♪、38 新しい職場②
更新。
「すーちゃん、次はなに?」
園児達に求められるまま、チューリップや、小犬のワルツを弾き終わった私に、そう言葉を掛けたのは、私が今勤めている【ひなた保育所】の中で、一番若い女の子、――椎名 すばるちゃん、19歳、保育士として勉強中――の腕の中で、キラキラと団栗の様な大きな瞳を輝かせている女の子だった。
そしてその女の子は、何の因果なのか、あの女の娘である万菜ちゃんだった。
最初に万菜ちゃんをここで見た時、私は目に見えるはずのない存在である神様や先祖を恨んだ。
どれだけ私を虐め、傷めつけ、悲しませ、苦しめれば気が済むのかと。
けど、そんな私をそんなジレンマと苦しみから救ってくれたのは、他でもない、万菜ちゃん本人だった。
万菜ちゃんは私を見上げるなり、頭を下げて謝った。
今でもその時の事は、克明に覚えている。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ママが・・・、ママが・・・。』
大人の視線を恐れているかのように、萎縮しながらも、それでも繰り返し謝り、頭を下げる彼女に、私は過去の自分を見た様な気がした。
――叩かれるんじゃないか、縛られるんじゃないのか、食事が貰えないんじゃないないか・・・。
それは虐待を受けている子からしか感じられず、持っていない、特有の雰囲気だった。
その空気を感じ取ってしまった瞬間、私は自分で自分が恥ずかしくなった。
(この子は悪くないのに・・・。)
そう思えてしまえれば、私は視線を合わせ、よろしくね、と、優しく微笑む事が出来た。
万菜ちゃんは万菜ちゃんで、その日からは私の事を『すーちゃん』と呼び、慕ってくれている。
因みに、ここの保育所では、先生達は愛称で呼ばれていて、私は好きな花が<すみれ>だと、園児達の前で自己紹介したら、それならと一斉に『すみれ先生だね』と言われ、名付けてくれた。
園児達の保護者にも、私は『平 すみれ』と、今では認識されていて、本名だと思われている。
それはきっと、先生達の言動にも原因があると思う。
何しろ。
「すみれ先生、万菜ちゃんのお帰りの支度をお願いします。」
次は何を弾こうかと考えている所に、そう言って、ひょっこりと姿を現したのは、優しい雰囲気と笑窪が特徴で、少しぽっちゃりしている小西先生だった。
私はその小西先生の言葉に思わず、苦笑いを漏らしてしまった。
「また私ですか?小西先生」
「だって、すばるちゃんは学生だし、あっ君は今忙しいし、私はあの人苦手だから。」
「だったら、」
「あ、えいちゃんは赤ちゃん達のお世話で忙しいし、所長は来客中だから無理。」
先手を奪われ、がっくりと肩を落とす暇もなく、私はすばるちゃんの腕の中にいる万菜ちゃんに声を掛け、次に、他の子達にも声を掛けた。
「今日はこれでおしまい。あとはこにっちゃん先生に本を読んで貰ってね」
背に背負った赤ちゃんを気にしつつ、万菜ちゃんの手を引き、【せんせいたちのおへや】と書かれた事務室に行き、今日の分のお便りと記入済みの連絡帳を持ち、万菜ちゃんの鞄と上着のある部屋に行き、身支度を整えさせ、万菜ちゃんを迎えに来たと言う人の前に立った。
「お迎えありがとうございます。」
「――、お嬢様はどうでしたか・・・?」
「今日もとてもいい子でしたよ。ご飯もたくさん食べて、体重も標準に近づいてきました。」
「そうですか・・・。」
いつもいつも、この時ばかりは油断がならない。
何故なら万菜ちゃんを毎回送り迎えしている人は、私の元婚家の人達で、特に今私の目の前にいて、背筋をピシッと伸ばし、立っている男性は、お義父様と智からの信頼が厚い使用人の長でもある執事の川幡 総真さん、76歳。
彼の前では、誰も嘘がつけない。
何故なら、彼は利き足を怪我さえしていなければ、今頃は警察の元官僚として、悠々自適の生活を送っていただろうから。
それでも必死に嘘をつき続ける私は、彼から見れば、生まれたてのヒヨコの様なものなのだろう。
最初、この川幡さんが万菜ちゃんを迎えに来た時は、我ながら呆れるくらい勝手に胸を痛め、涙を流してしまったけれど、昨日離婚届を正式に受理された今では、もう胸も痛まない。
感じるのは、切なさと、僅かな寂寥感だけ。
それ以外はもう感じられない。
それより、私が気に掛るのは。
「また、傷が増えてらっしゃるようなのですが?改善されなければ、警察に通報することになりますよ?」
「・・・っ、申し訳、ございません・・・、おくさ、」
「城花さん、謝る相手は万菜ちゃんです。一介の保育士に謝るくらいなら、改善して下さい。県や国の視察の方々が来て、指摘でもされたら庇いきれませんので。」
奥様、と、言い掛けた川幡さんの言葉尻を切って、私は忠告をして、万菜ちゃんに微笑み、抱きしめた。
その時、少し吐き気がしたのは、きっと私がお腹の子の事を少し忘れたからだろう。
その吐き気に苦笑を洩らし、私は川幡さんと万菜ちゃんが帰り、後ろ姿が見えなくなるまで、外に立ち続けた。