♪、16 心の鍵①
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どうして幸せな時間は続かないのだろう。
頭と心の中を駆け巡り、恐ろしい程の速さで蝕んでいくのは、醜い想いと感情。
物分かりのよい妻として、理解のある妻として、智が他の女といた事も問い詰めたりせず、智が自分から話してくれるまで待とうと決め、受け入れたのに。
智の過去に何があろうとも拘らない、構わない、と思っていたのに。
けれど、それは私の痩せ我慢と虚勢、醜い心を隠すためのプライドだった。
私はいつの間に、こんなにも嫉妬深い女に成り下がっていたのだろう。類の時でさえこんなには苦しまなかったし、心は乱れなかった。
(どうして、どうして、どうしてなの、智!!)
考えても、譬え自問自答を繰り返した所でも、答えが出たり、返ってくるわけではない事は理解している。それでもそれをやめられない。
鞄をソファーに放り投げ、大きなベッドにころりと横になり、身体を猫のように丸める。
普段使われていない客室のベットは、いきなりの重力で驚いたのか、ギシッ、と、軋む音を立てた。
私はそれに構うことなく、目を閉じた。
目を閉じれば思い出すのは、あの光景。
あの光景がどうしても目に焼きつき、思い出したくもないのに、勝手に思い出す。
それが苦しくて、悔しくて、切なくて、変になりそうだった。
幸せそうで、お似合いの夫婦で、家族。
(あの子、まなちゃんも、可愛かった・・・。)
悶々とした気分のまま、私はずっとそうして横になっていて、いつの間にか眠り込んでしまっていた。そうと判ったのは、誰かに身体を揺さぶられていてから。
私を起こそうとしている人は小柄なのか、手が小さかった。もしかしたら子供かもしれなかった。
(この家に、子供はいない・・・。)
私は子供という可能性を打ち消し、そろそろと薄い瞼を開けた。すると、そこにいたのは、見覚えのある小さな子で、何故か不安そうにしていて、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
(名前は確か・・・、)
喉まで出かかっているのに、名前が中々するりと出てこない。
そんな私を、小さな女の子は、不安混じりの声で私の事を気遣ってくれた。
「よしのお姉ちゃん、だいじょーぶ?あやめのこと、わかる?」
(そうだった、あやめちゃんだった。)
細く、白い左手を伸ばし、あやめちゃんの真っ黒な艶々とした長い髪を優しく撫でる。
あやめちゃんは、紘人さんのお姉さんの子供で、良く綾橋の家に遊びに来る。と言うのも、咲田家が綾橋家の分家だから。
「おねえちゃん、ぐあいわるいの?おなか、いたいの?」
あやめちゃんの不安げな声や、眼差しは、素直に嬉しく感じられるし、申し訳なくも感じる。
(何やってるの、相手は子供なのに。)
大人が子供に心配を掛けてはいけない。いつでも守ってあげなくてはいけない、と、短大生時代に習ったし、現場でも教わった。
小さな子に心配を掛けたくなくて、私はまた、無意識に心に仮面をつけ、カチリと、心の鍵のダイヤルを回した。
「大丈夫よ、あやめちゃん。少し疲れて寝てただけだから。智お兄ちゃんには会った?」
「うんっ!!いま、おふろにはいってるよ?すごくあせかいてて、ひとりでかえってきたから、ママとりいちゃんにおこられてた。」
きっと、探してくれたんだろう。誰でもいきなりいなくなれば必死で探す。
探さない人がいるとすれば、最初からその人に対し、何ら感情を抱いていないか、捨てる事を決めているかだ。
(嫌気がさすわ。)
心配すると知りつつ、浅はかな行動をとってしまった自分が嫌になる。
「おねえちゃん、ママがおねえちゃんとおはなししたいんだって。りいちゃんもまってるよ?」
自己嫌悪に駆られている私の指を、あやめちゃんはその小さな手できゅっと握り、私の顔を見つめた。
そのあやめちゃんの瞳は、うるうると涙で潤んでいて、私はまた申し訳なく感じた。
私はそれを何とかしたくて、身体を起こし、ベットから降り、軽く身繕いしながら、私は明るく言った。
「じゃあ行こうか。お腹もすいたし。あやめちゃんはご飯食べた?」
あやめちゃんの小さな手と手を繋ぎ、一歩一歩、階段をゆっくり降り、リビングに着いた私とあやめちゃんは、そこでお風呂から上がったばかりの智と鉢合わせした。
ついさっきまで後ろめたく感じていたのに、智の顔を見た途端、私の心はまた静かに、私が知らない内に、カチリ、カチリと、ダイヤルを回し始め、頑なになり始めていた。
変な所ですが、ここで区切ります。