♪、6 別れた姉の真実
今回は利依さん視点です。
私、綾橋 利依、27歳。
私には少し年の離れた兄さんがいる。
その兄さんの様子が、最近どこかおかしい。
急に実家に帰ってきたかと思えば、新築して3年しか経ってないマイホームを売ったり、(これはお父様が内々に買い取った。)得意でもないお酒に手を出してみたり。
そして一番おかしいのは、あの義姉さんを手放した事。
あらゆる手段や伝手を駆使して結婚したのに、どうして離婚したのだろう。
兄さんは義姉さんが浮気して、別れて欲しいと言われたから、別れてやったと言っているけど。
だけどね?
(そんな事、信じられる訳ないでしょ!?)
確かに兄さんは無愛想で誤解されやすい人だけど、本当はとても繊細で孤独で、誰よりも脆い人。
小さな頃から宗一兄さんと常に比べられ、綾橋の帝王学を叩き込まれ、完璧を求められてきた兄さん。
そんな兄さんに近づいてくる人達は、みんな綾橋の財産と名前、兄さんの容姿だけが目的だった。
兄さんもそれを知っていたから、ある時期から女性とは付き合いはしても、結婚だけは絶対しようとしなかった。
その兄さんが3年前、日本に帰国して少したった頃、初めて私達家族に結婚しても良いと、一人の女性の写真を見せてくれた。
泣き黒子が印象的な、大人しく、儚く、穏やかに微笑む可愛い女性だった。
それが今回浮気して、兄さんの所から去っていった義姉さん、菜々宮 吉乃さん。
義姉さんは私より一つ年下だったけど、兄さんを良く支えてくれていた。
お父様やお母様さえ知らない、食の好みも完全に把握していた。
兄さんも義姉さんを本当に愛してた。
兄さんと義姉さんは、私の理想の夫婦像だった。
(なのに、どうして?どうしてなの?義姉さん。)
兄さんが急に家に帰ってきた日、兄さんは離婚届を手に持っていた。
そしてその夜、私達家族は驚きのあまり、氷の様に固まってしまった。
あの、何が起きようとも決して表情を崩さない、見せない兄さん、一部の人達からは冷酷とさえ言われている兄さんが、肩を震わせ、涙を流し、私達家族の前で泣いたのだから。
(義姉さん、どうしてなの?兄さんのどこが悪かったの?)
兄さんの事で、これ程驚いたのは、この時が初めてだった。
兄さんの初恋は、間違いなく義姉さんである、吉乃さん。
兄さんは、その初恋の相手である義姉さんから離婚届を突き付けられた。
(辛いわよね・・・、これは。泣くしかないかも。)
でも、驚くのはまだ早かった。
兄さんも変な所で人が良いのか、単純なのか、夢見がちなのか、籍も入れてなかったと、これまた爆弾発言をしてくれた。
兄さん曰く、
『本当に信頼してもらえ、許して貰えたら、籍を入れるつもりだった』
(兄さん、今時、そんな人何処にもいないから!!)
その日から、兄さんの感情や表情から「笑顔」や、「微笑み」、「喜び」は消え、昔の蝋人形みたいな、冷たい、温もりの欠片も感じられない兄さんになってしまった。
*
私がその日、その病院にいたのは、不眠症になってしまった兄さんの為に、仕事で忙しい兄さんに頼まれ、代わりに眠剤を貰いに来ていたからだった。
だけど、私はその日の偶然を、後になって深く感謝した。
(どんだけ待たせんのよ!!予約時間過ぎちゃってるじゃない!!)
苛々と診察室の待合室で待っていた私の耳に入ってきたのは、ここには居るはずのない人の声と名前。
「菜々宮さん、本当にご家族には連絡できないんですか?これは貴女の命にかかわる重要な事なんですよ?」
「………、良いんです。私には家族なんていませんから。」
「菜々宮さんっ!!」
(ウソ、でしょ?どうして義姉さんが・・・?)
兄さんは義姉さんが浮気して、出って行ったといっていた。
なのに、どうしてここにその『義姉さん』がいて、声がするのだろう。
私が何も出来ないでいる間にも、義姉さんの苦しそうな声は響いていた。
(義姉さんが消えて、兄さんと別れて今日で二週間。)
「もう、放っておいて下さい。私の命は私のだけのもの。私が死んだって、誰も悲しんだりしないわ!!」
廊下にまで良く響く声は、どんなに願っても、間違いなく義姉さんの、弱々しく、悲しい色が混ざり合ったものだった。
「まただわ。」
「えぇ。でも、あの子も可哀想な子ね。よりによって進行性の癌だなんて・・・。」
--もう、手術も手遅れなんですって。
勝手な事を言わないで欲しかった。
(義姉さんも義姉さんよ!!)
ヒソヒソと囁き合う他の人達の言葉が、何よりも義姉さんの言葉が、私の胸を深く抉り、斬りつけ、傷付けた。
(迷ってる暇なんて、迷う必要なんて、ないわ。)
私は兄さんの眠剤も受け取らず、急いで家へ帰った。
今ならまだ間に合うかもしれない。
それは根拠も理由もない、ただの勘だった。
けれど、私はその勘を、不思議と外れる事がないと、確信していた。