♪、86 義理の息子と
建川視点
その手紙が私の手元に届いたのは、帰国した翌日だった。
流れるような繊細でいて流麗な柔らかい字体は、明かにその手紙の差出人が女性であると言う事を表していた。大方、手術の依頼か何かだろうと思っていた私は、何の躊躇いもなく家族がいる目の前でその手紙を開封し、目を通した瞬間、声を上げそうになっていた。
そこで漸く手紙の送り主を確認してみれば、『綾橋 吉乃』と、綺麗に書かれていた。
手紙の内容は、もし私が帰国しているのなら、直接会って報告したい事があるので、なんとか時間を作っては貰えないだろうか。と言う、何とも控え目な我が侭なものだった。
私は一も二も無く、すぐにスケジュールを手帳で調べると、連絡先と明記されてあるアドレスにメールを送った。家族は私のその様子からして、いつもの患者だと認識したらしかった。それでも、常ならば何も言わない娘が、不満げに言葉を漏らした。
「どうしてパパは結真の事構ってくれないの?パパは結真の事、嫌いなの?」
嫌いか、だと?
その娘の言葉に、私は冷笑を浮かべた。私は今の家族に愛情すら嫌悪感すら抱けないのに、何処でどうしたら嫌いになどなれるのだろうか。私が家族に抱けるモノがあるとしたのなら、それは『完全なる無関心』だけだ。
私の浮かべたその冷笑に、娘の瞳が涙に濡れるが、それを見てさえ、私の心は山の様に動かない。むしろ逆に。
「泣けば何でも手に入るとでも思っていたのか・・・?」
「パ、パパ?」
「お前は幾つになった。もう言葉が上手く喋れない乳幼児ではないだろう。」
「・・・っ、」
「お前は本当に母親にそっくりだよ。」
呆れるほどにそっくりな母娘に、私は渇いた笑いしか漏れなかった。
彼女達は私が何も知らないとでも思っているのだろうか。だとしたら、私も随分安く見られたものだ。
「貴美子、離婚したいのならいつでも私はそれに応じよう。君は私より優しい男が好きなのだろう?」
「よ、芳寛さん?」
「気安く私の名前を口にしないでくれるか?もう充分だろう?」
使いたいだけ金を使わせ、密会にも目を瞑り続けてきた。あれが欲しい、これが欲しいと言えば、言われた様に、望まれた通りにその物を与えてきた。
もう子守はウンザリだ。
「この家も土地も君にやろう。だが、私の生命保険や貯金の類は、君達には遺さないし、渡す気もない。」
所詮、愛情の一欠けらもない、偽りに満ちた家族でしかなかったのだから。
スケジュール帳をパタリと閉じ、出かける支度をする。もう離婚は決まったも同然なのだから、新しい家を捜さなければならない。
どうせなら愛しいあの子の近くが良い。荷物は少ないから引っ越しはすぐに終わるだろう。
と、そこまで考えを巡らせていた時、来客を知らせるインターフォンが鳴り、一瞬の後、それに反応した家政婦が応対する為、リビングから出て行った。そして、その数秒後、家政婦は困惑しきった表情でリビングに戻って来ると、私に来客だと告げた。
「若い男性なんですが、以前、その方の奥様がお世話になったからと、」
その家政婦の言葉にもあまり耳をかさず、私は来客が待っていると言う玄関に行き、そこで背筋をしっかりと伸ばし、私を待っていた男性を認めた瞬間、そこで初めて帰国してから柔らかな微笑みを浮かべた。
「お久しぶりです。お義父さん。」
そう言って、私にきっちりと頭を下げたのは、あの子の選んだ、唯一の伴侶の智君だった。