。

 耳鳴りがして、体じゅうを駆けめぐっていった。

 きぃん、きぃん。

 わたしはひとりぼっちになってしまったんだ。この世界には、もうわたし以外の人間はいない。真面目にそう考えたし、心にはぽっかりと、巨大な黒い穴があいたみたいだった。

 きぃん、きぃん、きぃん。

 泣こうにも泣けなかった。ひとりぼっちになれば困るという、それすら理解できないほどわたしは小さかった。ただ、むねのあたりはドキドキしっぱなしだった。この耳鳴りに呼応するように。こたつ布団をかぶって、長いあいだ音とたたかった。


 床板からおしりをあげる。神社の境内から、暮れなずむ町を見おろした。焼かれてしまいそうなほど赤い町並みがそこにはあった。

 もし、この世界が終わってしまったら。その瞬間をわたしは想像する。

 きっとこんな感じだ。

 こんな風に、ひっきりなしに音が響いていく。町じゅうから「しぃん」があつまって、叩くような耳鳴りを生む。やっぱり「きぃん」だ。涙も出てこないくらい、かなしい音。

 はっ、と息を吐く。視界のはしに白い湯気が立ちのぼる。

「きぃん」

 町の一角で凧があがると、耳鳴りは止んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ