♪、3 宣告
泣くだけ泣いて、そのせいで腫れてしまった瞼。
こうして泣いている間にも、運命の時は静に迫っていた。
泣いている間、無意識の内に歩き回っていたせいか、私に宛がわれた病室までは、随分と距離があった。
ふらふらと病室まで歩いていた私は、寒気を覚えて立ち止まった。
と、その時。
「菜々宮さん、丁度良かった。少し良いですか?」
「どうしたんですか?加賀見先生。」
私を呼び止めたのは、私の担当医の加賀見先生だった。
その加賀見先生に、いつになく真剣な瞳で見つめられ、嫌な予感がした。
「ここじゃ、ちょっと・・・。」
案の定、加賀見先生は私の顔を見て、気まずげに顔を歪め、逸らした。
(いや、いやよ・・・。)
ついていけば、嫌な事を告げられる。
頭では分かっているのに、足が勝手に動く。
加賀見先生はまだ若いながらも、名医として有名で、彼の手に掛かれば、どんな患者も明るくなると。
だけどそんな加賀見先生でも、時には残酷な宣言をしなければならない時だってある。
それがたまたま。
そう、偶然だっただけ。
その残酷な宣告を受ける患者が、私だったと言うだけ。
加賀見先生に連れて来られた所は、小さな誰もいない部屋だった。
備え付けのソファーに座る様に促され座った私に、加賀見先生は憐みの籠った瞳と口調で話し始めた。
「悪かったね。でも、菜々宮さんは家族には知られたくなかっただろうから。」
これから話す事は、全部菜々宮さんの為だからね?
微笑んでいたつもりだったのかも知れない。
だけど、先生は涙を流していた。
「菜々宮さんは、俺が今まで診てきた患者さんの中で、一番強くてか弱い女性でね。それは精神面だけじゃなくて、身体の方もそうだった。」
先生が淹れてくれたホットココアの湯気が、私を慰めるかのように優しく揺れる。
「菜々宮さん、正直に言うと、このままでは君には妊娠は無理だ。妊娠しても子供は胎内で充分に育たないし、それ以前に妊娠する確率は、今は限りなく0%に近い。」
「・・・・・・。」
(う・・・そ・・・、よ・・・。そんなのウソ。)
「例え不妊治療をしたとしても、君の身体はもたない。」
口では待って、と、言っている筈だった。
だけど、実際はガタガタと震えているだけだった。
(聴きたくない、聴きたくない!!)
恐怖で震えているのに、それでも加賀見先生は、神様は、情け容赦がなかった。
「菜々宮さん、君はスキルス胃癌の可能性があるそうだ。もしそうなれば、余命はもって一年、早くて半年だ。」
スキルス胃癌・・・。
それはとてつもなく進行の早い、救いようのない死に直結する様な病。
嘘だと、夢だと叫びたかったし、言って欲しかった。
だけど両目から溢れ出す熱い涙が、現実だと私に知らしめる。
「治療は出来る限り手を尽くすけど、この手の病を克服する事はまず難しい。一度、精密検査をしてみないと・・・。」
加賀見先生の声は聞こえなかった。
「・・・っ、先生っ、時間を・・・っ、考える時間を、私に下さい・・・。」
やっとの事で絞り出した声は、絶望の色に染まっていた。
それほどまで、私は追い込まれていた。
(我ながら、なんて醜いのかしら・・・。)
死にたくないと思うのはどうしてだろう。
その時、私の頭に浮かんだのは、あの人の顔だった。
(どうして・・・。)
それを否定したくて、認めたくなくて、そして泣きたくなくて、私はその人の顔を頭から追い払う様に、頭を左右に振り、ソファーから立ちあがった。
「先生、この事は、絶対に何がなんでも、誰にも言わないでおいて下さい。」
「菜々宮さん、もしかして、君は、旦那さんと・・・。」
この人はなんて聡いのだろう。
「えぇ。別れるつもりですから・・・。綾橋には他言無用にお願いします。」
つくづく、私は幸せに縁がないらしい。
加賀見先生は私の暗い笑みを見て、本当に無念そうに、ギュッと目を閉じた。
私が時間が欲しいと言ったのは、未練を断ち切る為であり、心の整理をする為。
「先生?私はね、菜々宮の人間でもないんですよ・・・?アノ人達は、私が気付いてないと思ってるんです。」
バカみたいでしょ?
スッと、立ち上がった私が、家族の話をした理由を悟ると、先生は更に悲壮な表情を浮かべ、「解った」とただ一言だけ呟き、そのまま黙り込んだ。
少しだけ出歩くだけだった筈が、思わぬ話のせいで、私は夕方になるまで小部屋でぼんやりしていた。
余命を宣告され、家族の話をした後、直ぐに立ち去るつもりだったから、私はずっと立ち尽くしたままだったけど、加賀見先生は、回診に行ったのか、既にいなくなっていた。
どのくらいの間そうしていただろう。
コンコン、と、響くノックの音に、私は小部屋の時計を見て驚いた。
時刻は18時を過ぎ、夕食の時間だった。
「菜々宮さん、夕飯の時間ですよ?。」
ノックの主は、綺麗で健康そうな看護師だった。
「すみません、今すぐ戻ります。」
「そうなさって下さい。ご家族の方が心配なさってますよ?」
(家族・・・?)
家族って誰の事?
あぁ、そうか。
看護師の言葉に、フフフと、暗い笑みを漏らした私は、心配して捜しに来てくれた看護師を促し、一緒に部屋へと戻り、偽りの笑顔を浮かべた。
病室にいたのは、想像していた通りの人達だった。
血の一滴の繋がっていない姉に、偽りの両親。そして、姉の優しい旦那様。
(そう言えばこの人は、区役所に勤めていたような・・・。)
「なに?吉乃ちゃん。僕の顔に何かついてる?それとも好きになっちゃった?」
私が顔を黙って見ていた事に何を思ったのか、姉の旦那はふざけた様な事を言った。
いつもならその程度の冗談は、笑いながら流していたけど、今日はダメだった。
今日は疎ましく、そして腹立たしい。
「寝言は寝てからにして下さい。貴方は菜々宮家の婿なんですよ。それを自覚してらっしゃるんですか?」
一度決壊した思いは止まらない。
自分でもらしくないと思いつつ、辛辣な言葉を止める事は出来なかった。
「帰って。二度と姿を見せないで。あなた達の顔を見るだけで、おかしくなるのよ!!今日限りで縁を切って!!」
奇しくも、それは初めてあの人達に対する反抗だった。
看護師を証人にして、夕飯のお盆を激情のままひっくり返し、酷い人格を見せつけた私は、布団を被って丸くなった。
暗闇は私を守ってくれる。
家族から伝わってくるのは、憤りと苛立ち、そして、表向きの感情である戸惑いだけ。
看護師は加賀見先生から私の事情を聴いていたのだろう。
ひっくり返された食事を片付けながら、事務的な口調でアノ人達に帰る様に促した。
「お引き取り下さい。これ以上興奮させられるとこちらが困りますので。」
「私達は家族なんですよ!?」
--ドクリッ・・・。
心臓が嫌な言葉を聴き、悲鳴を上げる。
(助けて・・・、助けて--。)
「お引き取り下さい!!警備員を呼びますよ。」
恐怖で怯えていたその時、力強い牽制の声が響いた。
その力強い声は、私を必死に守ろうといるのか、決して揺るがなかった。
幸い、私の病室は個室だった為、他の人達に迷惑をかける事はなかった。
看護師とアノ人達の互いに譲らぬ問答は、私の担当医の加賀見先生の登場によって、あっけなく終わりを迎えた。
加賀見先生は、布団を被っている私の頭を優しく撫で、静に微笑む気配がした。
「お嬢さんは明日には退院なさいます。そうですね、吉乃さん。」
その言葉には幾つもの含みがあった事は、その時は、私と加賀見先生、そして、その場にいた看護師にしか解らなかった。