♪、7 零れた本音と、温もり
(今日で、入院してから一ヶ月。)
もう、世間では真夏を迎えるべく、梅雨入りしていて、日本独特の蒸し暑い気候に晒され、それでもこの初夏を楽しんでいる。
(だけど、私は。)
この白くも狭き、快適な牢獄に、望んで収まっている。
病院側には頼み込んで、面会謝絶にしてもらっているから、お見舞いに来る人達はいない。
いや、入院している事さえ、誰も知らないし、私も知らせてはいない。
私が入院している事を知っているのは、病院側の先生と、どんな因果があるのか、智の従弟であり、私が個人的に雇った弁護士の咲田 紘一、28歳だけ。
彼は優秀で、依頼人が私であるという事を知ると、すぐに動いてくれた。
そんな彼のおかげで、私の退職手続きは、彼を通して迅速に全てやり遂げられ、受理された。
それで、今の私に残されているのは、『菜々宮 吉乃』という名前と、性質の悪い病と、少ないと言えない預貯金だけ。
もし、生き長らえる事が出来るのなら、お金の使い道はたくさんあるだろう。けど、死ぬのなら、残したい相手がいる。
受け取って貰えるかは分からないけど、受け取って欲しいと思うのは、私の我儘だろうか。
(虫が良すぎるかしら、ね?)
ふ、と、微かな衣擦れの音に、そんな事を考えつつ、夢と現の間を気持ち良く彷徨っていた私は、目を開いて、そこにいるはずのない人達の姿を見て、驚いた。
(どうして、いるの?)
「吉乃さんっ!!」
驚きつつも、生きる気力も、努力する心も失った私を見て、ギュッと、勢いよく、すっかり痩せ細り、女としての魅力のなくなった私の身体に抱きついてきたのは、あのお馴染みの店の【club・シークエンス】の冬子ちゃんだった。
その冬子ちゃんを呆れつつも、温かく見守っているのは、彼女と結婚したクラブのオーナー。
冬子ちゃんのいつもと変わらぬ態度と雰囲気に、驚きと戸惑いに揺れていた私は、再び「吉乃さんっ」と、呼ばれた事で、漸くこれが現実なのだと受け入れられた。
「吉乃さんはなんで私達がって、思ってるんでしょ。答えは簡単。私のお姉ちゃんが吉乃さんの担当ナースだからだよ。」
私の担当ナースは、主に二人。
女性は神向 紗千さん、男性は高江 槇さん。
二人とも、とても私に親身に接してくれている。
それで冬子ちゃんのお姉ちゃんが、私の担当ナースだというのなら、神向さんしかいない。
「神向さんが?」
私の質問に冬子ちゃんは頷いた。
だけど、冬子ちゃんは神向さんと全く似ていない。
「似てないと思ってるんでしょ。当たり前だよ。私は親父の愛人の子供だし。」
冬子ちゃんは疑問に思って当然。とばかりに、私の疑問をザックリと解決し、私の身体を解放し、表情を改めた。
その冬子ちゃんのいつもと違う雰囲気に、私は嫌な予感がした。
(やめて、お願いだから、やめて。そっとしておいて。)
--やっと全部、諦められると思ったのに。
そして、その私の嫌な予想は的中した。
「吉乃さん、なんで何も言ってくれなかったんですか?そんなに私達の事、信頼できないんですか?はっきり言うと、時々、吉乃さんといると虚しかったんですよね、まるで私達が存在してないように無視されて」
--ドクリッ・・・。
心臓が、強く、脈を打ち始める。
(やめて、それ以上、言わないで。)
私の願いは天に通じる事無く、冬子ちゃんはペラペラと話し続ける。
「知ってます?そーゆーの、独り善がりって、ゆーんですよ?あ、あとは自己陶酔とか。とにかく、自分だけが不幸だと決めつけて、自分が作り上げたその架空の世界で、それに酔っちゃうんです」
冬子ちゃんの言葉が痛かった。
冬子ちゃんの言葉は、否応なく私の心の扉を蹴り、殴りつけてくる。
現実から目を逸らすな。
きちんと立ち向かえ。と。
けれど人は、時としてそれを酷く厭う。
そして、私の心の番人は、扉を抉じ開けようとした無頼者を、凍てついた態度と口調で追い払う事を選んだ。
(何も知らないお前に、何が判る!!)
心を、耳を、感じ得る全ての感覚を閉ざし、抵抗する。
「何か言ったらどーですか?」
冬子ちゃんの目には、憤りの炎が爛々と宿っていて、私を強い眼差しで貫いていた。
本気で心配してくれているのが判るのに、それが逆に嫌で、憎くて、私の口から零れるのは、鬱屈した拒絶の言葉だけだった。
「誰が、心配してくれだなんて、言いました?」
自分でも、よくここまで怖い声が出せるな、と思うくらいの、嗄れた、低く冷たい声は、冬子ちゃんの言葉の前には無力にも等しかった。
その証拠に、冬子ちゃんは鼻笑いを漏らすなり、激しい口火を切った。
「は?心配?笑わせんな。アタシはアンタなんかの心配なんざしねーよ。アタシは姉ちゃんを困らせてるアンタがムカつくんだよ。」
普段なら気付く、冬子ちゃんの口調の変化に、私は気付けなかった。
そこまで、私は攻め込まれ、心の余裕がなかった。
私はあからさまな冬子ちゃんの挑発に、まんまと嵌められていた。
目の前で、でかい態度で椅子に座り、挑発してくる人が憎くて、妬ましくて仕方がない。
「・・・ったら、だったら早く帰ればいいじゃない!!こんな、もうすぐ死ぬかもしれない私なんか放っておいて!!」
(そうよ、私は誰も来て欲しくなかった!!)
私の言葉に、冬子ちゃんのキレイに整えられた眉が、ピクリ、と、微かに動いたことも私は見逃した。
「誰も私なんか死んだって、悲しまないわ!!」
「え・・・?死ぬって、どういう事・・・?」
判ってるくせに、と、私は哂った。
「白々しい。神向さんから聞いたんでしょ?私が進行性の胃癌に侵されてるかもしれないって!!余命も宣告されて、一年位しかないって」
私の激しい剣幕に、わらわらと人が集まってくる。
その中には、加賀見先生もいた。
「なにも知らない癖に、私がどんな思いでいたか解る!?」
脳裏に走馬灯のように駆けていくのは、女として、そして妻としての屈辱に満ちた耐え難い日々の数々。
心を空にして、愛さないように自分自身に暗示を掛け続け、騙しながら生活してきた日々。
「目の前でキスされた事はある?ないわよね?ない人には判らない感情でしょうね。いつかは、いつかは私を見てくれるんじゃないかって、私だけを選んで、見てくれるんじゃないかって。何度も何度も期待しては裏切られてっ・・・。」
ゲホっ、ゲホっ、と、咳をした瞬間、口の中に広がった鉄の味に、私は愕然とした。
ガクガクと、小刻みに震えだした自分の身体に、私は発狂しそうになった。
自分で吐いた血が、信じられない。
(怖い、コワイ、こわい。)
「吉乃さん・・・?」
すっかり困惑した様子の冬子ちゃんが、私の背中を擦ろうとした。だけど、私はそれを拒んだ。
「なんで私なのよ!!なんでこんなに苦しいのよ!!死にたくないのに、本当は愛してる好きだって言いたいのに、私だけだって言って欲しいのに、どうして私なのよ!!」
どうにもならないもどかしさから、錯乱しかけた私は、ついに、言ってはならない言葉を口にしてしまった。
「疲れた・・・、もう、死にたい。こんなに辛いのは耐えられない・・・。もう、何もかもが、嫌・・・。」
それは生きる事を諦めた事を意味する、負の感情、負の言葉。
(死ねば、楽になれる?)
出来る事ならば、元気になって、全てをやり直したい。
けど。
クスクスと、暗く、歪んだ笑い方をする私は、もう尋常な人間には見えなかっただろう。
実際、私には誰も近付こうとはしなかった。
冬子ちゃんでさえ、私に声をかけるのを躊躇っていた。
そう・・・。
たった一人、あの人を除いては・・・。
ギュッと、いきなり抱きしめられた私は、暫く自分の身に何が起きたのか、理解出来なかった。
理解できたのは、抱きしめてくれた人の、声、香り、そして、何よりも求めていた愛しいヒトの温もりが伝わってきてから。
(うそ・・・、うそ・・・っ)
「吉乃・・・、もう我慢しなくて良い。もう、全部判ったから。だからそんなに悲しそうに、全て諦めたように泣くな。・・・、俺がいるから。」
――守るから。
と、穏やかに言われた言葉。
抱きしめられ、感じた温もりは、私が諦めていた人のもの。
「吉乃・・・?」
(どうしよう・・・。嬉しい・・・。)
あまりにも嬉しくて、信じられなくて、夢じゃないか確かめたいのに、私の身体は智から中々離れなかった。
ついさっきまで死にたいと願っていたのに、なんて幸せなのだろう。
(夢なら、覚めないで・・・。)
そう願い、思った瞬間、私は猛烈な眠気に襲われ、智に抱きついていた腕から、力が抜けた。
「吉乃・・・?吉乃!!」
智の悲痛な顔が見える。
(あぁ、そんな顔しないで?疲れて、少し寝るだけだから。)
ゆっくりと沈んでいく意識の中、私は、かろうじて微笑んだ。
「智・・・、大好きっ・・・。」
これが限界だった。
グラッと、頭から倒れた私は、智の心配をよそに、それから三日三晩、昏々と眠り続けた。
その間見た夢は、最高に幸せで、涙が枯れるほど嬉しいモノだった。
次回に続く。