♪、5 離婚届
色々変ってると思いますが、大筋は変わりませんので、変でしたら、こっそり(あくまで、優しくお願いします。)教えてください。
初めて智と逢った時、私は智の虞となり、同時に強い恋心を抱いたのだと、今なら素直に思える。
だからこそ、私は心に何重にも鍵を掛けた。
決して傷付かないように、期待しないように、と。
けれど、その心の鍵は既にボロボロに錆び、限界を迎え、朽ち果てる寸前だった。
ならば、残された道は、選ぶ道は一つしかなかった。
したくもない決断を、私は「あの人の為に」、と、下して、逃げた。
テーブルには、温かいご飯と、あの人が好きそうな料理。
好きそう、というのは、この三年間、ろくに会話すらしていなかったから、好きな食べ物や好みが判らないから。
同じ家に暮らしながら、会話らしい会話は殆どしなかった。
(これで夫婦だなんて・・・。)
それも今日で終わりだと思えば、少し寂しい。
その為に、今日は会社側に無理を言って休み、一日を掛けて私物をまとめ上げ、私が住んでいた痕跡を綺麗に消した。
最後の仕上げに、私は少しだけ化粧をして、あの人を出迎える。
「お帰りなさい、智さん。」
出来る限りの笑顔を浮かべ、仕事から帰ってきたあの人を、智を迎えた。
おそらく結婚式以来の微笑みで、私は智を見上げていたのだろう。
「お仕事お疲れさまでした」
普段とは異なる私の態度に、智はじっくりと観察し、まるで壊れ物を扱うかのように抱きしめてくれた。
存在を確かめつつ、そして、決して離さないという意識が伝わってくるような、温かい抱擁。
その抱擁は、私が病気を知る前だったのなら、素直に受け入れられていた。
でも、もう私は知ってしまった。
(もう、過去には戻れない・・・。)
愚かにも、勝手に抱き返そうと動き出していた手を、ギリギリのところで抑え、智の肩にかけ、やんわりと突き放す。
「吉乃・・・?」
ここで疑問を持たない人間なんて、誰もいない。
智だって気付いてる。
それでも私は辞めない。
「ねぇ、智さん。私の事、少しだけでも愛してくれてる?」
(私は、狡い。)
憎んでくれてもいい。
いや、憎んでほしい。
解っていても、どうしてもこの手を使わずにはいられなかった私を。
(ごめんね、貴方は最初から優しかったのに。最初から最後まで・・・。)
身体を重ねなかったのは、私が初夜の日にフラッシュバックを起こして拒否したり、体調が優れなかったから。
それを私達の中に愛がないと勝手に決め付け、すり替えたのは他ならぬ私。
「智さん、離婚して下さい。」
この言葉は、私から貴方への、最初で最後の愛の言葉。
「愛してるなら、私と別れて下さい・・・。」
心の奥底では、別れたくないと泣き叫んではいるけど。
これは貴方の、智の為だから。
「私、好きな人ができたんです。お腹に、その人との子供もいます。彼となら、私、幸せになれるような気がするんです。」
極上ともいえる微笑みを、必死に作って、浮かべた。
その必死な一世一代の演技は見破られることも無く、相手を確実に傷付けた。
どれだけ時間が経った頃だろうか。
智が出した答えは、私を驚かせ、そして安堵もさせ、少しだけ狼狽させた。
「吉乃、別れるも何も、俺達は最初から夫婦でもない。だから勝手にしろ。」
(今、何て言ったの?最初から夫婦じゃなかった?)
「お前と夫婦だった事など一日たりともない。目障りだ。さっさと出て行け。」
苛烈な怒りと言葉。
その言葉が、声が、私を徐々に支配し、そして、最後に私の表情を完全に支配した。
心とは正反対の、とても穏やかで、幸せを掴んだような微笑みと口調で、私は別れの言葉を口にした。
「今日まで一緒にいて下さり、ありがとうございました。いつまでもお元気で。幸せになって下さい。」
頭を下げ、スタスタと寝室に荷物を取りに行き、一応、記入済みの離婚届をダイニングテーブルに置き、私は智に真実も行き先も告げずに、家を出た。
外は雨が降っていたけれど、それは今になって溢れ出した涙を隠すには、都合が良かった。
まるで、お風呂の浴槽が引っくり返されたカのような、激しい雨に打たれながら歩き、私が辿り着いた場所は、つい先日、運び込まれたばかりの罹りつけの病院だった。
緊急搬送口兼入り口に、びしょ濡れ姿で現れた私を見つけるなり、その場に偶然居合わせた看護師さんは、私の傍まで走ってきた。
「菜々宮さん?こんな時間にどうされたんですか?」
(驚くのも、無理ないわよね・・・。)
ただでさえ、診察時間は過ぎているというのに、更に私は大きな鞄を持っている。
「まさか、入院しに来たの・・・?」
信じられない、と、その声は感情を伝えていた。
私はその言葉を肯定するようにゆっくりと頷き、決意を込めた、しっかりとした声で返事をした。
「よろしくお願いします。もう、身体中が痛くて、我慢できないんです。」
大切なものは全て捨ててきた。
だから私はもう、何も怖くない・・・。
一端、区切ります。
次回、短いかもです。