♪、65 明かされる、過去①
ついに乱入者が判明。
しくしくと、静かでいて上品な嗚咽に、私の閉ざされていた意識が急浮上するのが、客観的に見て取れた。
その嗚咽の持ち主は、私が瞼を億劫気に押し上げると、ますますその瞳から大きな涙の粒を流して、声を震わせた。
でも一度向けられた狂気が、何かの罠だと、私を注意深くさせる。
この人も、結局はあの人達と同じなのだと。
そんな疑心暗鬼に駆られた私を見て、その人は小さく『ごめんなさい』と、呟いた。
それはとてもとても申し訳なさそうに。
でも。
「口先だけで、謝ってもらいたくなんてありません、綾橋の奥様?」
私に何の恨みがあって、何の根拠があって・・・。
あぁ、そう言えば根拠なんて最初からなかったんだ・・・。
おかしいわね、判ってたはずでしょ?吉乃。
所詮私の味方は自分しかいないって。
私が黒い感情に半ば支配されかけた時、そこから救い出すように、智がソファーから優しく起こしてくれた。
「大丈夫だ。母さんには、いや、これからは誰からにも決して吉乃には手出しさせないから。」
「・・・、人は簡単に裏切るわ・・・。ひろ君もそうだったもの」
智の言葉に頼もしく思いながらも、暗い過去を引きづる私に、智は苦笑した。
そして、ひろ君か、と、小さく呟いたかと思えば。
「そのひろ君も事情があったんだろう。今度、紘人にでも聞いてみろ。きっと苦虫を数百匹は噛みしめた顔で教えてくれるだろうさ。」
私がそれに?マークを浮かべているのにも構わず、智は私を自分の膝に抱えあげたまま、実に愉快そうに可笑しげに笑った。
ひとしきり笑った後、智は綾橋の奥様、つまり自分の母親に鋭い眼差しを向けた。
「俺達は当分あの家には帰らない。俺は俺の道を進む。アイツの、宗一の代わりになるつもりはもうない。
それを認めてくれないのなら、俺は綾橋の家を出て、綾橋の性を棄てる。」
「さ、智、」
「もうウンザリなんだよ。昼も夜も関係なく、会社と従業員の事だけ考える生活は。俺に自由は無いのか?俺にはプライベートは無いのか?」
まるでこれまでの鬱憤を晴らすかの様な言葉の羅列に、私はおろか、綾橋の奥様も茫然としていた。
「これまでは吉乃との生活を守るため、吉乃に良い生活を送らせる為だと、好きでも無い女の誘いを受けて、情報を聞き出して、それを利用して・・・。その度どんなに俺が死にたくなったか、きっと母さん達には判らないだろう。判っていれば、吉乃は今より苦しまずに済んでいたはずだ。」
ギュウーッと強められた腕の力に、私は少し苦しさを感じたけれど、それに対して文句を言う事は出来なかった。
きっと、今の智は、今の私以上にとても辛くて苦しいだろうから。
「知らなかった、気付かなかったでは済まされないんだよ。知らないというのは、時として罪であり、最大の禁忌だ。それを許される存在は、この世には存在していない。無知は罪なんだよ。母さん。」
抱きしめられていなければ、きっと気付けなかっただろう智の身体の震え。
智は今、自分をも責め、断罪している。
その苦しみから救いだせるのは多分、私ではなく、きっと智自身。
他人から許された、と思いたいのは、弱い自分から逃げる為。
本当に強い人は、人にそれを求めない。
それを解っていながら出来ない私は、智より弱くて、意気地がないから。
虚勢を張るのは、そうしなければ生きていけないから。
強がるのは、そうしなければ膝をついて泣き叫び、底のない沼にハマり、動けなくなるから。
「今は会社に復帰することも考えたくもないし、考えられない。けど、いつかは・・・、」
私を見るその瞳は、何処か迷うように揺れていた。
けど、私が意識的に微笑めば。
「いつかは戻れればいいと思ってる。その時は俺を俺として、『宗一』としてではなく『智』として受け入れてくれたら嬉しい。」
強い覚悟が汲み取れる言葉に、私は彼なら大丈夫だと思った。
そして、そんな智の次の言葉に、私は驚きを通り越し、頭が真っ白になっていた。
「宗一の遺した万菜は、――俺の唯一無二の姪は、吉乃が許してくれさえすれば、俺が引き取る。万季といたら万菜は壊れる。」
万菜ちゃんが、智の姪・・・?
ああ、それにしても、宗一って誰?
いきなりの急展開に、私はついていけなくて、考えられなくて、思わず音をあげ、無意識に言葉を漏らしていた。
その時の智の顔は、一生忘れられない。
続く・・・。