♪、1 亀裂と発症
この話から色々と手直しが入ります。
涙は三年前に枯れ果てたのだと、ずっと思いこんできた。
だけどそれは私の単なる思い込みだったらしい。
両頬に静かに伝わる、熱くも冷たい心の雫は、止まる事を忘れたかのようにずっと流れ続けれいる。
(何を泣く必要があるの・・・。)
寝室は結婚して三ヶ月目に別々となり、夫婦として身体を重ね合わせた記憶も一度としてない。
なのに私は今、それを悔しく、惨めに感じている。
昨日、あの後、私は正午までに仕事を何とか予定通りにこなし、早退し、病院を受診した。
その病院は、昨年の秋から定期的に受診している所で、受診したのは精神内科。
私が診察室に入った瞬間、私を担当してくれている先生は、厳しい声で「やめなさい」と言葉を発した。
私には、先生がどうしてそんな事を言うのか判らなかった。
先生はそんな私の心理状況もお見通しだったのか、静に囁くように言葉を発した。
最近、泣いた記憶は?と。
私は首を横に振り、覚えてないと答えを返した。
先生は痛ましげな表情を浮かべながらも、最近あった事を事細かく聞いてきた。
これも治療の一環だからと、辛くても話してくれるね、と、言われれば、私は望まれるがままに話した。
そして、ついさっき職場で見たことも、ありのまま淡々と話せば、先生は大きな溜息を吐いて、それが原因か、と、本当に小さく呟いて、私に聞いてきた。
「旦那さんとは別れられない?」
別れられなければ、近い内に確実に倒れると言われた私は、それでも別れられないと、無意識に答えていた。
一夜明け、目覚めた今、その理由が解った気がした。
いくら口先で愛がないと言っていたとしても、私はいつか。
(あぁ、私って何処まで救いようがないの・・・。)
そう。
心の中ではいつも、いつか、きっと、と、思い、願っていたのかも知れない。
でも、それももうそろそろ限界。
心が、身体が、そして何より私自身が、声無き悲鳴を上げ、今にも狂ってしまいそうだった。
ベットから降り、姿鏡の前に立つ。
鏡の中には、女性らしさの一欠片もない、貧相な身体つきの私がいた。
「吉乃、貴女、どうしたいの・・・?」
鏡の中の私は弱々しく、誰だって抱きたくない、鶏ガラより粗末な女にしか見えなかった。
鏡の中にいる私自身に声をかけても、答えが返ってくる訳でもないのに、それでも私は答えが欲しい為、自問自答を繰り返す。
(とりあえず、食事作らなきゃね・・・。)
そう思いながら、着替える。
その着替えている時でさえ、私の頭の中は、暗い思いと考えが常に支配している。
今の生活を捨てるのは簡単。
でも、その後の私の生活は?
不況な世の中のこのご時世、再就職なんて簡単に出来ない。
離婚だって、離婚後の住居や仕事、住み易い環境を整えてからの方が良いに決まっている。
大きめなトレーナーをクローゼットから出し、ジーンズと合わせれば、身体の線は簡単に隠せる。
長い髪は適当にアップし、バレッタで留める。
そのバレッタは、結婚が決まったお祝に、と、類が、特別にオーダーメイドしてまで、注文買い取りし、贈ってくれたモノで、一番気に入ってるモノ。
最後に、指輪をつけようと、ジュエリーボックスに手を伸ばし掛け、やめる。
(心もないのに、わざわざ自分から鎖をつけてどうするのよ・・・―-。)
自分の愚かさと滑稽さに吐き気がする。
そんな気分をなんとか押し殺し、ガチャリと、寝室からリビングへと通じる扉を開くと、そこにはもう笑うしかない光景が、今や遅しと、私を待ち受けていた。
「お邪魔したみたいですね。どうぞ、私の事はお気になさらないで下さい。」
如何にもこれからという場面に出くわしてしまった私は、喚く事より、微笑を浮かべ、黙認する事を選んだ。
指輪をしていないだけで、私はひどく精神的に楽だった。
(最初から、こうしていれば良かったんだわ。)
現に、名前だけの偽りの夫に睨まれている今も、全然怖くもなければ、悲しくて辛くもない。
自分でも気付かない内に、自然と笑みが浮かんでくる。
「吉乃・・・?」
その笑顔の意味が解らなかったのか、名前だけの夫・智が、苛立った表情から困惑した表情で、私を見つめ、自分の身体にしな垂れ掛っていた妖艶な美女を引き剥がし、私と正面から向き合った。
そして、ゆっくりと伸ばされてきた手を、私は大きな音を立て、打ち払っていた。
「私に触らないで!!」
叫んだ瞬間、目眩が私を襲った。
(・・・っ、こんな時に・・・。)
だけど私はその襲ってきた突然の目眩を、気力と興奮から無視し、近くにあったガラスのフォトフレームを掴み、智に投げつけた。
投げつけたフォトフレームには、私と智のウェディング姿の写真が収まっていた。
粉々に砕け散ったフォトフレームは、私達夫婦の関係の様だった。
最初から解っていた。
私達夫婦の間に、『愛』などと言う、愚かで、甘い感情がないことなど。
(なのに、なのに・・・っ。)
結婚して二ヶ月位までは、確かに恋はしていた。
ただし、それは恋に恋にしていただけ。
荒れ狂う心を抑える為、私は自分自身に暗示をかける。
私が恋していたのは、幻で、類だけ。
この人になんて、恋なんかしてない。
(そうよ、恋なんてしてない。)
「あぁ、何よ。その目は。貴方はいつもそう。私をいつもそうやってバカにして!!気に食わなかったのよ・・・っ。」
貴方の顔が、と、続く筈だった私の言葉は、無理して抑えつけていた強烈な発作により、声にならなかった。
胸を掻き毟るほどに、辛く、息苦しい発作は、私の身体からの命がけのSOS。
両膝をリビングの床につけ、右手で身体を支え、左手で胸元を押さえる。
(あぁ、だからだったのね。)
決して興奮してはならないと言われ続けた意味が、今、初めて解った気がする。
死にたくないのに、死神の甘美な囁きが私を誘い、私はその囁きに誘われるがまま、意識を手放した。
一端、区切ります。