夢の彼方で軟体と
私の好きな彼は、夢の世界にいる。
私の好きな彼は、別の世界にいる。
私の好きな彼は、海の世界にいる。
私の好きな彼は、青い肌をしている。
私の好きな彼は、赤い目をしている。
私の好きな彼は、黒い血をしている。
私の好きな彼は、孤独の中にいる。
私の好きな彼は、争いの中にいる。
私の好きな彼は、狂気の中にいる。
私は、ただいつもそれを見ている。
「おはよー、アキラっ」
「おはよ。なぁに? 朝からテンション高いねー」
「ははっ、実はレポート作成で徹夜しちゃってさ」
「まーたアンタは。毎日何やってたの」
「ええー、そりゃカラオケとかぁ、あとショッピングとかぁ、あっ、合コンも行ったわ」
「もう、学生の本分は勉強でしょ?」
「アキラが真面目すぎるんだよー」
きっかけが何だったのか、それは未だに分からない。
私が不思議な夢を見始めたのは、確か中学生の2年になって間もなくのころだったろうか。
ある日。唐突に異世界の、それも異形の生物の壮絶で残酷な人生をこの目で追うことになったのだ。
それは映像のように早送りや場面転換、視点切り替えなどを挟みながら、否応なく私の視界を犯した。
主人公らしき異形生物は、人間と同等の知能を有した海中を総べる軟体種族マ・ラゼラの子供だった。
彼が出産されるシーンから始まり、直後に実の両親から幽閉され、冷たい牢獄で5年程を過ごした後、とある男に連れ出される。
そんな流れを追った。
解放の際、牢獄の傍に両親の死体が転がっていたが、長く幽閉されていた子供にはそれが死体であることも両親であることも理解できなかった。
そして、男の指示のもと、牢獄を出た彼はまず自らの兄弟をそうと知らぬまま手にかけた。
その行為は本当に、本当に淡々と終わった。
ちなみに明晰夢(見ている本人が夢であると認識している夢)だったのだけれど、ただ通常言われているそれと違って、夢の中で私が内容に干渉することはできなかった。
やるせなさや恐怖、悲しみ、憤り、そんな中学生が抱くには大きすぎる感情と共に目覚めを迎える。
その私の顔は、心の器からあふれ出たのであろう大量の涙でぐっしょりと濡れていた。
元々、夢自体は良く見る方だったし、起きて記憶が残っていることも少なくないので、最初は普通の夢だと信じて疑わなかった。
思春期でもあったので、たかが夢で泣くなど恥ずかしいとすら思っていた。
その日の夜。同じ夢の続きを見ることになった時だって、珍しいこともあるものだと少し得をした気分になっただけ。
けれど、それは更に3日続き、4日続き……私が20歳を超えた現在になっても未だ途切れることなく続いている。
いつしか私はこれをただの夢ではなく、どこか遠く、この星の外や或いは異世界で現実に起こっていることなのではないかと思うようになっていた。
「ねぇ、アキラはさ、もう進路決めた?」
「さすがに3年だし、大体の方向性くらいは決まってるよ」
「そっかー。いいなぁ、私まだ迷いに迷っててさー」
「アレなら、院に行ってみるとか?」
「いやいやいや、さすがにそこまで頭良くないからっ」
「そんな謙遜して。実は結構成績良いでしょ?」
「だとしても、院に行ってまで勉強続けたくないよー」
マ・ラゼラ族が何に似ているかと問われれば、それはタコが最も正解に近い答えとなるだろう。
シルエットこそ人間に近いものがあるが、骨は存在しておらず、弾力とぬめりのある斑な青肌は臨機応変にその色を変えた。
主に深海に居を構えているが、海全てを自らの領域とする彼らの瞳が退化していることもない。
ただし、彼らは視覚に頼り切っているわけではなく、超音波や聴覚、嗅覚その他多種多様な手段で空間や他生物を把握・認識していた。
胴体らしき部位からは、人間の指のように先が細かに分かれた精密作業を得意とする触手が1対、移動の主な手段となる触手が1対、同じく移動の微細な舵取りとして使われる細い触手が2対伸びており、さらに首元に似た部位には攻撃用の毒や鋭い針が仕込まれた触手が1本隠されていた。
また、軟体種族と称したように彼らの体は非常に柔らかく、体長は主に170~200センチと大きめながら、直径にして5センチほども隙間があれば軽々とそれを通過してしまう。
が、その点について、水中ではという条件がついた。
陸上で風を受け乾いた時、彼らの肉体は恐ろしく硬化する。
正確な硬さは分からないけれど、少なくとも鋼鉄より上であることは確認済みだ。
さらに、それほどの硬さを持っていながら彼らの動きは実にしなやかであった。
中々に驚異的な事実である。
さて、では海を主な活動領域とするマ・ラゼラ族がなぜ陸上へと歩を進める必要があるのか。
それは近年、彼らが急速にその数を増やしたためであった。
太古の昔よりマ・ラゼラ族の天敵であると言われていた海底王クーラダインとその眷属レヴィアーク。
そんな天敵をたった一人のマ・ラゼラの若者が葬り去ったのだ。
ゆえに、唯一の脅威であった存在から逃れた彼らの人口は爆発的に増加した、というわけである。
そうして、いつしか広大な海ですら領地として不足とみたマ・ラゼラ族は、地上への進出を目論み始める。
元々、海の資源を欲した人間と幾度となく小競り合いを繰り返していたこともあり、その決定に表立って否を唱える者はいなかった。
人間と同じように知能があり感情があり一定水準以上の文化を持ってはいたが、未だ彼らの価値観を大きく占めるのは弱肉強食という野性味の強いものであったのも理由のひとつだろう。
「アキラー。今日、放課後ひまー?」
「んーん、今日はバイトー」
「そっか。あああ、どうしよ。合コンのメンツ集まらないよぉーっ」
「って、合コン!? そんなの、バイトじゃなくたって出ないからね!」
「えええー、勿体無い。女子大生ってブランドがあるのは今だけなんだよ?」
「そんな名称に釣られる人間なんてハナからお断り」
「もー。相変わらずお堅いなぁ」
マ・ラゼラ族最強の戦士ヌヴェイラジュー。
それが私の見ている異形の主人公の現在の名だった。
最強、という単語からも分かる通り、海底王クーラダインを屠ったのはこの男である。
理由は単純。彼を牢獄から解放した男により命令されたから、だ。
当然、彼は人間との戦争においても誰より活躍を見せた。
男も女も老人も子供も、とにかく目につく人間を見境なく殺した。
いや、人間だけではない。
彼の瞳に映る陸上生物は、例外なく虐殺対象となった。
その姿は、さながら感情の無い冷徹な殺人機械。
また、彼は同族に対しても一切の情を持たず、自らの妨げになると判断した者を容易く手にかけていた。
だから、彼は常に孤独だった。
生きとし生けるもの全てより恐怖の対象と認識されていた。
彼に唯一命令できる立場にある男も同じだ。
例えば、男の命令を実行するにあたり当の男が邪魔であるとヌヴェイラジューが判断すれば、彼は躊躇なくその男を亡き者にするだろう。
それを理解している男がヌヴェイラジューを恐れないわけがない。
だから、おそらく、彼を知る誰もが知らない。
そんなヌヴェイラジューにも本当は感情があることを。
血と狂気を纏う彼が、その無表情の奥で切望しているものを。
それを、ずっと彼を見てきた私だけが知っているのだ。
そして、それをいくら知っていようと、彼と異なる世界の住人である私だけが叶えられないのだ。
こんなジレンマはなかった。
彼が子を庇う親をほんの少しだけ無残に刻むことを知っている。
彼が睦まじい男女をほんの少しだけ優先的に狙うことを知っている。
彼が無垢な赤ん坊をほんの少しだけ躊躇したのち殺すことを知っている。
彼が人間以外の生物をほんの少しだけ苦しまぬよう屠ることを知っている。
集落に向かう中、泣きたくなるような美しさの夕陽を前に、しばし立ち止まっていたことを知っている。
眩しいほどの朝日が彼の全身を覆う返り血を照らした時、しばしそんな己の触手を眺めていたことを知っている。
彼が愛というものに対し、深く憎しみと妬みと渇望とを覚えていることを知っている。
彼が無知なる存在に対し、無意識的に共感を哀憐を慈悲を抱いていることを知っている。
彼が殺害という行為に対し、唯一の心の捌け口と認識していることも、それに虚しさを感じていることも知っている。
そして、彼を幽閉した両親が本当は彼を愛していたことも。
その両親がなぜ彼にそのような無体を強いなければならなかったのかも。
全ては夢の外に生きる私だけが知っている。
「ね、アキラってさ、好きな人とかいないの?」
「ええ? なに、突然」
「だって、いっつも私ばっか話してんじゃん。
たまには聞かせてくれてもいいでしょ?」
「はぁ……まぁ、そうね。
一応いる、かな。片思いだけど」
「マぁジでぇーーー!
えっ、どんな人!? 告らないの!?」
「告白は無理。住んでる世界が違うし」
「何それ。物理的に? それとも身分とか?」
「……両方、かな。
でも、それでもその彼以上には誰もなれないから」
「……そっ、か。難儀な恋してんだねぇ」
もし、私に彼の夢を見せている何らかの上位存在があるのだとしたら、その何かは一体どんな意図をもってこんなにも無意味なことを実行しているのだろう。
ただ、私に毎晩毎晩休みなく彼を見せることで、その存在に一体なんの益があるというのだろう。
どんなに夢が終わるよう願っても、どんなに彼を救えたらと願っても、どんなに……。
夢だからこそ、ヌヴェイラジューのことを深く知ることができたのは分かっている。
夢だからこそ、彼の蛮行の中に些細な違いがあることに気が付けた。
夢だからこそ、あの世界の言葉も習慣も環境もその他の何もかもを無視して彼を眺め続けることができている。
でも、彼に抱いたこの気持ちは、苦しいほどのこの感情だけは、どこまでも現実なのだ。
ともすれば、私は狂ってしまっているのかもしれない。
本当に存在しているかどうかも分からない、それも異形の殺戮者を相手に心を奪われてしまうなんて、とても正常な人間の判断だとは思えない。
ましてや、その相手は私を認識すらしていないのだ。
ただ私が一方的に彼を見続けて、いつしか彼を知った気になって、勝手に想いを抱いて、日々焦がれて……。
これが異常でなくてなんだろうか。
でも、それでも、たった1度でいい。
彼に、本当の意味で、彼に、会いたい。
一瞬でいい、彼に私という存在を認めてもらいたい。
後になって思えば、そんなバカみたいなことをバカのひとつ覚えみたいに毎日毎日考え続けていたせいだったのかもしれない。
「んねっ、アッキッラぁ」
「やだなに、ニヤニヤして気持ち悪い」
「ひっど! もー、アキラひどい!」
「はいはい。何か用?」
「あ、そうそう。あのね、私ってばもうすぐ誕生日なのね?
それで、私最近いいなーって思う物があってぇ」
「さぁーて、次の授業は何だったかなーっと」
「もぉぉ! ちゃんと聞いてよぉー!?」
「自分で誕生日プレゼントの催促をしてくる人なんて知ら…………?」
「……は? ……っ消……え……?
そんっ、やだ、嘘でしょ! アキラ!?
なんで! 出てきてよ、ッアキ……………………あれ?
私、なんでわざわざこんな空席に寄ってんだろ。
もー、自分で自分が意味わかんないー」
「…………え?」
気が付けば、赤い村の広場に座り込んでいた。
いや。正しくは、そこかしこに赤い液体による染色が施された、かつては村と呼ばれていた土地の広場、だろうか。
そこは私の全く見知らぬ場所だったけれど、ただ、この風景には見覚えがあった。
それはもう数えきれないくらい何度も……何度も……。
ピュウと風が吹き抜けて、鉄の錆びた様な臭いと、何ともいえぬ生臭さが鼻をつく。
さらに、前後左右どちらを向いても目に飛び込んでくる肉、にく、ニク。
上手く脳が回らずそのまま呆然と座り込んでいると、おそらく右後方の、そう遠くない場所から男のものと思わしき雄たけびが聞こえてきた。
そのあまりの壮絶な響きに、反射的にビクリと身体を跳ねさせる。
……チガウ。
直接耳を震わせるこの断末魔は、涙腺までも刺激するこの強烈な臭いは、地についた手のひらの下の小石の感触は、赤い液体の温度は。
知っていると思っていたはずのそれらとは何もかもが。
……チガ……ウ。
「夢じゃ……ない……」
呟いた途端、寒いわけでもないのに震えが止まらなくなった。
喉が引き攣り、ろくに呼吸もままならない中、必死に己の身体を抱きしめる。
怖かった。何が、とも、どうして、とも分からない。ただ怖かった。
そうしてしばらく動けずにいたのだが、ふとあることに気が付く。
先ほど男の叫びが聞こえた方角、右後方から、何かがゆっくりと近づいてきていた。
自然と体が固まり、息が止まる。
しかし、その何かから、キシキシという金属のすれ合う音にも似た響きが耳に届いた瞬間。
私の肉体は強張ることを忘れたようにスルリと背後を振り返り、唇が勝手に呟きを漏らしていた。
「ヌ……ヴェイ……ラ……ジュー……」
距離にして、約4メートル。
そこに、彼が、いた。
ゆるりと蠢く何対もの触手、ルビーのような4つの眼球、海の中では青色でぬめりのある肉体も、今は村人たちの赤黒い返り血に染まってしまっている。
誰よりも見慣れた彼の姿。
安直なもので、彼の目に私が、私の目に彼が映っているというだけで、数秒前まで夢が唐突に現実となった衝撃により生じていた恐怖が、跡形もなく消えていった。
よくよく見れば、とても珍しい事に彼の無機質な瞳がごく僅かに開かれている。
人間の口から己の名が飛び出たことに心底驚いているのかもしれない。
そんな彼の心情を想像して、場違いにも笑みが零れてしまった。
直後、驚きから立ち直ったのか、いつもの無表情に戻るヌヴェイラジュー。
クリアになった思考で、「あぁ、きっとこのまま彼に殺されてしまうんだな」と理解して、同時にそれもいいかなとも思った。
けれど、その前にたったひとつ。
これだけは伝えたい、と私は静かに空気を震わせる。
「…………愛してる」
……ようやくだ。ようやく、言えた。
終わりの見えない恋心に、狂愛に、ようやく決着をつけることができた。
明確な殺意と共に迫る触手を前に、そっと瞼を閉じる。
すぐ間近に死が迫っているというのに、私の心にはただ解放感だけが広がっていた。
ザザン、ザザンと、海が鳴る。
静かに雄々しく海が鳴る。
そのすぐ傍らで、白く細かな砂たちが風に浚われ空を舞った。
「ここにいたのか」
「……ラズ」
背後からかけられた声に、微笑みながら振り返る。
「帰ろうアキラ。浜は寒い」
「ええ、そうね。帰りましょう」
当然のように伸ばされた触手を手に取り、砂浜を背に寄り添い歩く。
私たちの隠れ住まうこの場所が、行く当てのない者たちの村として大きくなっていくだとか、更に数十年ののち人間とマ・ラゼラ族の唯一の交易都市として発展していくだとか、そんなことは知らない。
夢の彼方は、今ここにある。
私は、ただ彼を愛している。
fin