憂鬱
いつからだろうか感情をなくしていたのは
いつからだろうか女を抱くことができなくなってしまったのは
いつからだろうか自分を嫌いなになってしまったのは
いつからだろうか他人が機械に見えるようになったのは
いつからだろうか生きる意味を見いだせなくなったのは
いつからだろうか人間が怖くなっていったのは
弘之は午前10時に目を覚まし枕元にある五合瓶をラッパ飲みする。二日酔いには向かい酒といえどそれが幾日連続して今日の日が来たのだろうか。トイレと飯以外には布団の中に閉じこもったままで窓と襖を閉め切っている弘之の寝室は酒と人間の汗が強烈に入り交じった異臭を放っている。耳が異常なまでに敏感になり窓にはウレタンで防音をしている。
生真面目に働き続けてきた弘之の精神は崩壊し現実を恐れ酒浸りの屑に落ちぶれていた。庄之助に最も近い気質の劣悪な性質が心に押し殺せずに表に出てきてしまったのか。この数ヶ月の間に弘之を襲った現実が彼の精神の許容量を超えて溢れてしまったのか。弘之は立ち直れない深い傷を抱えている。
みのりは智弘が三歳になると保育園に預け看護師に復帰した。個人病院の小さな内科で看護師がみのりともう一人が居るだけ、先生は勿論一人。福利厚生は良いものではなかったが働くことが生きがいであるみのりには特に苦痛とはならない。また智弘の持病である喘息の薬の特効薬をその先生は調合することができた。しかし彼女が働く理由はもう一つある。独立した弘之が材料費を捻出するための借金をするときには彼女の名義で金策をしていたのだ。自営業主になってから金策の難しさにぶつかっていた弘之の杖になる為に彼女は専業主婦であり続けることができなくなった。
独立――弘之は腕はあったが独立思考ではなかった。社員でいるほうが何かと面倒なことを回避できるし苦手な営業をする必要もない。それなりの信用も掴んでいて指名をうけて現場に行くことがほとんどになっているので精神的には安定して仕事に打ち込むことができる。
そんな弘之に面白くない感情を抱いている人物がいた。先輩であり社長である中村嘉人だ。彼は自分より信頼を勝ち取っている弘之のことがいつのことからか憎らしく煩わしい存在になっていた。たまに現場に立てば中村よりも弘之にアドバイスを求める職人が多く腕自慢の中村は嫉妬ではないが、わだかまりを宿す。理由は社長よりも同じ立場の弘之に話すほうが気が楽であるというだけで職人たちは中村の技術を認めていないわけではない。むしろ、会社経営をしてかつ現場にも顔を出し一緒に汗をかく中村は尊敬の対象とされている。
しかし中村は経営に携わるのを通して自分が根っからの現場の人間であることを以前より強く自負するようになっており会社の職人たちには自分には一線を引かずに遠慮無く教えを乞い、技術を吸収して欲しいと願っていた。
立場の違いによるボタンの掛け違え……後年になり中村は悟り愚かさを悔いたが青年であるその頃は視野が狭かった。軋轢が生じるつつある中で彼は弘之に仕事を回すことを条件に半ば強引に独立をさせて会社から追い出した。
独立してからの弘之は一頓挫をきたし心の安定を得られない日々を過ごした。まず彼は経営とは何かをこれまで考えてこなかったので現場仕事の他に税務など最低限の知識は学ばないといけない。材料を集めるための人脈はあるのだが自営業に銀行はなかなか融資をしてはくれず、結局は看護師として安定した収入のあるみのりに保証してもらうか、みのり自身に金を借りてもらい弘之は紀ノ川建装の運転資金を確保した。中村が仕事を回してくれる間はいいがそれが途切れたときの事を考えると口下手で営業の苦手な弘之は仕事を取ってこれる自信は持ちあわせておらず、仕事が上手く回らないと家族の生活は破綻してしまい首をくくるハメになる。
契約書を交わす際の自分の字の汚ささえ気になって仕事に集中しきれない。弟の照之が大学で建築学を学んで就職をしたことも弘之のコンプレックスを刺激しており、元請けに馬鹿にされてるのではないかと勝手に想像し独りよがりに劣等感に苛まれる。
所詮、弱い人間だったと言えば身も蓋もないが彼の酒の量は日増しに増えていき、それとともに仕事自体に違和感を覚えることが増える。クレームや明らかなミスがあるわけではないが何か違和感があり、それがなにかわからないまま次の仕事に取り掛かりその仕事を完成させても得体にしれない違和感がやはり彼に襲う。
弘之は酒だけでは得体のしれぬ違和感をを処理できず女にも逃げるようになっていった。
智弘が小学校に上がる頃には弘之は悦子の部屋に寝泊まりし家にまともに帰るのは週に一度か二度。
しかも、みのりは弘之の不倫の相手が悦子であることを気づいている、というより悦子自身から気づかされた。疑いを持つ切掛は弘之の不倫を黙認していた当時に遡るが友人である悦子との電話での会話中セクシャルな話題が弘之が不倫を始めてから以前より増えてきた。
いまではセックスフレンドが複数いることやその男たちの性癖を勝ち誇るかの如く電話口で奔放に話す。そのなかで悦子が私の本命だと話す男の性癖が弘之のそれと非常に似通っているうえ智弘が産まれてからセックスレスであるみのりにその本命の男が長男が産まれてから、私としかしてないのよと語る。そして今半同棲なのよねと笑いながらみのりに話す。
復讐。悦子は中学時代の仕返しをしているのだとみのりは感づいた。いまは昔の十代半ばの頃、二人は同じ少年を好きになった。恋に恋する年頃の甘く苦い思い出。少年が選んだのはみのり。美貌の少女であった悦子の屈辱。親友だからこそ負けたくない、親友だからこそ許せない、親友だからこそ忘れえぬ恨み、親友だからこそ味わう絶望、親友だからこそ高まる悪意、親友だからこそ底なしに嫌いになれる。
悦子はみのりの結婚を本人の口から聞いた時、弘之が好みであろうがなかろうがみのりの大事な人という一点のみで彼を誘惑し奪い去りそして捨てることを心に誓った。積年の恨みはらさでおくべきか。
年月は負の感情を熟成させる最も有効なスパイスである。悦子は勝利に酔っている。弘之は悦子の性技に溺れ悦子に骨抜きにされ、みのりとの離婚を真剣に考えている。もしそのまま離婚をすれば弘之をすぐに捨てる。この田舎者は睦言を無垢に信じこんで悦子に心酔している。嘘なのに……すべて嘘なのに、悦子の復讐の演技に弘之は踊らされている。無様なものだ道化師とは。
やがて悦子の狙い通り弘之はみのりに離婚届を書くように申し出た。此頃には弘之は全く仕事をせずに悦子の家に入り浸り毎日悦子の身体を意馬心猿に貪っていた。
『みのりちゃんごめん。初めて好きな人が出来たっちゃん』
離婚届には便箋で教養のかけらもない汚い字で一条添えてあった。
みのりは悦子のことは触れずに黙って判を押し離縁した。残されたのは借金と二人の子ども。
復讐を遂げた悦子はその一月後、弘之を旅行に誘い先に現地に行かせその日のうちにマンションを引き払いパトロンの経営するマンションへと移り住んだ。そして後日、店に会いに来た弘之を面罵し一方的に別れを告げた。




