♪、0 動き出した歯車。
お引っ越し作業中です。
<愛してる>
そんな言葉は、私達夫婦の間には、最初から存在していない。
左薬指でさりげなく輝く指輪は、物言わぬ冷たい鎖。
その鎖に刻みこまれている言葉は、想いの籠っていない愛の言葉。
--L'amour qui est destiné--
真実味のない、当てつけの様な言葉。
日本語に訳せば<運命の恋>。
フランス語にしてあるのは、私に対する嫌味。
私、菜々宮 吉乃、26歳は、結婚して三年目の、どこにでもいそうな普通の一般社員。
それに引き換え私の戸籍上の夫は、今、最も世間で話題の中心になっている若手実力派の社長。
見た目も然ることながら、言動から視線まで、全てが最高品質で、文句のつけようのない所がまた逆に腹立たしい所。
鋭い眼は、常に私以外を見つめていて、微かに掠れ、良く響く甘い声は、ベットの中で聞けば、程よい甘さを含む媚薬にも匹敵し、魅了される。
そして、ガッシリしている割には、決して太っていない鍛え上げられた身体。
それで35歳となれば、玉の輿を狙っている女性社員にとっては、最高の獲物である事は間違いない。
きゃあきゃあと、やけに煩く、甲高い媚びた奇声をあげる先輩達を尻目に、私は与えられた仕事を全うしようと、美女の集団に囲まれている夫を見て見ぬふりをし、その横を堂々と通り過ぎた。
家では夫婦でも、一歩でも家から出れば、その瞬間から私達は他人になる。
(まぁ、家でも他人だけどね・・・?)
そんな事を思いながら、歩いていると、声を掛けられた。
「あら、菜々宮さん。アナタいつからそこにいたの?」
全然気付かなかったわ。
と、勝ち誇った笑みを浮かべ、小馬鹿にされ、蔑まれるけど、もうそんな程度の幼稚な虐めでは何とも思わないし、感じない。
逆に、そんな事しか出来ない人を憐れみたくもなる。
(どこがいいのよ、あの人の。)
でも、言い返し、反論するのも面倒だし、億劫。
なら。
「すみません・・・。」
小さく、怯えた声で謝り、頭を下げ、下に俯いて走り抜ける。
それが愉快だったのか、女性の甲高い声が聞こえた。
「アレでも同じ女かしら。見た?あの子、今日は化粧すらしてなかったわ。」
大袈裟に声をあげ、私をバカにし、優越感に浸っていた女性は、自分の隣に立っていた男性に甘えるように凭れ掛った。
その男性は、私が勤務している会社の現社長であり、戸籍上の私の夫である、綾橋 智さん、35歳。
でも、胸は痛まない。
そんな光景に胸を痛めていた可愛い私は、結婚して2ヶ月目にして死んでしまった。
今では涙も出なければ、溜息さえ漏れない。
「吉乃、大丈夫か?顔色悪いぞ?」
出勤して早々、疲れ果てて頭を抱えていた私を気遣い、声をか掛けてくれたのは、同期で入社した営業部のエース・長瀬 類、28歳。
同期の誼で、私が営業部から総務部に異動した今でも、こうして仲良くしてくれている。
(いけない、今は会社なのに・・・。)
気付かれないように、そっと自然に笑顔を浮かべる。
「類は今日も、相変わらず朝から元気ね・・・?」
「まぁ、営業は体が資本だからな。それより、本当に大丈夫か?お前また痩せたんじゃないのか?」
節だった指が、私の頬を滑っていく感覚が懐かしくて、不覚にも泣きそうになってしまった。
お互いが大切過ぎて、親友以上になれなかった私達。
後悔していないと言えば嘘になるけど、今の私は、昔の弱い私じゃない。
彼にも、彼の人生がある。
大きな手の平に手を絡めるように手を重ね、私はもう一度笑顔を浮かべた。
「大丈夫よ?私には愛する旦那様がいるから。類は知ってるでしょ?」
嘘。
愛なんかない。
だけど、類は優しいから、だから嘘を吐く。
あの人に対して抱いている感情があるとするのならば、それは深い深い諦めの様なもの。
愛しさもなければ、悲しさや憎さも感じない。
『無関心』と言う言葉が近いだろうか。
密やかな逢瀬を終えた私は、パソコンに向かい、ひたすらキーボードを叩くように弾く。
緩くウェーブが掛かっている柔らかめの長い髪が、他人の視線から私の表情を覆う様に隠す。
さっき、類に「痩せたんじゃないか?」と、指摘された時は驚いて、一瞬、呼吸をするのを忘れてしまう位、驚いた。
確かに最近、私は最近痩せた。
でも、バレるとは思ってもなかった。
(あの人は気付かないのにね・・・。)
近しい人より、昔の想い人が私の変調に敏いだなんて。
私が痩せる理由は拒食症気味による少食で、その拒食症気味の原因は、環境の変化によるストレスと、心因性のものだと病院で判断された。
私を担当してくれた先生は、そのストレスの原因を取り除かなければ、後々、私が悲しむ事になると、はっきり断言して、そして最後には、精神科の先生も紹介してくれて、くれぐれも興奮しないようにと、私に注意した。
ふと、顔を上げ、何気なく辺りを見回した私は、見たくもない光景を目にしてしまい、無意識の内に唇から血が出るほど、強く噛み締めていた。
(あぁ、やっぱり。結婚なんてしなければよかった。)
私が偶然にも見てしまったモノは、戸籍上の夫が、綺麗で、魅力的な女性とキスしている所だった。
結婚して、今年の10月で三年。
それは結婚した時から、僅かに軋み、隙間だらけだった私達夫婦の擦れ違う歪んだ関係が、いよいよ変化する刻を悟り、今にも大きく動きだそうとする瞬間でもあった。