桜咲く夜
「俺は、全てを失った。 だから、自分の命を捨てようと思う。 今まで、俺なんかに良くしてくれてありがとう。 さようなら」
満開に咲いた桜の木の下で、男はそう蚊の泣くような声で涙を頬に伝わせながら言う。
川の土手沿いに咲いた満開の桜は見事なものだが、この場所には花見をする人だかりはなく、男一人しかいない。
街灯もちゃんとあり、さほど暗くはないが夜なので川面は闇に沈んでいる。
そんな川面を見て、男は小さく自嘲する。
「俺の心をそのまま映したような川面だな。 闇に、闇に埋もれて、沈んでもう這い上がれなくなっているみたいだ」
かつては光の中に身を置いていた自分を思い出しながら、今はもうすっかり闇に取り込まれてしまった自分を川面に映す。
そして、光の中にいた自分の隣に寄り添ってくれていた女性をイヤでも思い出す。
いつも笑顔で側にいてくれて、共に笑いあった日々、互いの主張が噛み合わずケンカをして仲直りした日々。
最後には、二人が謝り微笑みながら許しあった。
だけど、そんな日々はもう来ない。
突然、終わりを告げた光りの中の日常を男は呪った。
あれからいくつの時が流れていっただろう。
あの、悲しみに暮れた日からいくつの時が流れていっただろう?
答えは知っている。
忘れられもしない、あの時から幾日も幾日も、毎日、来る夜だけを数えている。
「今日はお前の誕生日だったな。 これは俺からのプレゼントだ。 あの時、渡しそびれてしまったんだ。 だから、今ここで渡すよ。 受け取ってくれないか?」
今はいない女性を思いながら、薄手のコートのポケットからキレイに可愛らしく梱包された贈り物を取り出す。
だが、その言葉に返事は返ってこない。
変わりに、春の暖かい風が彼を撫ぜる。
その風が奏でた音がまるで優しい声で、『ありがとう』と言っているようだった。
『もう、いいんだよ。 私こそ、今までありがとう。 君は、まだこっちに来るのは早いよ。 もっと長生きして、私にそっちの話をいっぱい、いっぱい聞かせてよ』
空耳だったかもしれない、男の心がその声を聞かせたのかもしれない。
だが、彼にはその声が自分の心が映し出した偽りの言葉とは到底、思えなかった。
それを証明するかのように、夜にも関わらず、どこかで鳥が鳴いた。
「……わかった。 じゃあ、俺はもう少しこっちで頑張るよ。 ちゃんと土産話を持っていくから、待っててね」
また、先程とは違う理由で涙が頬を伝う。
いつしか、川面には雲の切れ間から顔を出した満月が映し出されていた。
まるで、闇に沈んだ心の中に一筋の希望が見出されたかのようで、それを見た男の心は晴れていった。
その後の人生をかけて男は、真面目に働き、その稼いだお金で色々なところに旅行に行った。
もういない彼女に捧げるように、まだ行っていないところを写真に収めながら。
その途中で出会った女性と結婚し、2人の子宝にも恵まれた。
男は幸せな日々を送りながら、旅行を繰り返した。
だが、毎年の花見はいつもヒトがいない男が、一度は人生を諦めた決心をしたあの場所だ。
その頃には、川面には桜の花びらが舞い、川底にはキラキラと光る鉱物が幾重にも散らばっており、光が溢れていた。




