♪、34 小さな声①
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どうして神様は私を放っておいてはくれないのだろう。
お腹を撫でながら、段々と落ち着いてきた私の様子を見計らい、尚が温かい飲み物とブランケットを、由貴君から窓越しから受け取り、庭に置いてある白い椅子に私を座らせた。
その白い椅子は全部で五脚あり、みんなで座れるように揃えたモノで、その白い椅子が囲むようにしているのが、同じデザインの丸いテーブル。
作りとしては、イギリスの庭園に置いてありそうな優雅なデザインでいて、気品があり、なおかつ、新しさも併せ持つ家具。
いつもはここに座れば気分が浮き立つのに、今日は何もときめかない。
そんな私に気付いてるのかいないのか。
「ねぇ、聞いても良い?」
尚に促されるままに椅子に座り、ぼんやりと空を眺めていた私に、幾分か遠慮してるのか、尚が小さな声で私のお腹を見ながら聞いて来た。
私はそれに『是』と答え、頭をゆっくりと上下させた。
「お腹の子の父親って誰・・・?」
まさか、私の知ってる人・・・?と、不安げに聞いてくる尚に、私は無意識の内に儚い笑みを浮かべ、肯定とも否定ともいえない答えを口にした。
「この子の父親、つまりは、私のついさっきまでの夫だった人はね、尚の採用が決まった会社の社長で、綾橋の次期総帥になる人なの。」
そして、自分もそこの社員だった。
そう、あの日までは、私は智の妻で、社員の一人だった。
けど、今日からは違う。
今日からは全くの他人であり、知り合いですらない。
無関係で、知らない人間になる。
妊娠している事を知っているのは、病院側の一部の人達と、紘人さん、お義父様の宗梧さんと、ここで一緒に暮らしている人達と、職場の人達くらい。
あの日以来、私は智の顔も見ていなければ、様子も聞いていない。
疲れたと言ったのだから、関り合いたくもないのだろう。
ならば、私も出来るだけ無関心でいようと決めた。
良く、『愛情の裏返しは憎悪だ』と、言う人がいるけれど、実際は無視・無関心だと思う。
憎悪であれば、心にもまだ存在できる。だけど、無視や無関心であれば、心には残らないし、引っ掛かりもしない。
全くの無だ。
「・・・、なんで、別れたの?社長さん、あんなに完璧で、カッコイイのに。」
採用通知をぐしゃりと握り絞めた尚は、理解出来ないとその真直ぐな眼差しで語っていた。
それに少しだけ笑って、私は眼を伏せた。
「そうね・・・。あの人は完璧で、容姿も優れていて、全てが申し分がなかった。女性にも苦労してなくて、実際、白い結婚期間の間には、何度も朝帰りや浮気の証拠も見つけた。でも、それでも離れられなかったのは、あの人が好きだったから。必要だったから。」
「それなら・・・っ、」
私は尚の言葉を視線一つで奪い、醜く嗤った。
「『疲れた』って、言われたの。私を愛するのが。家族としてやっていくのが疲れたって。あんなに完璧な人が、すごく疲れた顔をして。最後に見たあの人の顔は、私を完全に拒絶したものだったわ。」
あんなに歪んだ顔は、今までも見た事がなかった。
今思えば、あの時に私は決めていたのだと思う。
あれ以上智に嫌われるくらいならば、私から逃げてしまおうと思ったのは。
嫌われたくなければ、離れてしまえと。
私は私の身勝手な欲望の為に、智の籍から自分の籍を抜いた。
「だからね、別れたの。信じられないなら、これを会長に渡す序に聞いても良いわよ」
そう言って、私が鞄から取り出したのは、一通の封筒。
この中には新しいい携帯の番号と、アドレス、住所と勤め先等が書いてある手紙が入っている。
本当は自分で渡した方がいいと思っていたのだけど、無関係になると決めた以上、やたらと智の周囲をうろつくのは良くないし、気持ちが揺らいでしまうかもしれない。
暫く私と封筒を見ていた尚は、はぁ~っと、思いっきり重い溜息を吐いてから、その紅い口唇を吊り上げて笑った。
「ありがとう、話してくれて。私は吉乃を信じる。――これは明日にでも会長に渡しておくわ。良かったわね、私が秘書課採用で。」
「えぇ。流石だわ。尚。」
お互い顔を突き合わせ、笑い合っていた時、その小さな声は私の耳に届いた。