陽介
太陽が容赦なく地を照らし、恵みの雨はもう何日も降っていない。休みなく働き疲れとストレスが溜まった気の荒い男達の集団の中で今日も弘之は黙々と作業をする。
「紀ノ川、お前春日の現場に行ってくれ。工期が遅れそうや」
兄弟子が怒鳴りつけるように弘之に声をかける。
「はい」
弘之は国産のセダンに乗りその現場に車を飛ばす。他の大工と同様に弘之の車の後部にはひと通りの大工道具を載せてある。現場に着くと元請けの社員が彼を待っていた。
「紀ノ川さん。あなたを指名して仕事を頼んだはずですがどちらにいらっしゃったのです?」
作業はしない作業着姿の男が弘之に問いかける。この一週間はこの現場に足を入れていなかったのはまずいことなのだが、弘之は下請けの社員であるので社長から現場を指定されればそこに行くしか無いので弘之が責められる問題では本来ない。
「すいません。竣工間近の家に手伝いに行っとったんです」
「指名したのにおってもらわんと私が苦情を言われるのですから」
社員の立場とすれば彼の言うことが正論で、弘之の社長のしたことが明白に契約違反で責められるべきことである。しかし、下請けの会社としては契約通りに四角四面に仕事をしていれば会社の保全が保障されるわけではないのでギリギリの許される範囲で融通をきかせる努力をする。
「明日からはここに戻る予定です」
建築の進み具合を判断しながら弘之は当たり障りの無い返答をする。工期からしてまだ余裕はありそうではある。
「わかりました。とにかく工期には間に合わせてください」
「はい」
「私は会社に帰ります」
「お疲れ様です」
元請けの社員が帰って行くと弘之は抑鬱状態になる。自分はあくまで社長の指示でいつもどの現場に入るか決められているのになぜ頭を下げないといけないのか。弘之は庄之助の4人の子どもの中で一番庄之助の気質に近い。真面目で自尊心が高いが心が脆い。被害妄想とまでは言わないが勝手に人の心を想像し勝手に傷ついてしまう。
中学を卒業して彼は庄之助が奉公に出されたのと同様に福岡に大工の見習いとして出された。それまで福岡に行ったことはなく見習い元も親戚の親戚のコネで入ったので親方にとっても何処の馬の骨であった。そこでの扱いは親方は弘之が島に帰ることができず、他の業種に行く技術もないのを心得ているので奴婢とまでは行かないが弟子としては最下層待遇で常に容赦のない罵声を浴び続けた。しかしかえってそのおかげで弘之は建築のノウハウ、繊細な技術を熟知できたので職人技術の養成としては正しかったのだと親方のもとで四年修行し先輩の立ち上げた建設会社に誘われ就職した折に実感できた。
それから六年、下請け専門ではあるが親方のもとに居るよりも給料はかなり良い条件で、それなりの車も手に入れることができ、家も借家ではあるが広い家に住めている。看護師である妻のみのりもいて島にくすぶっているよりは良い生活ができている。何よりも福岡には田舎と違い遊ぶ店が豊富にある。
島にいる当時からもてていた弘之は誘惑の多い福岡に出てから酒と女の快楽を覚えそれに身が逆らえなくなっていっている。
夕方の五時になり、今日は店じまいとばかりに家路につくが彼が居候の住む家で安らぐことはない。みのりと住んでいる家には前の親方の元を辞めた島出身の先輩が住み着いているのだ。
みのりとは結婚四年で長男の智弘が生まれたばかり、性欲もみのりに対しては衰えている。彼が一言、先輩たちに出ていけと一喝出来ればいいいのだけど島の家に悪評を立てられることを弘之は恐れているので放任しており彼らは無職でブラブラとしている。田舎者の厚かましさというか弘之の給料日には小遣いさえせびる連中だ。
みのりは寝室でぼやいているが島の先輩に強く当たれば島の家族の評判が落ちると説得する。母の初江は世間体を気にするので母に服従の弘之は居候たちを黙認するしか無い。
今日もまた家の駐車場に車を止めてから飲み屋へと向かう。
「こんばんは弘之さん」
女が弘之に声を掛ける。
身長は百六十センチ強で、ゆるくウェーブのかかった茶色の長い髪を歩くたびになびかせる。やや釣り上がった気の強そうな目にスーッとした鼻筋、真っ赤な口紅を塗った厚めの唇が色気を溢れ出している。体型の崩れたみのりとは違い細身の身体をしている。
名前は天野悦子。まだ未婚の女性でみのりの中学時代の友人。
彼女は店のオーナーであり、事務から接客まで全てをこなす。出来る女の魅力が弘之を夢中にさせている。パトロンが居るのだろうが、そんな野暮なことは訊かないし彼女の艶っぽさの前では霞む。
弘之は閉店時間までアルコールを身体に染み込ませ心地よい気分で悦子の部屋で彼女を抱く。週に一度の関係が始まってからもうかれこれ二年以上経つ。みのりは浮気には気づいているのだが、相手が自分の友人であるとは気づいていない。子どももいるし居候のことを除けば甲斐性はあるので傷ついているが耐えている。
こんな夫婦生活がいつまでも続く訳は無い、弘之がいつか家庭に帰ってくると言い聞かせて、みのりは精神の平穏を保っている。みのりは自身の兄弟のことがあるのでいまの生活を手放す勇気はない。いつか弘之が家族の事を最優先に考え浮気をやめることをせつに願っている。
小春日和が終わり本格的に冬が訪れてきたある日、庄之助は突然、玄関で倒れた。
脳溢血。医者は思わしくない結果を初江と松子、久之、美智代に伝えた。残念だが死を待つだけの日々を数日送るしかないらしい。本人は意識はないが家族には辛い告知だ。島には入院する施設はあるが何処の家も最期は自分の家で看取るのが習わしで初江も医者に入院を断った。
医者が帰ると初江は真っ先に黒電話のダイヤルを回し次男の弘之と三男の照之に電話をかけ呼び寄せる。庄之助の下の世話は看護師であるみのりにさせるつもりだ。
翌日に弘之とみのりと照之が一緒にやって来た。清香と智弘は勝本の家に預けている。
弘之は自己の都合ばかり押し付ける紀ノ川家の連中を快くは思ってなく、庄之助の蒼い顔を見ても冷たい目をしている。
「お義母さん、お久しぶりです」
「あんた、下の世話せんね」
みのりの挨拶を返すことなく、かねてからの予定通り命令を下す。初江は恋愛結婚ではないし特に理由もないのに関わらず結婚を三年待たされたことを未だに根に持っていて庄之助を愛してはいなかった。表面上は良妻を演じていたが庄之助がこうなったなら何も遠慮する必要はない。下の世話なんかまっぴらである。
「そうさせていただきます」
みのりは丁寧に了承する。初江は施設育ちのみのりを侮蔑の対象にしていて弘之がプロポーズした後にみのりを島に連れて紹介したときに
「どこの馬の骨かわからん女やね」と本人に言い放っている。
その時は三日泊まっていったが使用人扱いを最初から最期まで貫き通し心を融解させることはなかった。子どもを二人産んでいる今もみのりは下の世話をさせるには丁度いいくらいにしか思っていない。
みのりにはみのりでその時、初江に一言も諫言せずに屈辱を強いさせた弘之の姿が脳に焼き付いている。
「母さん。ただいま」
三男の照之が言うと、途端に表情を崩し疲れを労う言葉を掛けるとともに腕を触って痩せていないか確認したり、福岡での生活はどうかと尋ねたりする。
嫉妬……弘之はその二人を庄之助を見るそれ以上の冷たい目で見ている。弘之は中学を卒業してすぐに職人になるために家を追い出された時、初江は弘之に門出を祝う一言さえ送らなかった。しかし、照之は大学に通わせるために福岡に送り出した。
弘之はいま照之を家に下宿させているが内緒にしているつもりでも誰かが照之に小遣いを援助していることは照之の金遣いで容易に判断できる。そしてそんなことをするのは兄弟の中でも最も照之を溺愛している初江しかいない。島にいた当時、勉強もスポーツも弘之は男三人の中で一番優秀で、島に残ることを条件に婿に貰いたいという同級生の親もいたのに捨てるように弘之は家を出された。
兄は家を継ぎ、弟は学歴を与えられるのに弘之には何も与えられない。そうでありながら居候を押し付ける初江が厚かましくて卑しく思え嫌悪感を抱いている。
「みのりさんよくいらしたわね」
初江のみのりに対する態度に同情したのか松子はみのりに礼を言う。
「お久しぶりです。姉さん」
「二月ぶりくらいかね」
「はい」
相変わらず松子は男をひきつける何かを持っている。彼女は時折福岡に来て服や下着アクセサリーなどを買うのでその服装センスは島の住んでいる女の人とは何処か違う。福岡に貸金を営んでいる彼氏がいるらしいが松子は家族にその存在を明確にはしていない。
みのりは軽装に着替え看護師の知識を生かし庄之助の看病を始めるが瞬時に助からないことは分かる。庄之助はまだ五十代前半ではあるがもともと高血圧の気があるのでアルコールの摂取などに注意をして欲しかったものだが、初江がそんな気が利く妻ではないことも分かっている。
せめて他人であるのなら看護師として適当なアドバイスを送り、アルコールの制限などを徹底させることができうるのだが身内であって尚且つ自分のことをどこの馬の骨と初対面で口に出す人間にはアドバイスを訊くわけはないと諦めていた。田舎の人間は享楽的な部分を持つ人が多いので庄之助自身にアドバイスを送っても聞き入れてくれたとも想像できない。
庄之助はみのりを紹介された時、みのりの身の上を聞かされても婚姻することを嫌がる素振りをみせず
「好いとる人なら結婚せんね」とだけ言った。
優しい言葉を掛けるわけではないが庄之助という人間性はその言葉でみのりは理解できた。助からないことは事実だが庄之助の表には出さない優しさに恩返しをしようとまずは身体を丁寧に拭き下着を着替えさせた後、点滴を打つ。父親を知らないみのりが唯一父親孝行をすることが現世で可能なのが庄之助なのだ。
庄之助の汗を拭き、下の世話を厭わずにし、御先祖様に祈りを捧げる。
虚しく庄之助の命の灯火が消えて行くことを自覚しても持っている知識の限りを尽くしせめてもの人事を尽くしたが、二日後、庄之助は帰らね人になった。仕事では幾人もの数えきれない死期を目の前で見る目てきたプロのみのりであっても庄之助の死に涙が頬を伝わせる。
葬儀が終わって、庄之助が生前に用意していた丘の上の緑の茂る墓に骨を納めると皆で手を合わせた。悲しいことなのはそれが庄之助の一族が揃った最後の墓参りとなったことである。
弘之の長男である智弘が3歳になるかならないかの頃、弘之一家は福岡市内に越してきた。照之は大学を卒業し同じ市内にアパートを借りて一人暮らしを始めている。弘之と悦子は住まいが近くなり近頃は店にはよらず直接彼女の家に身体を重ねに行っている。居候の先輩たちはなんとか新しい仕事にありつき、家族だけで住んでいるが五人で暮らしている。一人多いのはみのりの弟の陽介が配管工の見習いとして小倉から福岡にやって来たためである。
初江と松子は居住地を福岡に定め、島から離れて二人で暮らしている。跡継ぎの久之夫婦のみ島に残り烏賊漁で生計を立てている。
「降ろすとね? 産むとね」
初江は松子に決断を促した。
「……降ろすわ」
消え入る声で悩み向いた末の決断を口にする。下を向き眉間に皺を寄せているその顔は本音では産みたいという意志を見ている者に推測させる。
しかし、産まないことを彼女は選択した。
松子は彼となら幸福な時間を共有出来ると信じているから抱かれ、避妊をせずに彼の精液を体内に受け入れた。彼女の頭に描いていた想定と現実の歯車が狂ったのは松子を妊娠させた相手を敵のごとく毛嫌いしている初江の存在であって松子はその男と家庭を築くことを願って、新たな住居を決めてもいた。
「あんた、母親を裏切るとね」
松子に決断をさせる前に初江は思考を制限させ自分の望む返答が松子の口から出させやすいように言った。彼はまだ社会人として自立する一歩手前の人間で松子を心から愛し大事に思って優しく紳士的に扱ってくれているが経済的には脆弱で二人で生活を始めるには初江の金銭的な援助を必要とするのが残念ながら現実だ。弘之の家庭はこれから出費が増えるので経済的な援助を求めるのは気が引けるし、島に残っている久之は財布のひもを美智代に握られている。
好きな人の子を宿したのにその生命を絶つ自分が悪魔に思えて自分の甘さを自分で厳しく残酷に責める。松子はカミソリをもち左の手のひらの生命線の中心を横から切り十字をつくり、ごめんなさいと何度も生命を絶つ者に詫びを入れる。
彼、石川陽介とは清香の誕生日に初めて出会った。女のような奇麗な顔立ちをしていて、物腰も柔らかいががっちりとした体格をしている。
陽介と初めて目が合ったとき、松子の胸は付き合っている彼氏と居る時よりも激しく高鳴り、これまで松子が恋だと信じていたものの概念をすべて否定する衝撃を味わった。『運命の人』、戯曲やドラマでは砂の数ほど使われてきたこの陳腐な表現は一行すれば陳腐な表現ではないと松子はこの経験で知ることができた。
清香の誕生日の後日、松子は陽介に会うために幾度も弘之の家に通い陽介のことを姉や本人から話してもらうと陽介にはまだ特定の異性はいないようで見習いから一人前の職人になれば東京に行くとこが決まっているという。
松子はこれまでの男と違い陽介と居るだけで多幸感を得られる自分に気づき年上の積極さでみのりが夕食の買い物に行き二人きりになった一時に彼に告白をした。
「陽介君。私、君のこと好きになっとるみたい」
ただでさえ大きな目をさらに大きく見開き陽介は松子の目を凝視する。冗談ではないことを瞳が表している。
「松子さん。からかうのはやめてくれんね」
「私の目をきちんと見てくれん?」
松子がそう言うと顔を紅潮させ陽介は目を逸らした。
「どうしたと? 私のこと嫌いやと?」
「嫌いも何も最近出会ったばかりやないですか」
「私は君のこと好きになったとよ。一目惚れって初めてしたと。陽介君は付き合っている女の人おるとかな?」
「いいえ。おらんです」
「いままで女性と付き合ったことあるとかな」
陽介は無言になった。それが一番わかり易いこたえである。
「それならいいやないね」
「松子さんと俺は身内やないね」
「血なんか繋がっとらんやん。他人やろうもん」
ソファに座っている陽介の手は握りこぶしを作り太ももの上に置いてある。そしてその拳がプルプルと震えていのは緊張をしているのと彼にも言いたいことがるからである。
「松子さん」
「なん?」
「実を言うと……俺も松子さんのこと好いとると。でも弘之兄ちゃんの姉さんやけん」
「なんでそげん気を使うと」
「姉ちゃんは初江さんに嫌われとるから。俺と松子さんがなんかあったら姉ちゃんが困るんやなかかと思うちょる。俺は姉ちゃんに感謝しとるけん姉ちゃんが困ることはできんと」
陽介の気持ちを知り松子は素直に嬉しかった。でも後の事を考えればこの時に陽介の杞憂は彼の思いすごしではなく、冷静な判断であったことになる。
「俺が一人前になるまでは姉ちゃんには迷惑をかけられんから誰とも付き合わん」
「陽介君は、なんでそげんみのりさんに気を使うんかね」
「松子さんは俺らが育った環境を知っとるよね。姉ちゃんは俺と弟にとっては母親やけん今やっと弘之さんと結婚して幸せになっとるのにそれを壊すことはできん」
「考えすぎやないね。私と陽介君と付き合ってもみのりさんには迷惑にならんよ」
「俺はまだ居候の身やし、稼ぎもなかけん女の人と付き合う資格はなかとです」
陽介は付き合う意志はないことを松子に遠まわしに伝える為に彼なりに言葉を選び話す。みのりの苦労を目の当たりにしてきた陽介にはみのりの幸せを少しでも壊し切掛を作ることは罪深いことである。「ねえ、なら一人前になったら遠慮せんでいいとよね。私は待つよ」
松子には深い関係の男がいま一人いるが陽介のためには別れるつもりでいたが陽介の気持ちは自分にはあってもそれ以上に彼を抑えつける感情や状況があるのならいま別れる必要はないと考えた。その男とは身体の相性がいいのでこれからはセックスフレンドとして付き合っていくことにする。勿論本人には恋人と錯覚させる立ち居振る舞いをするのは当然として。
「私仕事があるけん」
松子は買い物に出かけているみのりが帰らぬうちに弘之の家を出て行った。
「ふう」と陽介は大きく息を付く。松子が近くに居るだけで彼の陰茎は勃起していた。もし松子から性的なアプローチを受けていたら堪えられたなかっただろう。松子と出会った日から彼は何度か彼女との淫らな行為を想像し右手で陰茎の血流を鎮めている。
「ただいま」
陰茎を鎮め虚しい時間を過ごしていたときにみのりは買い物から帰ってきた。
「松子姉さんは帰ったと?」
「うん」
「元気がなかね。気分が悪いと?」
「姉ちゃん。俺はまだ一人前やなかもんね」
「なんかあったとかね」
気分が悪いというより気分が沈んでいる暗澹たる表情の陽介を見てみのりは心配になる。弟と言えど実際には年の離れたこの陽介をみのりは自分の稼ぎで食べさせてきた。高校には行かせてあげられなかったことは申し訳ないが二人の弟を育てるためにはこの選択しかなかった。
「うん、例えばの話やけどもし俺と松子さんが男女の仲になったら姉ちゃんはどう思うね」
陽介は黙って心の奥に自分の真意を隠すことが辛くこう切り出した。『例えば』が例えでないことはみのりには伝わるが想いを仕舞い込むことは陽介には耐え難く、息苦しく、胸が痛い。
「……もし、あんたが本当に松子姉さんが好きなら。あんたの気持ちの通りに松子さんと接すればよかよ」
「姉ちゃんの立場はどげんなるとね」
「私のことなんか気にせんでよかよ。嫁なのに墓参りもさせてくれんくなっとるもん。庄之助さんはもうおらんとやけん私は義母さんに嫌われ続けるしかないもん」
弟の恋を認めるには悲しい理由でしかない。でもみのりは暗い表情をするわけでもなく恨みを込めているわけでもなく自然とそう口に出した。
「俺、松子さんを好きになってよかとね」
「あんたはあんたの幸せを探したらいいと。それが私への恩返しになるんよ」
陽介はみのりの言葉を額面通りに受け取れない。みのりは常に自分が我慢して耐え忍ぶことを一番目の選択肢として選び弟を育ててきたため卑屈とさえ取られかねないほど自我というものを奥底に抑えつけている。陽介はもうそれが分かる年齢であり陽介の弟の充は非行に走りいまは二人のどちらとも連絡がとれない。だからこそ陽介はみのりに負担をかける行為は自重すべきだと脳では考えるが恋愛感情という摩訶不思議なものにあっさりとあっけなく溺れてしまっている。
「私は弘之さんに会えて良かった。私にとっての弘之さんがあんたにとって松子さんならあんたは自分の心のままに動かんね」
念を押すごとくみのりは陽介に諭した。
「姉ちゃん。ありがとう」
陽介はその一言しか頭に浮かばない。それから一月後、陽介は松子に告白し男と女として出会いを重ね愛しあう仲になった。
陽介の東京行きが決まり二人の情愛が絶頂を迎えているその時に松子の妊娠が発覚した。松子は初江と二人暮らしをしており初江には島に帰ることを勧めている。元はといえば長男である久之は初江の面倒を見るのが長子としての役割でその代わりに財産を引き継いでいるのであるから初江が仕事をしているわけでもないのに島を出て福岡に居る必要性はない。表向きの理由としては子どものいない久之夫婦が子作りをしやすくする為とはしているが島には平屋が二軒あり、元々別居しているのだ。
このころになると福岡に住んでいるということを言い訳にして庄之助の墓参りに毎年行かなくなっていた。
松子の気分が変調をきたした時、自らの経験から妊娠を真っ先に気づいたのは初江で彼女の予想通り産婦人科で松子は妊娠の事実を告げられた。
初江にとって予想外だったのは松子のお腹のこの父親が陽介であったことで烈火のごとく松子を責めたてた。
そして松子に言葉としては自主的に、意志としては初江の意志で子どもを降ろさせ二人を別れさせた。祝福されない子どもを産むことで最も不幸になるのは生まれたきた子どもになることが松子の決断の大きな一因となった。住居も決まって東京での新しい生活を夢見ていた松子はそれ以降、男性を避け今も独身である。一番愛した最後の人として陽介との日々を記憶のアルバムに飾ってある。毎年、寒くなると手のひらの傷が疼くと同時に陽介との日々を思い出す。
その後東京で独り立ちした陽介は資産家の令嬢と出会い恋に落ち五人の子どもをもうけて一家の大黒柱として朝から晩まで嫁の実家の支援を受けずに育てるという婚姻時の約束を守るため働き詰めの毎日を送っている。