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1 はじめての家出

 初潮をむかえた中学一年の秋、わたしは命について考えた。

 朝、とある居心地の悪さをおぼえてトイレに行ってみると、下着の裏地がぽっと赤くなっていた。あぁ、ついに来たな、と思った。わたしは、自分でも信じられないくらい、そういうおちついた気分でいられたのだ。


 こういう、女の子だけの生理現象があるんだって知ったのは、たしか小学校四年生のとき。

 保健体育の授業で、安山けい子先生がとつぜん、「女子のみんなは、これから保健室にあつまってください」と言った。男子たちはいささか不満そうだった。きっとテストの答え教えてもらうんだぜ、女ばっかりずるいぞ、えこひーきだ。そんなことをぶつくさと。

 保健室に行くとき、後ろの席の男の子がわたしの服のすそを引いた。名前は道彦くん。

「もし、こんどのテストのヒントとかだったらさ、あとでこそっと教えてくれよ」

 わたしはにやりと笑って、道彦くんにだけこっそりピースサインを送った。

 授業が終わったあとの昼休み、廊下の奥で道彦くんに呼び止められた。

「どうだった。どんなヒントもらったんだ」

 そう尋ねられたとき、わたしは真っ赤になってうつむくことしかできなかった。だって、恥ずかしくて言えるわけがなかった。たぶん、けい子先生はそんなつもりじゃなかったんだろうけど、わたしには生理がなんだか、ヒワイに思えてしまったのだから。


 あのころと比べれば、わたしはずいぶんましな子供になったと思う。ましな子供とはつまり、ものごとの分別がつく子供のことだ。

 わたしは赤くなった下着に、ふん、と鼻で笑ってみせ、ついでに「やれやれ」なんて独り言までつぶやいてみせた。まぁ、これもひとつのさだめじゃないか。

 部屋に戻り、学習机の奥から半年前に友達といっしょに買った生理用品を探りあてた。家族に見つからないうちにお風呂場へ行って、体と下着を洗うことにした。寒くなる季節だったのでお湯の温度をすこし上げた。ちょうどいい目覚ましにもなる。

 さて、下着を洗おう、そう思ったところで、自分の手がふるえていることに気づいた。お腹の内側で、ぐいぐいと締めつけられるような痛みがあることも、そこでやっとわかった。かるい目眩がして、ちょっとだけ吐き気をもよおした。胃の中で毛虫がのたくりまわっているみたいだ。でこぴんで手の甲をぴしっとやってみたけど、体のふるえは止まらなかった。ふるえの方はたぶん、痛みからくるものじゃないみたいだった。

 強がっていても、わたしだって不安なんだな。

 そういう風にすぐに自覚できてしまうところも、やはり分別のつく子供なのだろう。

 その日の体育の時間、わたしは貧血を起こして保健室のお世話になった。


 初めての生理は、たっぷり六日間は続いた。

 自室の中、ナプキンに汚れがついていないことを確認すると、わたしは仙人のような神聖な心もちでベッドに転がった。あるいは、初戦を勝利でおさめた武士みたいな心身状態だっただろう。勝って兜の緒を締めよ。そういうことだ。

 そこでわたしは、命について真剣に考えてみることにした。だって、わたしの身体はもう、命を授かるライセンスを受け取ってしまったのだから。いま考えずに、いったいいつ考えろというのだろう。


 わたしは自分のお母さんを写真でしか見たことがない。一応いまは義理のお母さんがいるけど、わたしはお義母さんのことを『ゆりちゃん』と呼んでいる。他の子のお母さんよりは断然若いし、雰囲気も親戚のお姉さんみたいだし、だからやっぱり、『お義母さん』よりも『ゆりちゃん』だ。

 ゆりちゃんに初めての生理が来たことを伝えると、ゆりちゃんは、「お赤飯を炊こう!」といきり立った。変なところでおばちゃんみたいだなと思ったが、口には出さなかった。わたしの苦笑いにゆりちゃんははっとして、

「やだなぁ、あたし、おばさんみたいなこと言っちゃってる」

 と、ちょっと恥ずかしそうにしていた。でもわたしは、気を使ってこう言ってやるのだ。

「ゆりちゃんって、制服着たらフツーに高校生に見えそうだよね」

 ゆりちゃんは真に受けて、本気でうれしそうにしていた。かわいいな、とわたしは思った。


 晴れた昼間に近所の河原をあるいていると、涼二が水面に向けて石を投げていた。水切りでもして遊んでいるのかなと思ったけど、そうじゃないみたいだった。涼二は、力まかせに石を投げつけるだけだった。

「涼二、なにしてるの?」

 涼二はびくっと肩をふるわせて振り返った。むっつりした瞳がわたしを見つめる。

「麻衣みたいなガキには、おれの気持ちはわかんねーよ」

 変声期を終えた中途半端に太い声で、涼二はわたしをののしった。それから彼はまた石投げを再開する。

 涼二とわたしは異母兄妹だ。奇妙なものだなと思う。ゆりちゃんと涼二は実の母子なのにあまり仲がよろしくない。けれど、ゆりちゃんとわたしは直接血のつながりがあるわけじゃないのに姉妹のように仲良しだ。

 きっと、涼二が反抗期なのがいけないんだ。でも、それも仕方のないことだなとわたしは達観している。涼二は中三だし、受験生だし、むつかしいお年ごろなのだ。

「どっちがガキなんだか!」

 よく聞こえるよう大きな声で言って、わたしは逃げるようにその場を去った。


 家出をしよう、そう思い立ったのはそれから三日後のことだ。

 家出というと、たいていはなんらかの不幸にさいなまれた結果ゆえの行動なのではないかと思われがちだけど、わたしにいたってはそんなことはない。というか、多くの家出娘は、なにかしらの希望を持って家出するものなのだ。家出をネガティブなものだと決めつけるのは、そもそもの思考停止なのである。わたしはそう思う。

 わたしの家出の目的は、ありていに言えば自分探しだ。命とはなんぞや、を探す旅とも言える。

 ちょうど明日は土曜日だ。みんなが寝しずまったところで、わたしは行動を開始した。

 さっそく、クローゼットから布の手作りバッグを取り出した。むかし、父方のおばあちゃんに作ってもらったもの。灰色と黒と黄色のギンガムチェック柄の布地で、一見地味だけど、これがまた丈夫で長もちしている。

 貯金箱をひっくり返し、おもにお年玉などで貯めたお金をぜんぶお財布に入れた。枕と掛け布団は背中のリュックサックに入れた。冷蔵庫からは板チョコを数枚。それは布バッグの方に入れる。戸棚にあったお菓子もひとつ残らず持っていくことにした。これだけあれば、三、四日は生きていけよう。わたしは満足してうなずいた。

「なにしてんだ」

 パジャマ姿の涼二が台所にやってきた。わたしはとくに驚くこともなく、誇らしげにあごをくいっとあげた。

「わたし、これから家出をするんだよ」

「なんだと。それはいいことだな」

 ばかにされると思ったが、涼二の反応は意外だった。

「おれもついてっていいか?」

 わたしはちょっとうれしくなった。ここだけの話、ひとりぼっちはけっこう不安だったのだ。

「いいよ。ただし、ゆりちゃんとお父さんを起こさないよう、じゅうぶん注意して準備するんだよ」

 涼二は、おう、と意気込んで、あわてて口をふさいだ。


 この世には、わたしたちを非現実的な世界へとみちびくものが多数存在する。それはコンサートだったり遊園地だったり映画館だったりするわけだけど、旅や家出もそのひとつだとわたしは思う。

 わたしが考えるに、そういった非現実的な場所へ向かう道中そのものも、非現実的世界の片鱗なのだと思う。

 たとえば、いまわたしがこうして、深夜バスに揺られている瞬間もそうだ。目的地への到着を黙々と待つわたしと涼二は、ふだんでは考えられないくらいそわそわしている。まだ移動中には違いないのだけど、わたしたちの心には早くも未見の地が見えているのだ。

 そう考えれば、この深夜バスもすでに非現実的世界を走っているということになる。突き詰めれば、家出をすると決めたあの瞬間から、わたしたちの世界はもう現実から非現実へとシフトしていたのだろう。

「なぁ麻衣、おれ、なんだか興奮しておしっこしたくなってきちゃったぜ」

 わたしは黙って、バス後方にある簡易トイレのカーテンを指した。こんなときに下品なことを言うひとは、大きらいだ。


 駅に到着して、路線を三本も乗り換えた。終電にぎりぎりで間に合い、なんとか乗り込む。わたしたちは南へ向かって、ぐいぐいと引っ張られた。終着駅には待望の海がある。

 駅を降りて二十分歩くと、砂浜が見えてきた。わたしたちはどちらともなく駆け足になって、競うように海を目指していた。

 浜辺にはシャッターの閉じられた海の家が数軒並んでいた。そこを縫うように砂浜へ突撃する。

「うおー」

 涼二は叫んで、砂浜に頭からつっこんだ。わたしは先走らず、余力を持って波打ち際まで走っていく。サンダルをその辺にほっぽりだして、海水に足をつけた。

「わたしの勝ち!」

 涼二は砂だらけの顔を上げて、眉を八の字にした。

「おれは、砂浜がゴールだと思っていたんだがなぁ」

「海に来たんだから、海がゴールに決まってるでしょ」

 ちぇっと舌打ちして、涼二はその場に仰向けになった。そして、おぉ、と感嘆の声をあげた。

「こりゃいいや。おい麻衣、こっちに来て、おれみたいにしてみろ」

 言われたとおりに、わたしは涼二のそばで天をあおぐように寝っ転がった。涼二とわたしの頭を中心に、二人の体で時計の長針と短針を描く。たぶん一時二〇分くらいかな、と適当に思った。

 頭上では満天の星空が広がっていた。ほとんど黒い部分が分からなくなるくらい、光の玉が群をなしている。

 わたしは布のバッグから一枚の写真を取り出した。すでに亡くなったわたしのお母さんの写真。シンデレラみたいな格好をしたきれいなお母さんと、かしこまってカチコチになったお父さん。結婚写真を縮小して、手のひらサイズにしたもの。

 わたしは、お母さんやお父さんやゆりちゃんの過去をあまりよく知らない。そして、知りたいとも思わない。わたしより涼二の方が先に生まれたのに、どうしてお父さんは最初にゆりちゃんと結婚しなかったのかとか、お母さんはゆりちゃんや涼二のことを知っていたのかとか、そういうややっこしくて暗そうな過去は、知らない方が楽なのだ。

 でも、ちっとも気にならなかったといえばうそになる。わたしは間違いなく、この写真のお母さんから生まれたのだ。何度かお父さんに、お母さんのことを尋ねてみようしたこともあった。ただ、今までずっと聞きそびれていたってだけで。


 今のわたしは、正真正銘のからっぽだ。もちろんいい意味で。こうして、いま生きている瞬間さえ楽しければ、それは幸せだということなのだから。

 わたしは眼鏡をはずして、不明瞭な夜空を見上げた。もちろんのこと一気に視界が悪くなる。それと同時に、わたしは新たな発見をした。

 星の大群はぼやけきり、光をいっそう膨らませて空を支配している。もともと光で満ちていたその夜空は、さらに大きく光点をひらいてみせ、わたしに網目状の模様を連想させてくれるのだ。

 ギンガムチェックだ、とわたしは思った。

 おばあちゃんが作ってくれた布バッグと比べてみる。思ったとおり、この夜空とよく似た柄具合だった。ブラック、グレー、そして、下地を彩るあざやかなイエロー。それがいくつも折り重なり、お互いを尊重しあっている。

「どうしたんだ麻衣、にやにやしちゃって。変なの」

「涼二には、おしえない」

 砂に後頭部をつけて、裸眼で夜空を見上げた。

 わたしは確信する。

 きっとわたしは、このギンガムチェックの夜空のしたで生まれたんだ。

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