♪、8 名前①
これからどんどんありえない展開に転んでいきますが、どうか批判はなしの方向でお願いします。
夢なら永遠に醒めないで欲しい、と、確かに私は初めて、心の底から誰かに願ったかもしれない。
けど。
窓からきらきらと朝日が降り注ぎ、その朝日の眩しさで眼裏を刺激され、仕方なく嫌々ゆっくりと瞼を押し上げれば、まず最初に、ここ一ヶ月間もの間にすっかり見慣れた、薄いモスグリーン色の天井が目に入ってきた。
私に与えられている病室は個室で、基本的にモスグリーンと、水色、それからオレンジ色で統一されている。
天井はもちろんのこと、壁紙やカーテンも薄いモスグリーン色で、コップや洗面具は水色、パジャマや差し入れの本のブックカバーや花は、少しでも私の気分が明るくなるようにと、全てオレンジ色系統の暖色。
これらの身の回りを整えてくれたのは、紘人さん(お世話になってるから、これからは『さん』づけにする。)と、看護師の二人。
何回か眼が慣れるまで瞬きを繰り返し、枕の上で首を右に向け、目覚まし時計で時間を確認しようとした時、私の眼に飛び込んできた光景に、私は一瞬、ここが病院である事を忘れた。
私が見たものは、智の寝顔だった。
しかも髪は乱れ、寝ている時でも色気を無意識に放っている。
ここで言っておきたいのは、私と智は新婚旅行さえ行っていない仮初の夫婦だったという事。
(何か、寝ている時も色気があるって・・・、)
寝起き、しかも今は病身の身である私には、衝撃的すぎて、そして、心臓に悪くて、目の毒にも等しいものだった。
そのせいで、目覚めたばかりだというのに、心拍が上がり、暫く何も出来なかった。
出来たのは、穴が出来るんではないかと思われるほど、その寝顔を見つめ、隅々観察する事だけ。
そうして、心ゆくまで観察した私は、寝乱れていた智の髪を直そうとして、初めて自分の手が、大きな智の手に、包み込むように握られている事に気付き、面映ゆくなった。
智の手は、意外にも小さな傷や火傷の痕があり、とても社長として君臨している人の手とは思えなかった。
そこで思い出したのは、私が入社した時の社長が、綾橋のお義父様だったという事。
(私、貴方の事、何も知らないのね・・・。)
改めて、私達は何の努力もしていなかった事を思い知らされた。
そうして考え込んでいる間にも、時間は刻まれている。
眠りが浅いのか、智は私が少し身動きしただけで、鋭くも魅力的な瞳を開いた。
(写真でも撮っておけば良かった・・・。)
ついつい、唇を尖らせてしまったのは、そんな良からぬ事を考えていたから。別に不機嫌だった訳ではない。
ただもう少し智の眠りが深く、手元にカメラがあったら、と、思っていただけ。
智は、そんな私の不貞腐れた顔がお気に召さなかったのか、私の手を離したかと思いきや、ベットの柵を外し、枕と頭の間に腕を入れ、覆い被さるように私の唇を、自分の唇で塞いできた。
何度も言うが、今は寝起きで、しかも本来は清々しい筈の朝である・・・。
ここ最近は梅雨空だった空も、今日は久しぶりの青空が広がっているというのに。
智は私がどこか冷静だったのを、感知したのだろう。
徐々に深く執拗になってくるキスに、私はすぐに酸欠状態に陥り、掴まれていなかった左手で智の背中を何度もバシバシと強く叩き、それで解放してもらえた。
唇が離れた時、智が自分の唇を舐めたのを見た瞬間、猛烈に恥ずかしかった。
顔から火が出るんではないかと、本気で思ったし、顔が熱かった。
それを誤魔化すため、私は身体をベットの上に起こし、何度か深呼吸を繰り返し、本音混じりに呟いた。
「・・・・・、殺されるかと思った。」
目覚めておそらく一時間もしない内に、今度こそ死神に永遠に目を醒ませない世界へと、連れて行かれるのではないかと思った。
それは嫌だ。
いくらなんでもそれは嫌すぎるし、早すぎる。
ブチブチ文句を並び立てていた私を見ながら、智はさっきまで自分が座っていたパイプ椅子に座り直すと、足を自然に組んだ。
そして。
「何か言う事はないか?吉乃。」
真っ平らに近い胸元を撫でながら、羞恥心や、その他の感情を整理していた私は、智のその言葉の意味が理解できなかった。
少し考えてから、そう言えばと、思い出した。
忘れてはいたが、これでも智は古くは公家の流れを汲む、名家の跡取り息子。
世が世なら、貴族である。
なので挨拶や礼儀には、殊の外煩いし、厳しい。
さて、ここで私はなんと返した方が良いのだろう。
(呼び捨ては不味いわよね。かといって、今更、智さん、なんて呼べないし、夫婦でもなかったんし・・・。そうか!!)
「おはようございます、綾橋社長」
これが正解だろうと、胸を張って答えた私に、智は「違う」と、小さく返した。
何が違うのだろう。
智は何が言いたいのだろう。
(なんなの?違うって何?)
モヤモヤしていた私の注意を惹くように、智は私の顎を長い指で拘束し、正面を向かせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「心配したんだぞ、なんで本当の事を言わなかった・・・。俺だけじゃない、利依も、親父も、母さんも、みんな・・・。」
そっと顎を解放され、智の手はそのまま私の髪を撫で、額にかかる髪をかき上げ、そこに小さなキスが落ちてきた。
それはまるで、小さな子に、親が宥めるような優しいものだった。
事情により、一端区切ります。




