紀ノ川
四季というものは日本にとって様々な恩恵をもたらすものであってまた苦行をもたらすものである。春になれば桜を愛でて、夏になれば浴衣に縁日、秋には紅葉を楽しみ、冬には雪が降り幻想的な銀世界を創りだす。
桜が散ることに自らに命を重ね、祭りのあとの静けさに寂しさを感じ、紅葉に冬の近づきを意識して、雪が溶けることに春の訪れを喜ぶ。
人生とは四季を幾度身体に刻み込むということが出来るものであるか?
紀ノ川智弘はそう考えている。彼は長寿を望んではいない、むしろ安らかなる早期の死を願う男である。
人間は愚かで卑しくてこの世に必要のないもの、そうは頭の中で考えていても口に出すほど世間知らずではないが四季を身体に刻めば刻むほど虚無感が彼を支配する。
智弘がルーツである島に初めて行ったのは五歳の時である。その時は母親の身元引受人である勝本のおばちゃんと姉の清香と一緒だった。
『身元引受人』……彼の母は中学時代までを福岡県にある施設で育った。それから母は看護学校に入学し准看護師となって今働いている。実のところいまでも母と勝本のおばちゃんの関係を詳しく智弘は知らない、母の昔話によれば育児放棄をしたとはいえ母の母、智弘にとってはおばあちゃんは母が施設に入所している当時は生きていたという。だからそのおばあちゃんの身内ではないのかとは推測している。それならなぜ父方の墓参りに来たのかというと疑問であるが父方の人間に都合がつかなかったのだろうか。
勝本のおばちゃんは父方の人間には智弘は思えなかった。根拠というか証拠というか確信するための情報は持ち合わせていないが父方の親戚と勝本のおばちゃんは余所余所しく身内とは考えられないのだ。
飛行機に乗り窓際の席で雲と海と小さな島を眺めているといつの間にか島の空港に着く。ロビーには父方の初江おばあちゃんと叔父の久之、叔母の美智代が車で空港まで来て待っていてくれていた。久之は子供のいないこともあって智弘や清香のことを可愛がってくれる。とりわけ智弘が可愛くてたまらないようで家に着くと胡座をかいてその上に智弘を乗せ顎を撫でる。智弘も初対面の久之にすぐ懐いた。
次の日、智弘は初めて庄之助おじいちゃんの墓にお参りに行く事になった。六人が一台の車に乗り丘の麓の駐車場まで行き、そこから墓のある丘の上まで皆で歩いてく。よく言えば風光明媚、悪く言えば田舎の風景。丘の上から見る島は木が生い茂り緑豊かで海の上では鳥が自由を謳歌し軽快に鳴き声を上げる。足元を見れば名前の知らない鮮やかな色花がの草を掻き分け太陽に向かってその小さな花弁を自己主張する。
庄之助の墓に着くと大人4人は墓の周りを綺麗に掃いたり菊や団子を供えたり墓石に水をかけたり弔う準備をする。
智弘と清香は勝手がわからずウロウロし周りの墓などを眺めるしかすることがない。他の墓に比べて庄之助の墓は綺麗だった。
手を皆で合わせ沈黙のひとときが終わると大人四人は二言、三言交わし久之は智弘の手を握ってくる。なんで勝本のおばちゃん嫌そうな顔するんかな? そう思うが智弘は訊くことができない。
「智ちゃん。帰るんよ」
「うん」
初めての墓参りをした次の日、三人は船で福岡に帰った。
二回目にその島に行ったのは智弘が小学三年生、清香が小学六年生の時であった。
今度は勝本がおらず二人きりで飛行機に乗りその島へと向かった。迎えてくれたのは以前と同じ三人だったが智弘は久之しか覚えていなかった。
五人が家につく。家は山際にあり平屋で二軒並んで建っている。初めて来たとき見ていたはずだが記憶には残っていない。その二建の家の海から左側の家に久之、初江、美智代は入っていき続いて智弘と清香がお邪魔しますと入っていく。
「いらっしゃい」
久之にも美智代似てない妙な色気のある赤い服を着た女の人が中で待っていた。美智代や初江と違い化粧を薄くしてある。
「松子おばちゃんに会うのは初めてかいね」
おばあちゃんが訊いてくる。
「うん」と智弘は答えた。前に来たときには会った覚えがない。
「姉ちゃん知っとる?」
「うん知っとるよ。勝本のおばちゃんちであったよ。智ちゃんはおらんかったもんね」
清香は勝本のおばちゃんの家によく通っていた。何でも戦争のビデオを持っているとのことでそれをよく観ていたと後年なんでもない会話の時に訊いた。智弘はそのビデオを一度も観ていない。
「暑かったやろう」
声も色っぽい松子おばちゃんは智弘と清香に麦茶を入れてくれた。二人ともゴクゴクと勢い良く麦茶を飲む。
「もう一杯飲むね」
松子おばちゃんはそう言いコップに麦茶を注いでくれる。松子おばちゃんの首もとはいい匂いがする。久之や美智代と違って都会的振る舞いをする人だ。
「じゃあ、あたし帰るけん」
二杯目の麦茶を注ぎ終えると松子おばちゃんは帰っていった。
「お父さんとどっちが年上やと」
智弘が久之に訊くと彼の父である弘之の姉であることを久之は教えてくれる。妹と言われても信じてしまうほど松子おばちゃんは若々しい。
「オイちゃんテレビ観たい」
喉の渇きがいえた智弘が言うと久之はテレビをつけてくれた。美智代と初江は台所で魚や烏賊をさばいている。前にお土産としてくれた烏賊の一夜干しは美味しかったのはよく覚えている。智弘の家のテレビと違ってチャンネルを変えるためにはスイッチを回さなければならない。適当にスイッチを回しても砂嵐ばかりでたまに映る、チャンネルは三つしかない。
智弘はねずみのアニメでチャンネルを止める。
「これなん?」
「トッポジージョ知らんとね」
「初めて見る」
「そうね。智に似とうやないね」
智弘はお調子者ですぐに乗せられ
「トッポジージョだよー」と声真似をした。
「似とう、似とう」
皆が笑ってくれるものだから何度かこのモノマネを続けた。それはやがてお約束みたいなものとなり福岡に帰ってからも久之から電話がかかるとこのモノマネを電話越しにしていた。
夕刻になると久之は漁船を出す準備を始める。この家には船が漁船の他にもう一艇ある。買い物を行く時に使用するもので家は山際の辺境にあるので陸路で車を使うよりも船で町の近くの堤防にボートを留めた方が油代を含め便利であるのだ。
「今日は調子が良かみたい」
エンジン音を聞いた久之は満足そうに言う。船は木製で何十年かは使ってそうな貫禄はあるがところどころ塗装がはげている。
「オイちゃん、何捕ると?」
「烏賊捕るとよ」
初めて家に来たときの夕食に烏賊を使った料理が数多く会ったことを智弘は記憶に呼び起こした。海から見て右側の家の前にある10メートルほどの砂浜には卵を細長くしたみたいなライトがいくつも繋がれて転がっている。
「オイちゃん、連れてって」
「智には危ない。いまなら船には乗せてやるばい」
久之は渡し板を船から石積で出来ている岸に渡す。長さは8メートルくらいで太さは1メートル弱。船のヘリに引っ掛ける部分と岸に渡す部分には木が打ち込んでいるが表の部分は足をかける仕掛けや補助はない。智之は怖くて船に乗ることをためらった。
「怖いとか智」
「うん」
久之は点検作業を中断して岸に戻り智弘をだっこして船に乗せてくれた。
「オイちゃんこのまま行ったらいかんと?」
「智にはまだ早い」
我儘を聞いてくれる久之が即座に駄目だと告げた。子どもの智弘は漁の危険さを理解していないし、そこで万が一の事態に遭遇すれば久之の責任になる。漁師として生きてきている久之にすれば海の怖さを軽視するわけにはいかない。
「なんで?」
智弘が訊くと困った顔をする。連れていけるものなら久之も智弘を連れて漁に出たいという気持ちは持っている。
「オイちゃんのお仕事の邪魔になるけんよ」
智弘の背中から初江の声が届いた。智弘は初対面からおばあちゃんが苦手で自分に対して冷たい目を向けていることに気づいていた。智弘の母親である純子には智弘のことを『要らない子』と生まれてすぐに言っている。智弘本人には何も言わないが嫌いであるということが言葉のイントネーションの端々に出る。智弘は初江の言葉を素直に聞き入れ退屈を紛らわせる遊びで石を拾い海に投げる横手投げで平らな石を投げて何回水面を跳ねるか挑戦する。
地平線の下から三分位は夕焼け赤く染まりそれより上は青かった空が暗闇に包まれようとしているそのなかで久之は地平線に向かい船に海を走らせ漁に行った。
翌日に松子を含めた6人で庄之助の墓参りに向かった。以前はきつかった丘もいまは楽に登ることができる。過去を美化していただけかもしれないが丘の上の墓地は輝きを失っている。生い茂り緑の絨毯の様相を醸し出していた名もなき雑草は所どことにぽつりぽつりとだけ茂っており、野生の花もわずかに咲いてはいるが心なしか色がくすんでいる。
「智、晴れとったら向こうに島が見えるんよ」
久之は言うが島らしきものは見えない。
「また晴れとうときに来よう」
そう言われても智弘は興味が沸かなかった。廃れきった自然を見て虚しさを感じるだけだ。しかし一つだけ救いなのは庄之助の墓は相変わらず綺麗だったことだ。周りの墓と比べて一番綺麗で智弘は誇らしい。『紀ノ川家の墓』はっきりと読み取れる字で書いてある。
智弘とは裏腹に久之、美智子、松子、初江にとってはこれは喜ばしいことではない。この島では、というよりどこでも先祖代々の墓を一族は受け継いでいくものである。単純に言えば古くて汚らしく風化している墓の方が伝統的とみなされるのだ。
庄之助が死ぬ前に彼はこの墓を建てていた。そして遺言として自分の遺骨はこの墓に納めると書き残した。先祖代々の墓を否定した彼に本家の人間は無礼なことであると激怒したが庄之助は弁護士に依頼をしこの遺言の正当性を説明させ新しい墓に望みどおりに納まった。
おかげでいまは本家とは疎遠になっている。なぜ一族から村八分になると知っていながら庄之助がこのようなことをしたのかは初江でも知らない。
墓参りをしたその後二日泊まって智弘と清香は福岡へ帰っていった。
そしてそれ以来二度とルーツであるこの島に行くことはなかった。




