♪、87 義理の息子と②
昨日の続き。
「お久しぶりです、お義父さん。」
そう言って私に頭を下げたのは、愛娘の伴侶の地位を取り戻した、私の義理の息子の智君だった。その智君の服装を見れば、彼は一目で仕立の良いそれと判るスーツを、違和感無く着ていた。
「妻からメールがあったと連絡があったので、挨拶だけでもと思いまして。」
穏やかで、温かな愛情を秘めた瞳で私を見る彼は、以前は感じられた孤独や暗さは、全くと言って良いほど、感じられなくなっていた。きっと、娘と上手くいっているのだろう。私は自然と安堵の息を吐いた。
「良く来たね。時間は大丈夫なのかい?」
「えぇ。今から帰宅するところです。実は昨夜は会社で泊ってしまって・・・。妻には、吉乃には怒られてしまいました。」
「それは大変だ。急いで帰ってあげなさい。」
私がそう言って帰る様に促せば、彼は困りきったような笑みを浮かべ、私に頼みがあると言ってきた。それに快く応じ、話を聞いてやれば、私に一緒に家に来て欲しいと言う。吉乃はいないが、話があるので是非とも時間が欲しいと言う。
(香也乃・・・、夫婦とは本当に似るんだね。)
私と最愛の彼女ではついには成し得なかった夫婦の形。
「もちろん良いとも。吉乃はあれから元気にしていたかな?」
断る理由もなかった私は、家政婦に出かける旨を告げ、彼の乗ってきた車に進められるがまま、乗り込んだ。車は運転手が運転するらしく、彼は当然の様に、その車を運転する運転手に車を出すように言うと、パソコンを開いた。
「すみません。少し良いですか?あと少しで終わるんです。これを今日中に終わらせれば、なんとか連休が貰えそうなので・・・。」
「忙しいんだろうね。吉乃は君の服の袖を引っ張ったりはしないかい?」
「引っ張りはしないんですが・・・、俺の背中に背中を合わせて寝ますね。あぁ、たまに膝を勝手に枕にして寝たりもします。猫みたいに・・・。」
愛おしそうに娘の事を語る彼は、とても幸せそうだった。そしてそれを見ていた私が不意に思い出したのは、私の最愛の彼女が良く口にしていた、ある詩の一文だった。
――Si je tombe dans l'amour avec vous
彼ならば知っているだろうか・・・。不甲斐ない事に、私は医学以外の事に関しては全くと言って良い程詳しくはない。
「Si je tombe dans l'amour avec vous、」
「お義父さんはメアリーアンの詩を読まれるんですか?」
「メアリーアン?」
私が思いだし、口にした詩の一文を聞いただけで、智君はすぐにそれが詩の一文だと判ったらしい。私のその驚きに、彼は面映ゆそうに笑みを浮かべた。
「18世紀時代の女流詩人です。主にご自分の主人との事を綴った詩文で知られています。」
流石だと思った。それでいて、彼がそれを知っているのが不思議だった。だから私は彼に直接素直に聞いてみた。すると彼は、恥ずかしげにも答えてくれた。
「指輪に刻む言葉を捜していて、その本を偶然見つけたんです・・・。終わりました。」
タンっと、ノートパソコンのキーボードを弾いた彼は、打ち込んだ情報が確かに保存されたのを確認すると、パソコンの電源を落した。
それを待っていたかのように、車はある家の前で静にピタリと止まった。