僕へ -プロローグ-
ロシアを代表する劇作家、アントン・チェーホフは言った。
ー嘘をついても人は信じる。ただ、権威を持って語れー
本編『僕へ』説明書き
この物語は、主人公《在原 祥平》が14歳の時、幼馴染みの《相澤 雅》が
くれた本から始まって、彼女がくれる言葉で終わる、
彼の人生の断片を綴った物語。
*
AM8:32
何故かわからない。
何故かわからないけど、俺は自分の部屋を掃除している。
今日は異常に目覚めが良かったんだ。
夢は見ていない。
設定した時間とは異なった時間に鳴る、五月蝿い目覚まし時計も、
毎朝、自分の起きる時間帯にモーニングコールをしてくる都合の良い女も、
いつも通り。いつも通りだったのに、今日は違った。
気分も良いんだ。
俺は、昨日洗ったばかりの枕カバーを洗濯機に放り込んだ。
それを見たお袋が呆れた顔をして言った。
「ちょっと、祥平?これ、昨日洗ったばかりじゃない。」
俺はただ、うん、とだけ返事して、また2階へ上がった。
「…よし。」
見違える程、綺麗になった部屋を見て思った。
以前は床さえ見えなかったんだな、と。
俺は本棚にある1冊の本を手に取った。
『ポール・レオトーの肖像』。
隣に住む、一つ下の幼馴染みから誕生日に貰った本だ。
日記文学の巨匠、ポール・レオトーは言った。
ー経験が役に経たないのは、特に恋愛の場合に甚だしいー
俺は今まで生きてきた16年間、一人でクリスマスを過ごした年は一度もない。
頭の五年間くらいを除いても、ほとんど仲間や毎年違う彼女と過ごした。
そして今まで掃除なんて自分から進んでやったことは一度もない。
これは、ふたつとも同じ理由だと思われる。
そう。この本の影響だ。
幼馴染みの雅は当時、14歳の俺にこんなことを言っていた。
「肝心なのは、自分を探すこと。」
「自分自身を見ようと努めること。」
彼奴は、顔は可愛いくて性格も良く、学年で一番人気があった。
もちろん、俺もだ。
だから、周りは先輩の俺と後輩の雅が付き合ってると思っていた奴が多い。
けど、俺は雅になんの感情も抱いていなかった。
むしろ、嫌いだった。
いつも俺より前にいるんだ。
いつも俺より目立っていたんだ。
雅は俺と競争するつもりも、何かと目立つつもりもなかった。
いつも俺だけが一生懸命だったんだ。
そして何より、俺の一番の理解者だった。
だから雅にこの本を貰ったとき、誓ったんだ。
俺はこの本の通りに従う、と。
だから、1人でクリスマスを過ごさなくても済むように。
経験が豊富では無いと思われないように、毎年違う彼女とクリスマスを過ごした。
それも、俺が振るのではなく、俺が女に嫌われるようにした。
女を傷つけないようにする為に。
そして、何より自分自身の身を守る為に。
しかし、そんな俺を見て雅はたった一言、こう言った。
『祥平は、自分自身が他人にとってどうありたいか、としか見れていない。
大切なのは祥平が自分自身にとってどうありたいかを見つけることだと思う。』
年下に言われたせいか、そのときは全く聞く耳を持たなかった。
でも、今やっとわかったのだ。
俺は、自分の部屋のドアしか他人に見せていない。
しかし、もっと自分の部屋の中を見つめることで自分の部屋の床も見れるようになる、ということを。