10 なくす音
「擬音っておもしろいよな」と道彦くんは言った。
図書館の自習室。そのすみっこテーブルを陣取って、銀河鉄道の夜を読む。だんまりしていると、道彦くんは天井をあおいで「しぃん」と言う。
「音にならない音って、どうして『しぃん』なんだろう。ぼくはむしろ、『きぃん』だと思うけどな。ほら、あんまりしずかだと耳鳴りがしてこない?」
「わかるけど」とわたしはあいづちして、「でも、わたしはちょっとちがうかな」
道彦くんは食べようとしたフリスクをテーブルに置いて、かるく身をのりだした。
「ちがうって?」
「『きぃん』は、なくなったときの音なんだよ。なくなったときだけ、耳鳴りがするんだ。きぃん、きぃん、って」
「なくなったとき。たとえば?」
「たとえば……」
彼の望むような返答は思い浮かばなかった。だってこの音に気づいたのは、わたしだってつい最近のことなんだから。
いつのまにか道彦くんの目は文庫本へと戻っていた。小学生のころと変わらずマイペースなままだった。
「どうしてこっちに戻ってきたの?」
「親父がリストラにあってさ。向こうのマンションのローンが払えなくなったから、こっちの実家に戻ってきた。情けない話だけど、高校出たらぼくも働くっきゃないよな」
彼の目は見られなかった。昔のとおりなのはわかるが、勝手なうしろめたさにかられて、目をそらした。わたしは恵まれた子供なんだって、いつか利恵に言われてしまったから。そんなこと、気にする必要ないのに。
「野球、もうやめちゃったの?」
「うん。最近はバイト漬けだし……」
そっか、つぶやいて、わたしも手もとの本へ視線を落とした。
わたしたちは図書館を出た。偶然の再会だったけれど、べつだん盛り上がるようなこともなかった。道彦くんは毎日いそがしいというし、学校も別だし、次にいつ会えるかもわからない。連絡先を交換するにも、わたしはふだんから携帯電話を持ち歩いていなかった。
家に帰って、夕食を食べたあと部屋にはいった。携帯に涼二からメールがきていた。
『三万勝った』
涼二は上京し、都内の公務員専門学校に通っている。安いアパート暮らしで、パチスロにはまっているのだという。こうことばっかり報告してくるのだ。
涼二の部屋は以前のままにしていた。学習机の上の怪獣人形にはほこりがたまっている。手にとって持ち上げると、怪獣の足あとが残った。ベッドに腰かけて目を閉じると、黴びたにおいが目立って鼻先をさわった。
そのうち掃除してあげよう、と思った。大晦日には帰ってくると言っていたし、きれいにしておくと喜ぶだろう。
きぃん。
音が聞こえた。
さみしくないと言えばうそになる。でも、いなくなったからどうというわけではない。新幹線の改札で涼二を見おくるときだって、はやく帰って本読みたいなあ、なんて内心考えたくらい。
ただ、この無人の部屋の空気はわたしの全身をさいなんだ。空間に重みがなくて、やけにすかすかだった。目を閉じただけで六帖の間取りが果てしなく広大に感じられる。たった一人ぽっち家からいなくなるだけで、どうしてこんなに広くなってしまうんだろう。
きぃん、きぃん。
なくすって、つまりこういうこと。とても身近で、ありふれていて、とりあげて悲しむことでもないのだけど。これもたしかに、なくすってことなんだ。
瞼をおしあげる。携帯をひらく。登録された涼二の番号を呼び出して、通話ボタンを押しこんだ。
「どうしたぁ」
一ヶ月と九日ぶりに聞く声だった。
W大学文学部を受験したところ、今年一月、内定をもらった。四月から電車で一時間ほどのキャンパスまで通うことになる。涼二のようにアパートを借りるか、学生寮にはいってもよかったが、大きくなってしまったサボテンの置き場所に困るだろうし、なによりわたしはこの町がすきだった。
合格祝いの翌日、こたつで寝そべりながらお正月番組を観る涼二に、初詣へいこう、とさそってみたが、ことわられた。せっかく帰省したんだからゆっくりさせろ、とのことである。
かなしかったけど、意地をはって一人で出かけることにした。セーターの上にねずみ色のダッフルコートをかさねて着た。外に出るとおもいのほか寒かったので、いったん戻ってぼんぼりのあたたかいニット帽をかぶり、毛糸のてぶくろをした。もう一度玄関を出る。
小高い山の上には、三が日ですら無人の神社があるらしい。
活気のうすい商店街を抜けると、山頂への小道をすすんだ。お正月なのに、それともお正月だからか、道中で人とすれちがうことはなかった。ひどくしずまりかえっており、木々のざわめき以外はなにも聞こえない。
無音をあらわす言葉として「森」というのがある。わたしが「森」にはじめて出会ったのは、おそらく銀河鉄道の夜。「しぃん」、と宮沢賢治は表現した。
わたしも、無音には「しぃん」だと思う。
だけど道彦くんは「きぃん」だと言う。しかしわたしの中での「きぃん」は、なくなったときの音だった。
やがて山頂付近の分かれ道に到達した。尾根へとつづく道をえらび、さらにあるいた。尾根の途中に、その神社はあった。
神主さんも参拝客もいないので、地面は枯れ葉でいっぱいだった。がしゃり、がしゃりと葉をふみながら、石造りの古い鳥居をくぐる。手水舎には濁った雨水がたまっていた。柄のへし折れた柄杓が地面にころがっていた。
お金をそっとお賽銭箱に入れ、手を合わせる。本坪鈴はない。鈴緒だけが頭上にだらんとぶらさがっているだけだった。
お参りを終えて、お賽銭箱のとなりにすわった。くさった板床の、みしり、という音が鳴る。頭を柱にあずける。苔っぽいかおりがした。足もとには、枯れかけのサニーレタスみたいな花があった。頭の中で花図鑑をひらく。葉牡丹だ。
わたし、いったいなにやってるんだろう。せっかくのお正月で、なんでこんなところにいるんだろう。万が一ここにひとが通りかかったとして、「そんなところでなにをやっているんだ」と訊かれれば、わたしはなんとこたえる?
初詣です。両親は親戚のところへ行っているし、兄をさそっても来てくれないので、ひとりでお参りしています。近所の稲荷神社はひとがいっぱいなので、ここに来ました。わたしはひと混みがきらいです。
ぜんぜんだめだ。わたしが不審者なことに相違ない。
とどのつまり理屈なんかないんだ。わたしはたぶん、「しぃん」の上位互換である「きぃん」をさがしたいだけ。特別な日だからこそ、こういう天の邪鬼な無意味さがしをしたくなる。わたしはそういう人間であった。
苔のはえた柱に寄りかかり、わたしはゆっくりと目を閉じた。
むかし、もっとも「きぃん」に近い体験をしたことがある。
小さいころだった。自分がどれだけ小さいのかわからないくらい、小さかったときのこと。
今日のような冬の夕方だった。ゆりちゃんと涼二と三人でこたつにはいり、わたしはうたた寝をしていた。なにか夢を見た気がするけど、いまとなっては思い出せない。
目を覚ませば、まわりにはだれにもいなかった。こたつ布団から半身をあげた状態で、わたしはしばらく固まった。
縁側の窓から夕日が差しこみ、手もとの畳まで伸びていた。まっ赤な夕日が目を刺激した。音はどこからも聞こえてこない。ここにはだれもいないんだって、わたしは自分の直感をしんじた。
きぃん。
耳鳴りがして、体じゅうを駆けめぐっていった。
きぃん、きぃん。
わたしはひとりぼっちになってしまったんだ。この世界には、もうわたし以外の人間はいない。真面目にそう考えたし、心にはぽっかりと、巨大な黒い穴があいたみたいだった。
きぃん、きぃん、きぃん。
泣こうにも泣けなかった。ひとりぼっちになれば困るという、それすら理解できないほどわたしは小さかった。ただ、むねのあたりはドキドキしっぱなしだった。この耳鳴りに呼応するように。こたつ布団をかぶって、長いあいだ音とたたかった。
床板からおしりをあげる。神社の境内から、暮れなずむ町を見おろした。焼かれてしまいそうなほど赤い町並みがそこにはあった。
もし、この世界が終わってしまったら。その瞬間をわたしは想像する。
きっとこんな感じだ。
こんな風に、ひっきりなしに音が響いていく。町じゅうから「しぃん」があつまって、叩くような耳鳴りを生む。やっぱり「きぃん」だ。涙も出てこないくらい、かなしい音。
はっ、と息を吐く。視界のはしに白い湯気が立ちのぼる。
「きぃん」
町の一角で凧があがると、耳鳴りは止んだ。