庄之助
紀ノ川松之助の次男である紀ノ川庄之助は12の時、当主である松之助の一言で家を出され、網元である今野家に住み込みの網子として奉公し漁を学んでいった。
松之助も漁業を生業とする者ではあるが船と家を継ぐのは長男と決まっているので次男の庄之助は口減らしとして追い出されたのである。
この島は対馬海流のおかげで烏賊が豊富にとれ、家に置いても生活が困窮するほどではないがこの島の伝統というか当時の常識として長男以外は男であれ女であれ奉公に出されるのである。長男であらずんば人にあらずではないが財産も勿論、長子がすべてを相続する。法定の取り分があろうが無かろうが長子以外は財産を継ぐことはできない。
『家』を守る方法としてこの慣習が優れているのだろう。
17の時、庄之助は今野家の当主から船を持つように薦められた。仏道で言えば印可されたということで庄之助は当主から借金をし長子である兄よりも先に一国の主をなったが、庄之助はそれで奢ること無く真面目に漁に励み20の時には山際の土地に平屋の自宅を建て漁師として独立をした。
当時は自動網卷き機が普及しさらに魚群探知機なども開発された時で、腕と漁師の勘の差がそのまま収入の差となる時代の終末期であった。
新築祝いが行われた日、その席で今野家の当主は隣町の分家の娘をその席に同伴させ伴侶にしてはどうかと庄之助に持ちかけてきた。白い肌に長い黒髪の似合うまだ若く美しい女性。何でも半年前まで東京の学校に通っていたという。
庄之助は網元の勧めを断る訳はなく言われたとおりその女性と婚姻することに依存はなかったがそこで思わぬ横槍が入った。
紀ノ川松之助である。
長男は未だに独身であり次男の庄之助が先に嫁をもらうのに反対したのだ。挙句の果てにはその娘を長男の嫁としてくれと今野家に持ちかける。
今野家の当主はこれには困惑する。長男より次男が先に婚儀をするのはこの島の慣習からすればはばかられることであるがその娘の婚儀を持ちかけてきたのは隣町の網元であり今野家の本家筋に当たる家であってあちらを立てればこちらが立たずである。
今野家と紀ノ川家では格が違うが網元があまり横暴に振舞えば紀ノ川家を始めとして他の漁師の家とも関係がこじれる。
時は丁度網元制度が徐々に衰退し各漁師が個人で漁を行うことが増えてきていた時期である。漁業協同組合ができ網元はその力と役割を終えようとする過渡期であった。
今野家の当主は折衷案としてもう一人、独り身の女性を本家に紹介してもらい同時に結婚することで折り合いをつけることにした。
「今野さん、婚儀を持ちかけるなら先にこちらに話しを通してくりゃせんか」
「うむ、そちらの長子が未だ独身であるとは知らなんだ」
「一言言えば済むことじゃろう」
10年前ならこんな口を聞くことはできなかった。紀ノ川家は網元ではあったが網子は次々と別の網元のもと行き、ついには一族しか残されておらず。紀ノ川に奉公に出す家は殆ど居なくなっている。
意外に思われるかもしれないが網元網子という関係は単純な主従というもので成り立っているわけではない。勿論、封建社会のように身分として完全に組み込んである漁村はたくさんある。しかしこの島は元々が前期倭寇の子孫や武家の落人、高貴な方々の都落ちの地であり、それぞれの一族は自尊心を持ち『家』にこだわり、執着、誇りを持っており単純な主従関係を築くことなどできていない。
「すまんの、松之助どん。本家にもう一人おなごを用意してもらうわ」
「家柄は庄之助より上の娘さんにしてもらわんとな」
今野家の当主は苛立ちを隠し松之助の話を聞く。
松之助は漁協では役職が今野家より上であるからだ。今野家は網元としては紀ノ川家より優ってはいるが松之助に手を回された町長はその権限に置いて松之助を漁協の要職に据えた。民主主義の名のもとに与えられた権力の差配に逆らうすべはない。
「そうじゃの、本家によう言うとく」
その日にその娘との婚姻は約束されなかった。
「奇麗な娘さんじゃの。長男に欲しいわ」
「松之助どん。この娘さんは本家が庄之助の奥方にと連れてきた方じゃ勘弁してくんしゃい」
「そなら、本家に言うといてくれワシはこの娘さんを気に入った」
松之助はあくまで長男に嫁がせようという意図を見せる。
「……」
それまでずっと黙っていた庄之助が立ち上がり漁に出かける支度を始めた。
「おい、庄之助。祝の日くらいは休まんか」
「……波の良か日や」
庄之助は父を無視し船に乗り漁へと出て行った。
「今野どん。あいつのどこがよかとじゃ」
「ああいう生真面目なところじゃ。でもはよ嫁さんを貰わんとな」
夜の暗い海を庄之助の城である船が波を掻き分け水平線の中に吸い込まれていく。どこまでこれは続くのだろう、懐中時計がなければ遥か彼方まで行ってしまいそうになる。
30分船を沖に走らせると遠くに船灯が蛍のように暗い闇で光っている。庄之助は自分の経験で探した漁場に網を入れる。
カモメが船の上を何十羽と飛び交い羽をはためかせ機を伺っては一羽、二羽と海に降りる。けたたましい鳴き声をあげるが漁に集中している庄之助には聞こえない。黙々と仕事をこなし今夜は二千杯の烏賊が取れた。彼はそのまま船室で明るくなるまで過ごし漁協に寄る。
「庄之助どん。相変わらずやなあ」
漁協の佐志が声をかけてくる
「あれは?」
庄之助の目には自分よりも多く水揚げしている船が目に入る。
「魚群探知機はすごいわな。これからは経験なんぞなくとも誰でも一流の漁師になるわ」
「……それこの船にも着けれるんか?」
「あんさんの腕なら要らんでないか? 二千も取れれば充分やろう」
「ワシは結婚するんや。もっと頑張らないかん」
「そりゃ、いつかはするんやろうがまだ兄者は独身やろ。乗せてくれんか」
港の陸から渡し板で船に乗り込み佐志は庄之助の船の構造を見てまわる。
「着けることはできそうじゃ」
それから一月後、船には魚群探知機が搭載された。
「庄之助どんは真面目じゃのう」
「ワシには漁しかないけんの」
「奥さんになるおなごは幸せかなあ」
不意に庄之助の顔が赤くなった。この男は寡黙であるが表情にすぐに出る。
「なんや、好いとう人がおるんか?」
「お、お……」
「庄之助さん。お弁当もって来たんよ」
二人が振り向くと白いワンピースを着た美しい女性が自転車で庄之助の元に来る。新築祝いの時今野家の当主が連れて来た女性だ。周りの男達はそのうら若い女性に目が釘付けになる。
「庄之助どん。えらい別嬪さんやなかね」
「……うん」
若い娘は弁当を持ってくる。
「庄之助さん、なんで家に戻らんと? 行ったんやけんね」
「…………」
「はい。これお弁当」
庄之助は女から弁当を黙って受け取り船に乗り込んでいき船のエンジンを掛ける。気の利いた一言さえ言えない。
「帰るん? じゃあ、家に行くよ」
「ありがと」
小さな声で言う。エンジン音で紗雪には声が届かない。
「えっ? 聞こえんよ。大きい声で言ってくれんね」
庄之助は若い娘、今野紗雪の注文聞き入れず船を海に進ませる。
「あん人、いつもあんなん」
不満げな感情を隠すことなく誰にというわけなく言う。
「あいつは昔からああじゃ」
佐志が言うと紗雪は彼の存在に気づきそちらのほうを向く。
「始めまして、今野紗雪と申します」
「おいは佐志篤人と言います」
紗雪は標準語を話せるみたいだ。佐志に挨拶し頭を下げる。
「あん人、私のこと嫌いなんかね」
ハンカチを取り出し汗を拭い、一息ついて庄之助の船を見る。長いまつげに二重の切れ長の目を寂しそうに細める。
「そんなことなかよ」
「なんでわかるん?」
「あいつの船に魚群探知機がついとるのは知っとうね?」
「私、船のことよう知らん」
「烏賊をたくさん取るための機械やけど、あいつ腕凄うてな勘で漁場を見つける天才じゃ千杯は取れる。けどな結婚する言うてその機械を船につけたんよ」
「け、結婚!」
「あんたのことやなかね」
紗雪はハンカチで先程より忙しく汗を拭う。
「あいつが休まず漁に出るんはあんたを幸せにするためや。あいつは石仏やから愛情表現なんぞできん」
「私、帰るけん」
紗雪は早口でそう言い佐志に一礼をしてから、自転車に乗り忙しくペダルを漕ぎ出した。誰が見ても動揺が見て取れ、真っすぐ走れない。周りの若い男達は庄之助が羨ましく、嫉妬する。
――――
「庄之助さん。帰っとる?」
新築の家の玄関で紗雪は声を張るが返事はない。いつもそうだ、家に居ようが居まいが庄之助は返事をしない、だけど佐志の話しを聞いた今日の紗雪は上機嫌で玄関の扉を引く。庄之助はいつも鍵をかけてはいない。
玄関には下駄が二足、サンダルが一足、その中に見慣れない下駄が一つある。
「お邪魔するけんね」
誰か来とるんかねと紗雪が家の中に入っていくとテレビの前でビールを飲みながら横になって寝ている男がいる。
「庄之助さん。返事くらいしてくれんね。おるかおらんかわからんやないの」
「なんや?」
横になっている男が紗雪に振り向くと紗雪はハッとなった。
「あんた誰ね?」
見たことのない男であるがまじまじと見つめていると庄之助に似ているところがあり、年齢はやや年上というくらいであるか。
「わしは一之助いうもんやが」
「あの、庄之助さんのお兄さんですか」
「そうや」
「失礼しました。私、今野紗雪と申します」
「ああ、親父が言うとった今野さんが庄之助に紹介したおなごいうんはあんたね。親父の言うとおり別嬪さんやね。新築祝いに行きゃ良かったわ」
紗雪の身体を舐め回すように何度も見る。そのじっとりとした目に紗雪は嫌悪感を抱くが口にだすことはできない。将来、義兄となるかのしれない人であるのだから。
「庄之助さんはまだ帰っていないのですか」
緊張のためか標準語を使ってしまう。この二人きりの雰囲気は理由は分からないが気分が良いものではない。蝉の鳴き声がいつの間にか止んでいて静けさがいまこの空間を支配している。
「知らん。あんたこのウチによう来るとね」
「三日に一度くらいで来ております」
「そうね、庄之助のどこが良いとや」
庄之助を見下す意識の見える話し方厭わしい。
「何処と言われましても。私は婚約者です」
紗雪は庄之助に惚れているが恥じらいを持ち、またお嬢様であるプライドから自ら恋心を宿しているとは言い出すことは出来ない。しかし、秘めた想いで心はいつもむずかゆく落ち着かない。
「婚約者なら誰でも良いとね。そうや、親父は婚約しとらん言うとったぞ」
新築祝いのあの日、一之助の言うとおり婚約は交わすことはなかったがその日以降に今野家の分家からは特に音沙汰はないので紗雪は婚約を進めていると信じている。今までの慣習として縁談を持ってこられた時点でこの島では婚姻は成立したものである。
「この島の決まりは知ってるでしょう?」
「知っとるよ。けどワシは独身でな長男が独身言うことは庄之助も結婚できん言う事やなかね」
「お兄さんも結婚したら良いではないですか」
「相手がおらんもんでな。なんやったらあんたワシと結婚せんか? 財産はワシが継ぐんやから」
一之助の一言に紗雪は鳥肌がたった。この人なんかとは一緒になりたくはないと理性が反対する。
「これからは漁協の時代や、網元なんぞ消える、あんたはいつまでお嬢さん面出来るんやろうな。議員の白川先生もウチの味方や。いつまでも今野家の時代が続くとおもんなや」
私はこの男とは同じ空気を吸いたくないと紗雪は心底思った。
「失礼しました」
庄之助が戻って来ず、一之助と二人きりで家にいることが紗雪は絶えられず今日は実家に帰ることにした。早くお父様に頼んで今野家の方に、それ以外でもいい一之助の妻を見繕って欲しいと頼むつもりだ。そうしないと紗雪と庄之助は結ばれない。
「顔だけやなく身体も別嬪やな」
紗雪の後ろ姿のスレンダーながら豊満な尻に一之助は欲情した。
「キャッ」
帰ろうとする紗雪の右腕を追いかけてきた一之助が掴んだ。
「何するんですか?」
「標準語言うんか? ええなあ。この島にはそげな言葉使うおなごはおらん」
血走った獣の目をしている。怖くて直視できない。
「やめてください」
紗雪は腕を掴んでいる手を振りほどこうと不規則に腕を押したり引いたり身体をくねらせたり、左右に振ったりするがか弱い彼女の力では抵抗出来ない。さらにもう片方の腕を掴まれ食器棚の横の壁に押し付けられる。
「おんしはまだ生娘かいのう?」
「なっ……」
まだ抵抗を試みるが漁師の男の力は強くどうにもならない。紗雪は不恰好に蹴りを入れる。
「なかなかやんちゃなお嬢さんやないか」
一之助は紗雪の右足を左右の太ももで挟み込む。
「いやー! 庄之助さーん助けて。キャーッ」
身体の自由を奪われ最後の手段として叫んだが、ここは山沿いにある平屋で近くに家はない。誰かにこの声が聞こえることはほぼ絶望的である。
「おとなしくせんか」
一之助は強引に紗雪に接吻をする。
「痛っ」
一之助の唇を紗雪は噛みそこから血が滴る。
「なんしよんか」
紗雪は一之助から平手で二発ぶたれ畳の上に倒れこんだ。すかさず一之助は紗雪に馬乗りになり乱暴にワンピースの胸元を破る。白いワンピースのところどころに血が滴り模様を作る。紗雪の両手首を抑えつけた一之助は紗雪の首にしゃぶりつく
「やめて! それ以上はやめて」
涙を流しても性欲に火のついた男は止まらない。首筋から胸にかけて舌を這わせてくる。屈辱的なくすぐったさが背中を伝う。
「ワシが女にしてやる。大人しゅうしとけばええ」
「いやっ、お兄さんやめて下さい」
「そげん庄之助がよかとや」
またしても一之助は理不尽に紗雪を平手で叩く。
「いや……」
「まだ言うんか」とまた数発ひっぱたく。紗雪は恐怖に身体が動かなくなっていき、一之助がそのまだ誰にも許した事のない身体を貪ってもろくに抵抗ができない。
「諦めたんか? それが正解や」
一之助は破れたワンピースの隙間から遠慮無く手をつっこみ白のブラジャーをたくし上げ、乳房を強く揉みしだき乳頭を口に含む。紗雪は屈辱のあまり感情を無くしてしまい無表情となって一之助のなすがままにされる。この見たくない現実を目で見ることはできず目をつぶると庄之助の無骨な顔が思い浮かんだ。紗雪は心中で謝ることしかできない自分が悔しく情けなくて涙を流す。口に出せば一之助の暴力が彼女を襲うことになるだろう。
「最初から親父の言うとおりにワシの嫁になればいいんや」
そう言い一之助は男として最低の行為を行った。事後、紗雪が初めての証を淀んだ目で拭っていると庄之助が玄関から入ってきた。
(庄之助さん。どうして早う帰ってきてくれんかったと)一之助とのことは庄之助には言えない。一之助もそれを分かっているから最低の行為を行った。
「お帰り。庄之助さんお兄さんが来とるよ」
出来る限り明るく振舞う。
「ただいま」
「おいお前この娘さんと結婚するとや」
一之助は何事もなかったかのように普通に庄之助に話し掛ける。どこまで図太い神経をしているのかと人間性を疑う。
「……知らん」と庄之助は答える。あのことがなければいつもの庄之助らしいと紗雪は思えるがあのことがあってこの言葉を聞くと物悲しくなる。一之助はビールをちびちびと飲みニヤついている。
「庄之助さん。たまには答えんね!」
紗雪は初めて庄之助に気持ちを問うた。
「知らん」
この時、紗雪はふと頭に浮かんだことがある。もしかして庄之助は自分が犯されたことを見てしまったのではないのかと。平屋の家の南側の窓は網戸はしてあるもののいつも半分あけている、今そこから外を見てみると停泊している庄之助の船が見える。紗雪は暴力の恐怖によって身体が動かず抵抗出来ない状態であったが、その場面だけを切り取れば同意のもと身体を許したと勘違いを擦る可能性がある。
しかしそれを聞くともし一之助に処女を無理やり奪われたことを知らなかったときに庄之助の精神に紗雪は入りづらくなるだろう。紗雪は自分ではどうしようもなく「私、もう帰るけん」と玄関を出て帰って行った。
それから三ヶ月後、一之助と紗雪は婚姻した。仲人は町長の中島氏、この男は松之助の同級生であり今野家にこの結婚について何やら絡んできたという。
そして庄之助はその三年後に結婚をした。相手は今野家からの紹介であったが兄と同時に挙式を上げることを拒み相手の東初江を三年待たせた。