♪、35 小さな声②
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その声は、本当に小さくて。
小さくて、高かったからこそ、耳に残り、気付いたんだと思う。
囁くような、本当に小さな声に、私は其方の方に目を向け、飲みかけていた紅茶のカップを危うく落としかけた。
真っ黒でサラサラな長い髪を、苺の飾りが付いたヘアーゴムで頭の両サイドでまとめ、紺色の制服に身を包み、綾橋家の若いメイドと手を繋いでいる女の子。
その子は私を見止めるなり、若いメイドから手を離し、パタパタと走り寄ってきた。
「おねえちゃん!!」
ギュッと抱きついてきた、子供特有の高い体温に、私は眩暈がした。
(ど、どうして、あやめちゃんが・・・。)
突然抱きつかれ、混乱している私になり代わり、頭の切り替えが早い尚は、私の指から紅茶のカップを抜き取り、小さな女の子、―あやめちゃんと目を合わせ、微笑んだ。
「こんにちわ。お名前はなんていうの?私は大川 尚っていうの。」
「俺は水戸部 由貴。」
いつの間にか私の背後にいた由貴君が、私の隣の椅子に座り、爽やかに見えるように笑みを浮かべ、あやめちゃんに問いかけた。
「君は、すみれさんの知り合い?」
由貴君がこの時、私をすみれさんと咄嗟に呼んだのは、私が自分の部屋を、すみれの花をモチーフにして整えていたからで、打ち合わせや何もしていなかった。する暇も無かった。
それでもするりと私の名前を誤魔化してくれた由貴君には、感謝しても感謝しきれない。
でも、あやめちゃんはそれらを全て無視し、私に必死に縋りつき、大きな声で叫んだ。
「おねえちゃんでしょ?よしのおねえちゃんだよね?あやめだよ。ママもおにいちゃんも、おねえちゃんがかえってくるのまってるよ?さがしてるんだよ!?」
あやめちゃんのその言葉に、私は一瞬心が揺らぎそうになった。
あやめちゃんが「おにいちゃん」と呼ぶのは、智だけ。
その智が私を捜しているという。
でも、そんなのはあり得ない・・・。
思い出す智の顔は、疲労しきった、辛い顔だけ。
そんな彼が、私を捜し、帰りを待っている筈がない。
(そうよ、待ってる筈なんかないのよ・・・。)
ギリリと、唇を強く噛みしめ、助けを請うように尚を見れば、尚の瞳は、私を強く見つめていた。
――誤魔化すんなら、徹底的に誤魔化すのよ・・・。あなたは決めたんでしょ・・・?
と、その瞳は、確かに私にそう告げていた。
私はその無言の援護に覚悟を決め、声が震えないように、お腹に力を込めて、優雅に微笑んだ。
「お譲ちゃん、あやめちゃんって言うのね。でも、私はあなたのお姉ちゃんでもないし、あなたの事も知らないわ?」
私のその言葉に、真珠の様な綺麗な涙を流すあやめちゃん。
許してなんて言わない。
嫌いになってくれてもいいし、むしろ嫌いになってほしい。
私なんか、忘れてくれればいい。
だから今、私は鬼になり、夜叉になる。
「あぁ、でも、園児かもしれないけど、その制服はウチの制服じゃないし、やっぱり知らない子よ。」
「なぁ~んだ。すみれさんの隠し子じゃないんだ。」
「隠し子って、私の子は、この子が最初で最後よ。私が愛したあの人は、もういないんだから・・・。」
由貴君の助け船に乗っかりつつ、半分本音、そしてもう半分を嘘で塗り固め、頬を薄く紅く染め、睨んでみる。
それにカラカラと笑い声をあげ、「そうそう」と、如何にもたった今思い出したと言わんばかりに、茶色のトレーナーのポケットから、小さな小箱を取り出し、私の目の前でパコン、と、蓋を開けた。
「その人からの注文だったのかな?これ、出来たよ。バラの装飾が難しくて時間かかったけど、我ながら上手く出来てると思うんだけど、どう?」
その言葉に箱の中身を見れば、私が過日注文した通り、いや、それ以上の仕上がりで、その指輪は、箱の中央できらきらと輝いていた。
ぽろり、と、涙を一つ流せば、由貴君は意地悪気に唇の端をつりあげた。
彼の言いたい事は解っていた。
でも、私はあえてそれに気付かない振りをして、箱ごと指輪を受け取り、涙の痕を拭き取った。
「ありがとう」
「いえいえ、俺は仕事しただけだから。それより、この子、どうするの?すみれさん」
由貴君はあやめちゃんを右手で指差し、クッキーをサクサクと音を立て、頬張った。
私がその言葉であやめちゃんを見れば、あやめちゃんは今にも壊れてしまいそうなほど、顔を歪め、泣くのを堪えていた。
(ごめんね・・・、でも、もう戻れないから・・・。)
痛む心を無視して、私はあやめちゃんを拒絶した。
「お家に帰りなさい、ほら、お母様が待ってるわよ?」
まだ年若いメイド、それも、私を甲斐甲斐しくお世話してくれていた人達の一人でもある彼女の方へと促せば、あやめちゃんは耐えきれなかったのか、大きな涙を流し、そのメイドを置いてきぼりにし、逃げるかのように走って行った。
その置いていかれたメイドは、私に深々と頭を下げ、何も言わずにあやめちゃんを追いかけるべく、駆け足で去って行った。
(参ったわ。流石は糸帆さん。)
私がしたのは愛すが故の拒絶という、生易しいものなんかじゃない。
自己満足の為だけの冷たく、残酷な拒絶。
その意を理解した上で、彼女は私の正体を見抜き、頭を丁寧に下げて行った。
多分、彼女は今日の事を誰にも何も言わないだろう。
私が無意識のうちに彼女にそう願ったから。
冷たい秋の風が、私の心にぽっかりと空いた穴を埋めるように、暫く吹き続けた。