久之
弘之が悩む日々を送っていた頃、長男の久之夫妻が福岡に引越しをすることを決めた。庄之助の遺産を継いでおきながら彼らは墓を守らず島を出る。
それに田舎暮らしの夫婦がいきなり福岡に出てきたとして何が出来るというのか?
守るべきものを守らず責任を放棄し自分の利益だけを求めるものを軽蔑するがその利益さえ見えないのに責任を放棄するのは無為無策でしかない。庄之助の骨は福岡に持ってくるということで庄之助の一族は完全に島を捨てた。
庄之助が奉公に出されてから四十数年の生涯が終わるまでに築いた財産を久之はほとんど食いつぶしてしまっている。初江の目が届かなくなった久之は怠けだし何かと理由をつけては漁に出ることをサボっていたと初江は松子に愚痴っていた。
初江が福岡に来るときに財産をいくらか現金化したとは子どもたちは訊いているがその額は不明で照之しか知らないらしい。いずれにせよ久之が福岡に来たことによって庄之助の一族は島から縁が切れてしまったのは事実である。
福岡に出てきた久之は田舎にある霊園に庄之助の骨を預けた。庄之助の骨は生前建てた綺麗で荘厳な墓から見ず知らずの土地の狭い空間に閉じ込められた。福岡に新しい墓を作る金がなかったとはいえ庄之助の生前の努力は水泡に帰された。もしこの世に霊がいるのなら庄之助はひどくにじめな想いに臍を噛んでいることだろう。
久之は福岡での生活をするための青写真を語る為と現地から引越の荷物が届くまでの間の棲家とするために後妻である純子と共に弘之の家に数日分の着替えを詰めた鞄を携えてやって来た。
久之の家というのは少々語弊を招く言い方である。
なぜなら久之はみのりと離婚をしておりこの家の家賃を払っているのはみのりであり、彼はみっともなく悦子に捨てられ頼るものなくみのりのもとに帰ってきて仕事もせずに酒と睡眠の生活を送っている情況だ。初江は庄之助と見た目や雰囲気性格の近い弘之を未だに毛嫌いしており、アパート代すら立て替えてくれず、ローンで家を購入し妻と一人娘と幸せに暮らしている照之も居候時代の恩義を果たす事なく妻の反対を理由に弘之を見捨てている。
結局、弘之を助けてくれたのは、裏切り筋の通らない自分勝手な道を選択したことをうちに秘めて弘之を家に向かい入れてくれたみのり一人であった。
久之夫妻が来る日、弘之は二週間ぶりに風呂に入りせんべい布団を干し付け焼刃に体裁を整えた。
「智、久しぶり」
久之は智弘を膝の上に乗せ猫を可愛がるように顎を撫でる。以前島に行ったときと同じ可愛がり方だが智弘が久方ぶりに見る久之の顎髭は白髪が増えて頭の毛は薄くなってる。キャッキャッと久之のくすぐりに身を捩らせる智弘を包むような笑顔を浮かべ、みのりはお盆に熱い緑茶を乗せてきてくすんだ十年以上使っている台の上に置いた。
「義兄さん疲れたでしょう」
みのりはあくまでも離婚の事実を隠し久之に声をかける。
「しばらくお世話になるけん。家は決まっとうけん荷物がが来ればよかとやがね」
「ごゆっくりしてください」
「あんちゃんも姉さんも、疲れたやろう」
弘之は満面の笑みを作り笑いし兄の旅を労う一言をかける。
「弘之、今日は休みとね」
「うん、体調が悪いけんしばらく休ませてもらっとる」
みのりと口裏合わせをした通りに弘之は答えるが虚しさがじっとりと胃を刺激する。
「みのりちゃん。胃薬出してくれんねあとアリナミンも」
弘之の胃は荒れ果てて薬なしでは軽食も喉を通らない。だるく重苦しい身体にいいだろうを青汁や栄養ドリンク、栄養剤を毎日胃に流し込んでいる。それでも依然として身体は言うことを聞いてはくれない。
「おいちゃん。宿題あるけん」と和やかな雰囲気の中で清香は挨拶だけして二階にある子供部屋に上がって行く。
清香は両親の事実を知っていて、この偽物の団欒にいることがいたたまれない。彼女自体、学校で近所の同級生が弘之が引き篭っていることを言いふらされ死ぬほど心に傷を負っている。子どもの残酷さは見たままのこと疑問に思ったことを悪意なく口外しまうことである。
「義兄さん。仕事はあるんね」
「野菜売をしようと思うちょる。トラックは買っとるし」
久之は店舗を持たずに野菜の移動販売をするという。仕入先の市場や農家を確保している。どこでできたコネなのかは知る由もないが島を出ることを長男夫婦は計画していた口ぶりである。弘之は故郷を捨てる久之を侮蔑しているが現状無職の彼は福岡での新生活に希望を持って明るい笑顔を振りまいている久之に冷水を浴びせる言動は控えた。
久之は墓を守ることを条件に遺産を受け継いだはずで家も土地も船もすべて処分して福岡に移り住む。弘之にとっての兄は昔から変わっていない。照之と同種の人間で親父の一顰一笑を伺う男で純粋さを持ち合わせている振りをして腹の底では自己の利のみを求める人間だ。
もし弘之が久之と同じ立場ならば庄之助に畏敬の念を抱いているので船を処分することすらためらうだろう。
「私の知り合いがおるけんね」
美智代が理由を簡潔に一言で述べる。美智代は久之の後妻であり島の外から嫁いできた女性だ。五歳の時に初めて弘之の子たちが島に墓参りに行ったときには美智代は既に嫁いでいたので清香はそれを訊いたときに久之に不信感をもった。子宝に恵まれず離婚したと言うが美智代は久之よりも年上の女性でいまだに子宝には恵まれていない。前妻との離婚の理由は藪の中である。
勝本のおばちゃんが美智代と会話をする時に一刹那厳しい顔をしたことが清香の記憶には鮮明に残っている。
「美智代さんの実家は大分でしたね。福岡にも親戚がおるとですか」
しばらくの雑談の後、みのりはビールと三人分のグラスを持って来て台の上に置き、またキッチンへと戻る。その後姿をソファから振り返って弘之は一瞬見たが、みのりはこちらを一顧だにせずつまみの支度をする。事実を隠しても平然として義兄夫婦に愛嬌を振りまくみのりが女として可愛くない。
夕食が終わり野球のナイトゲームを観て晩酌を三人で楽しんでいた頃、松子が家にやってきた。同居している初江は具合が悪いらしく美智代が心配する言葉を発しても具体的な症状は言わない。松子が来ると智弘は寝なさいとみのりに言われ久之の膝から下りて寝室のある二階へと階段を登る。
これだけ紀ノ川家の人間が揃ったのは庄之助が荼毘にふされて以来。皆が皆、互いに腹に一物を抱えており、意識的に会うことを避けている。わがまま放題に育った照之などは独身時代は夕食をねだりにしょっちゅう弘之の家にお邪魔していたが、結婚すると嫁の尻に敷かれすっかりと家人となり遊びに来なくなっている。
ギクシャクとした時を1時間過ごして松子は初江のことが気にかかると別れの礼をして家路につく。松子はみのりの顔を見るに付け図らずも陽介を思い出す。愛し身体を重ねた人生で最愛の人、でも記憶から消し去り忘れてしまいたい人。ずっと関係が続いている男といまだに籍を入れていないのは陽介の身体の温もりと情愛をまだその皮膚が覚えているから。
深夜まで四人は今後の生活を語り合い用意していたビールが切れたのを合図に眠りに付くことにした。
島からの荷物が着くと弘之一家は荷物を運ぶ手伝いに新しく久之夫婦の住むアパートに車で向かった。川沿いにある築十年以上は建っているであろうくたびれた塗装の平屋のアパートで部屋は2LDK、家の前は何もなく雑草の生えている空き地で駐車場としても花壇としても使われている。特に区切りや目印となるものは無いので他の住人との使用地の境目が曖昧だ。久之夫妻は一番奥の東の部屋に運ばれてきた荷物を家の中に移している。
「遅れとるやないか」
弘之は助手席にすわっているみのりを平手でひっぱたく。酒に溺れてから彼は暴力を振るうボーダーラインが著しく低下している。智之と清香がいようがいまいが自分の気が赴くままにみのりに理不尽に怒りをぶつける。
「遅れたみたいやね」
車を降りた弘之は愛想良く兄に話しかける。
「気にせんで良か。もう一台くるけん」
次の一台の荷物を6人がかりで運ぶと20分かからず家の中に移し終わり、皆で家に入りテレビとエアコンをつけて休息をする。
美智代が麦茶を用意しさあ寛ぐかと思いきや弘之は立ち上がり玄関を出て空き地に留めてある車のエンジンを掛ける。その隣には後部を白いシートで覆ったトラックが止めてあり、これに野菜を積んで久之は野菜売をするつもりという。
「帰るよ」
みのりは麦茶を飲み終わっていない子どもたちに家に戻ると伝える。久之はもっと身体を休めていくことを勧めるがみのりは弘之には絶対に逆らわない。智弘も清香もその母の姿に消化しきれないものを抱えつつ叔父夫婦に挨拶をして玄関を出て行く。
家路につくまで弘之は目の据わった不機嫌な顔をしながら運転をしていた。当然会話なんか交わす空気で無い。
家に着くと弘之は子どもたちに二階に行けと命令する。智弘と清香は母が殴られると経験から想像がつく。智弘はいつかこの父親に復讐するつもりで二皆は行かずに二人の様子を監視してやろうと影から居間の様子を伺うことにした。
―――智弘が明確な殺意を父親に持ったのはこの日からである。弘之は一発目の平手打ちのあとその頬を押さえている上から容赦なく何発も左右の平手打ちをみのりに向かって放ち自分の手が赤くなると足の裏で蹴りたくる。抵抗できずに倒れているみのりに無慈悲に暴力を振るい、そして財布から札を取り出しズボンのポケットにねじ込んで
「こんだけや。金借りてこい」と札を抜き取った財布を投げつけ玄関から出て行った。弘之が去り涙を流してばらばらに散った小銭を掻き集めている母の姿を智弘は今でも忘れることはない。