世渡り下手だと婚約破棄されたけど、私を見ていてくれる人はちゃんといました
「おまえは本当に世渡りが下手だな。……もう十分だろう、婚約は破棄しよう」
宿にある従業員の休憩室。
婚約者のニールから告げられた言葉に頭が真っ白になる。
「ニール、馬鹿なことを言うな! エステルは公女様を助けただけだろう! そもそも、メイドとして働いていたのは、この宿の将来を思ってのことなんだぞ!」
項垂れる私のまえに立ち、オスカーさんがニールを叱りつけた。宿の主人にして、ニールの父でもある。そんな彼の怒声に、けれどニールは鼻を鳴らす。
「だからどうした。結果として、罪人として解雇されただけじゃねぇか」
「おまえ、言っていいことと、悪いことがあるだろう!」
オスカーさんは怒ってくれる。
けど、ニールの言うとおりだ。
私――エステルは子供の頃に両親を失い、本当なら路頭に迷うところを、運良くオスカーさんに救ってもらった。それ以来、彼が経営する宿の従業員として働いていた。
それから、ニールと共に宿を継がないかとオスカーさんに提案されて、私はその申し出を喜んで受けた。オスカーさんに恩返しができると思ったから。
だから、離宮のメイドにも応募した。宿屋を切り盛りしていく上で、メイドとしての経験と実績は、必ず役に立つと思ったから。
だけど、私が職場の離宮で目にしたのは、想像していたのとは異なる光景だった。
アルヴェイン公王家の第一公女。ヴィオラ様は継母に本宮を追われ、離宮で一人寂しく暮らしていた。しかも自分を護るはずの侍女に冷遇されている。
使用人もそれに倣い、彼女の食事や衣類を盗み、横領すらしていたのだ。
私が路頭に迷った頃よりも幼い姿の公女様が、冬の寒さに震えて縮こまっていた。そんな姿を見ていられなくて、私はこっそり毛布をお届けした。
それが侍女の怒りに触れて、私は濡れ衣を着せられて解雇されてしまったのだ。
そして、それをニールに打ち明けたら、さきほどのように叱られてしまったという訳だ。
「悪い、悪くないの問題じゃないだろう。公王家の不興を買ったことが問題だ! この国で公王家に睨まれたら、この宿屋だって潰されるかもしれないんだぞ?」
「使用人に睨まれただけだ! そもそも、エステルはおまえのためにメイドになったんだぞ!」
「そんなこと、俺は頼んでない! 親父とエステルが勝手に決めたことだろ!」
「――もう、止めてください」
二人の口論を見ていられなくて、私は声を振り絞った。
そんな私に驚き、二つの視線が私へと向けられる。
「……私が、悪かったんです。それに、ニールの言うとおりです。私のせいで、この宿屋が潰れたりしたら、後悔してもしきれません。だから……いままで、ありがとうございました!」
オスカーさんの顔を見て、笑おうとするけれど、うまくできなかった。込み上げる涙を堪えきれなくて、私は顔を背けて部屋を飛び出した。
宿にある、従業員の――つまりは私の部屋。
そこで荷造りをする。
といっても、最近まではメイドとして離宮で暮らしていたし、部屋にはあまり荷物がない。纏め直すのは、住み込み先に持っていった、大切なモノと衣類くらいだ。
これは……オスカーさんが誕生日に買ってくれたリボン。こっちは、ニールとの婚約が決まったときに、オスカーさんからもらったお祝いのリボン。
それに、メイドとして就職が決まったとき、オスカーさんからもらったお祝のリボン。
……あはは。リボンばっかりだ。
幸せ、だったなぁ……
お父さんとお母さんを失って、本当なら、私は路頭に迷うはずだった。そんな私に手を差し伸べて、本当の家族のように優しくしてくれた。
幸せな家族を手に入れたと思ったのに、全部、失っちゃった。
「エステル、まさか家を出るつもりか?」
その声に驚いて顔を上げると、開いた扉の前にオスカーさんが立っていた。
「すまない。扉が半開きだったから、部屋に入らせてもらった」
「いえ、かまいません。それより、迷惑を掛けてごめんなさい」
「迷惑だなんて、思ってない。ニールはあんなふうに言っているが、エステルが働いていることを理由に、宿屋が潰されるなんてあり得ない。俺がもう一度、ニールを――」
その先は言わないで欲しいと、首を横に振った。オスカーさんが庇ってくれるのが嬉しい。でも、だからこそ、そんな優しさに甘えたくない。
「……そうか。だが、どうするつもりだ?」
「大丈夫です。私も、あの頃よりは大人ですから」
紹介状はない。身寄りも失った。それでも、きっと働き口はある。
その続きを口にするより先に、オスカーさんが声を発した。
「――働き口ならあてがある。夫婦が切り盛りしているパン屋が人手を必要としていた。話をしておくから、そこで働くといい」
「私を、雇ってくれるでしょうか?」
「大丈夫だ、おまえならな」
彼は笑って、それから私の手を握った。
「オスカーさん?」
「おまえは大切な家族だ。その家族を路頭に迷わせたりはしない。だから、これを持っていけ」
彼の手が素っ気なく離れる。
そして私の手の内には、見慣れぬ鍵が残されていた。
「これは?」
「俺が購入した小さな家の鍵だ。本当は、エステルとニールが結婚したら、二人に宿屋を譲って、俺が一人で暮らそうと思っていたんだが……おまえにやる」
「え? やるって……家を!? そんな、いただけません!」
「退職祝いだ。受け取ってくれ」
「退職祝いなんて、受け取る資格は、ありません」
罪悪感に耐えきれなくなって俯いた。
「……エステル?」
「私、自分のしたことに後悔していないんです」
吐き出したのは私の本音。
周りは全部敵だらけで、広い離宮で孤独に一人。ご飯すら満足に食べられない。そんな公女様を見ていられなかった。オスカーさんに救われる前の自分を見ているようだったから。
だから――
「もしあのときをやり直せたとしても、私はきっと公女様に手を差し伸べます。その結果、オスカーさんに迷惑を掛けると分かっていても」
恩を仇で返す行為。
失望されたかもしれない。それがすごく怖い。だけど、オスカーさんは「おまえは自分が思ってるより優しい子だよ、エステル」と、私の頭を撫でた。
「ずっと見てた。エステルが宿を盛り立てようと頑張っているところを。ニールは世渡りが下手だと言ったが、俺はそうは思わない。きっといつか、エステルのよさを分かってくれる人が現れる」
「……オスカーさん」
思えば、私はいつもオスカーさんに救われてきた。
その気遣いが嬉しくて、胸が一杯になった。
「ありがとうございます。このご恩は、いつか必ず返します」
いつか、お金を貯めてお家の代金も支払おうと誓う。
なのに、オスカーさんは優しげに笑った。
「エステルが幸せになれ。それが一番の恩返しだ」
「……はいっ」
オスカーさんが優しすぎて泣きそうになる。
公女様を庇ったことで濡れ衣を着せられ、メイドを首になったその日。
私は帰る場所と婚約者を失った。
だけど、すべてを失ったわけじゃなかった。
「よく来たね」
翌日、私はオスカーさんに紹介されたパン屋に足を運んだ。そこで温かく迎えてくれたのは、二十代半ばくらいの優しそうなお姉さんとお兄さんだった。
「私はマルタ。それからこっちは旦那のテオだ」
「初めまして、エステルです。それで、その……私のことは」
メイドを首になったことを知っているのかと、言いよどんだ。
「あんたのことは聞いてるよ。新しい職場を探すことになった理由も、よく働く、真面目な子だってこともね。だから、真面目に働いてさえくれれば、他は気にしなくていいよ」
柔らかな笑み。
そっか、オスカーさんが上手く取りなしてくれたんだ。
だったら、私を紹介した彼に恥を欠かせないように全力で頑張ろう。
「よろしくお願いします!」
こうして、私はパン屋で働き始めた。妙な詮索をされることも、嫌がらせをされることもない。マルタさんとテオさんはとてもいい人たちだった。
私はそんな彼らの期待に応えようと、全力で店の手伝いをした。
そうして、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
あれから、私はずっとパン屋で働いている。
「――いらっしゃい、おばさん。今日はふんわりパンが入荷してますよ」
「じゃあそれを三つもらおうかしら」
「はぁい」
愛想よく答えて、袋に詰めていく。
「エステルちゃんは本当によく働く娘だね。息子の嫁にもらいたいくらいだよ」
「あはは、そんなふうにおだてても、おまけはしないですよー?」
最初はこの手の冗談を上手く受け流せなかった。
けど、一ヶ月も働いているとさすがに婚約破棄の傷もだいぶ癒えた。おばさんの冗談を軽くあしらって、袋に詰め終わったパンを代金と引き換えに渡す。
そうして一息を吐くと、そこにマルタさんが顔を見せた。
「エステル、お客様の応対にもすっかり慣れたようだね」
「はい! それと、在庫管理も表に纏めておきました」
「在庫を管理することで、在庫切れと、買いすぎを防げる、だったかい?」
「はい。コストの削減になりますよ!」
私が笑みを浮かべると、マルタさんはわずかに笑う。
「それも、メイドとして学んだことなのかい? 酷い場所だって、聞いていたけど……」
「そうですね。でも、優しい先輩がいたんです」
私がメイドになった理由を知ると、宿を切り盛りしていく上で必要な知識を教えてくれた、セレーナという先輩。離宮のメイドは腐っている人が多かったけれど、優しい人もたしかにいた。
でも……そっか。
私、ちゃんと必要な知識を身に付けていたんだ。それを実感すると同時、宿のために使えないことを理解して複雑な気持ちになる。
……ダメダメ。
もう、前を向くって決めたんだから。
顔を上げ、それからマルタさんに視線を向けた。
「そう言えば、お子さんは見てなくて大丈夫なんですか?」
私が雇われた理由。
マルタさんは子供の側にいるために、店番を任せられる店員を募集していたのだ。それを、このパン屋で働くようになってほどなく、教えてもらったことがある。
ちなみに、お子さんは可愛らしい男の子だった。
「実は、近所で纏めて子供の面倒を見てくれるところを教えてもらってね。聞いたら、うちの子もそこで預かってもらえることになったんだよ」
「それは――よかったですね」
にへらっと笑う。
すると、マルタさんに頭をわしわしと撫でられた。
「あんたは本当に優しいね。心配しなくても、あんたをクビにしたりしないよ」
「あ、その、ごめんなさい」
心配していたことを言い当てられて恥じる。
「謝る必要はないわよ。それに、あんたが不真面目だったらクビにしてた。これからも働いて欲しいと思ったのは、あんたが頑張っているからだよ」
「ありがとうございます!」
自分の成果を認めてもらえたのがすごく嬉しい。これからも、ずっとここで働かせて欲しい。そう口にしようとしたそのとき、足元に影が落ちた。
その影をたどると、そこにオスカーさんの姿があった。
「オスカーさん、お久しぶりです」
「ああ。エステルも……その、元気そうでなによりだ」
彼はどこか照れくさそうに頭を掻きながら、私のまえまで歩み寄ってきた。
「えっと……今日はどうしたんですか?」
「ニールに怒られてな」
「怒られた? もしかして、お家のことですか」
彼にもらった鍵の家は、私が思っていたよりもずっと大きかった。そんな家を他人にあげるなんて、家族として怒って当然だ。
だから、返そう。
そう思って、ポケットにしまってある鍵を探る。だけどそれを取り出そうとするより早く、オスカーさんが手振りでそれを止めた。
「いや、家のことじゃない。職場を紹介したのなら、その後の様子くらい確認しろって怒られてな。だから、その……様子を見に来たんだ」
「ニールが、そんなことを……?」
迷惑を掛けてしまったのに、私の心配をしてくれたんだ?
「意外か? あれでも、言い過ぎたと反省はしていたぞ。追い出すつもりはなかった、とな」
「そう、だったんだ」
言われてみれば、婚約を破棄するとは言われたけれど、出て行けとは言われなかった。
いやでも、私が働いてたら、宿屋が潰されるかもしれない――って言うのは、ほとんど出て行けって言ってるようなものだよね。
「だから、その、なんだ……」
オスカーさんが言いよどむ。それは、言いたいことを言い出せずに困ってるときの顔だ。なにを言おうとしているんだろう? こっちまで不安になってきた。
すると、マルタさんが小さく溜め息を吐いた。
「ったく、戻ってきて欲しいなら、戻ってきて欲しいと、ハッキリ言ったらどうだい?」
「いや、俺は別に……エステルが元気にやってるなら、それでいいんだ」
マルタさんが続けて溜め息を吐いた。
「エステル、この人はね、あんたを迎えに来たんだよ」
「そうなんですか?」
ぱちくりと瞬いた。
オスカーさんは手振りで否定する。
「マルタ、勝手なことを言うな。俺はただ、様子を見に来ただけだと言っただろ」
「あんたも、なにを遠慮してるんだ。この子があんたに惚れてるのは明らかだろう」
「はい!?」
思わぬ流れ弾に目を丸くする。
「ち、違います!」
「おや、違うのかい?」
「そうですよ。私はただ、オスカーさんに恩返しがしたいだけですから」
「ふぅん?」
マルタさんは首を傾げ、それからオスカーさんに視線を戻す。
「フラれちまったね、兄さん」
「だから、そんなんじゃないと言ってるだろう」
オスカーさんが溜め息交じりに吐き捨てた。
……って。
「兄さん?」
「ん? あぁ、知らなかったのかい? 私とオスカー兄さんは実の兄妹なんだよ」
「そうだったんですか!?」
びっくりした。
でも言われてみると……目元とか、ちょっと似てるかも。
でも、マルタさんは二十代半ばくらい。オスカーさんの見た目は三十前後。ニールの父親だと考えると、三十半ばくらいだから……まぁ、ちょっと歳の離れた兄妹なのかな。
そんなことを考えていると、オスカーさんにぽんと頭を撫でられた。
「とにかく、エステルが元気そうで安心した。それと、本当に連れ戻しに来たわけじゃない。俺は、エステルが元気にやっているのが一番だと思っている」
私は背中で手をギュッと握り、精一杯の笑みを浮かべて見せた。
「――はい、ありがとうございます」
こうして、オスカーさんはパンを買って帰っていった。
その後ろ姿を見送っていると、マルタさんが隣に立った。
「うちなら、心配しなくていいんだよ? あんたはとても働き者だから居なくなったら惜しいけど、店番の代わりを探すくらいはできるからね」
「いいんです。オスカーさんに迷惑は掛けたくないから」
そう口にして、私はハッとマルタさんを見る。
「あ、違いますよ。別にマルタさんのお店なら迷惑を掛けていいと思ってるわけじゃなくて。私が宿屋に戻ったら、オスカーさんとニールの仲が悪くなるかもって……」
「分かってるよ」
マルタさんはクスクスと笑う。
でも次の瞬間、ちょっとイタズラっぽい顔になった。
「でも、本当よかったのかい? 兄さんのいい人を奪ったみたいで、申し訳ないんだけど」
「だから、そんなんじゃありませんって!」
「そうかい? 兄さんに遅めの春が来たと思ったんだけど……先は長そうだね」
マルタさんは肩をすくめて、店の奥へと帰っていった。
それから半年ほど、私は変わらずパン屋で働いている。変わったことと言えば、オスカーさんが週一くらいでパンを買いに来てくれるようになったくらいだろう。
そんなある日。
いつものようにやってきたオスカーさんは、今日はいつもとは違う言葉を口にした。
「すまないが、少し宿屋まで来て欲しい」
日にちを指定して呼び出される。
オスカーさんがマルタさんになにか耳打ちすると、彼女は快く休みをくれた。
でも、オスカーさんが私を宿屋に呼ぶなんてなんの用事だろう? 宿に戻ってきて欲しいわけじゃないって……言ってたよね? ニールが私を呼ぶとは思えないし。
もしかして、人手が必要になった?
良い話なのか、悪い話なのか。
少し聞いたけど、とにかく宿に来て欲しいの一点張りで教えてもらえなかった。
そして約束の日。
私が宿に足を運ぶと、休憩室の隣にある応接間に通された。来客があったときにしか使わないその部屋には、オスカーさんとニール、それに見慣れぬ女性が席に着いていた。
黒いロングヘアに紺色のドレスを纏う、十代前半くらいの少女。
氷の刃のような鋭さを持つ彼女は、私を見ると椅子から立ち上がった。
「貴女がエステルさんですね?」
「は、はい。そうですが……貴女は?」
「失礼しました。私はノクス。ヴィオラ公女殿下の侍女を務めさせていただいています」
「――っ」
思わず身体が強張った。
私に濡れ衣を着せたのが、ヴィオラ公女殿下の侍女だったから。
でも、違う。
ヴィオラ公女殿下の侍女は金髪の女性だった。
「私の知っている侍女は、ナタリア様という方だったんですが……」
「その者は前任者で、もういません」
ゾクリとした。
ただ、前任者の侍女がいないと言われただけなのに、言いようのない凄味を感じる。
たぶん、居なくなった理由は聞いちゃいけないことだ。
「それで、その……後任の侍女様が、私になんのご用でしょう?」
「まずは――謝罪を」
彼女はそう言って、深く頭を下げた。
「え、え!? あ、頭を上げてください!」
メイドと違い、侍女は貴族令嬢などが務める役職だ。そんな彼女が、平民の私に向かって頭を下げたことに慌てふためく。
彼女はたっぷり五秒ほど頭を下げ続けた後、ゆっくりと顔を上げた。
「貴女は以前、公女殿下を庇い、濡れ衣を着せられて解雇されましたね?」
「そ、それは……まあ、その、はい」
迷った末に、私は心の感じるままに頷いた。
「さきほども申しましたが、前任者の侍女はもういません。それは、公女殿下が力を取り戻し、自分を虐げていた者たちを排除なさったからです」
「あの公女殿下が、そのようなことを?」
私の脳裏に焼き付いているのは、まだ十歳にも満たない、あまりに幼い少女の姿。侍女の言葉に怯えていた彼女が、その侍女を排除したという説明がピンとこない。
もしかしたら、この人が手伝ったのかな?
私には出来なかったこと。
すごいなぁと感心していると、ノクス様が再び口を開いた。
「ヴィオラ公女殿下は覚えておいででしたよ。貴女が、夜の冷気に凍えそうなとき、こっそりと毛布を届けてくれたことを」
「……公女様が、あのときのことを?」
「はい。そして、貴女が解雇されるのを止められなかったことを後悔しておいででした。ですから、まずは貴女の名誉の回復と、賠償金を」
テーブルの上に、小さな布の袋が置かれる。
それから、手紙と、ボタンのようなものが置かれた。
「紹介状と、もう一つ。こちらは紋章入りの徽章です」
「徽章、ですか?」
「信頼できるメイドの証だと思ってください。それがあれば、大抵の職場で歓迎されるはずです」
そんな重要な品を、私に? 驚きながら、その手紙と徽章を手に取った。続けて布の袋を見ると、中に金貨が詰まっていた。
「こ、こんなに受け取れません!」
「さきほども言いましたが、ヴィオラ公女殿下は貴女のことを覚えておいででした。ですから、それらはお受け取りください」
「でも……」
と、オスカーさん助けを求めると、彼は受け取っておきなさいと頷いてた。それを見て、私は意を決して徽章と紹介状、それに金貨の詰まった布袋を受け取る。
それを待っていたのか、ノクスさんが口を開く。
「では、ヴィオラ公女殿下からの言葉を伝えます」
「は、はい」
背筋を正して、その言葉を待つ。
「貴女がいまに満足しているなら、この話は忘れてください。でも、もしもそうじゃないのなら、もう一度、私の下で働いてくれたら嬉しい。だそうです」
「公女殿下が、そのようなことを……」
もったいない言葉。
公族からそのような言葉を掛けられたメイドなんて、きっと数えられるほどしかいない。それに、公女様が私を覚えていてくれたことがなにより嬉しい。
私の選択は無駄じゃなかったんだって思えるから。
「私は、その話を――」
「ホントにそれでいいのかよ?」
私の言葉を遮ったのは、ずっと黙っていたニールだった。
「……どういう意味?」
「おまえはずっと、宿を盛り立てるために頑張ってたんじゃないのかよ?」
「それは……」
ニールの言うとおりだ。
公女殿下に召し出されてメイドになれば、次はきっと簡単には辞められない。だけど……と、迷っていると、オスカーさんが「いいかげんにしろ!」と声を荒らげた。
「あのとき、メイドを辞めさせられたエステルとの婚約を一方的に破棄して、公王家の不興を買ったエステルが宿屋で働いていたら迷惑だと言ったのはおまえだろう! それなのに、エステルの名誉が回復した途端に手の平返しか!」
「はあ? 俺は、宿屋が潰されるかもしれないって言っただけだ!」
「なにが違う!」
「全然違うだろ!?」
「――ふ、二人とも、ノクス様のまえなんだよ!?」
ノクス様は侍女、つまりは貴族令嬢のはずだ。そんな彼女の前で口げんかなんて恐れ多いと諭すと、さすがに二人も状況を思い出したのか、ノクス様に向かって頭を下げた。
「も、申し訳ありません」
「すみませんでした」
顔が真っ青になっている。
それを見たノクス様がクスリと笑う。
「ご心配なく。ここでの出来事を理由に罰したりはしません。それに、ヴィオラ公女殿下の願いは、恩人であるエステルさんの希望に沿うことですから」
ノクス様はそこで一度言葉を切ると、ニールへと視線を向けた。
「ニールさん。貴方はエステルさんの元婚約者ですね。彼女を引き留めるのは、もう一度婚約をしたいと思っている、ということでしょうか?」
「――違う! いや、違います」
ニールは言葉遣いを正し、それでも強く否定する。
それに、オスカーが眉を寄せる。
「おまえはよりを戻すつもりもなく、エステルの名誉だけは利用しようって言うのか? 俺はおまえをそんなふうに育てた覚えはねぇぞ!」
「……俺もねぇよ」
ニールは悪態を吐いて、それからまっすぐに私を見た。
「エステル、おまえの夢は、この宿屋を切り盛りしていくことだったはずだろ? なのに、なんでメイドに戻ろうとしてるんだ?」
「それは……」
私が戻りたいと言ったら、ニールが嫌がると思ったから。
そう口にしようとして、私は根本的な思い違いをしていることに気が付いた。
「ニールは、私が宿屋に戻っても嫌じゃないの?」
「嫌じゃねぇよ。そもそも、俺は宿屋を継ぐつもりがないから関係ねぇ」
「「――は!?」」
私とオスカーさんの声が被った。
「ニールおまえ、跡を継ぐつもりがないってどういうことだ!?」
「どうもこうも、俺は商人になりたいんだ」
「……聞いてないぞ?」
オスカーさんが愕然とした顔になる。
「親父が聞かなかったんだろ。なのにいきなり、エステルに向かって、俺に嫁いで、二人で宿を継いでくれ、なんて言いやがって。俺たちの気持ちも考えろってんだ」
……あれ?
「ねぇ、ニール。もしかして、あのとき、婚約を破棄するなんて言い出したのは……」
「いい機会だったからな」
「それなら、そう言ってくれれば、よかったのに」
「それは……そうだな。正直、あんなにこじれて、おまえが出て行くとは思ってなかったんだ。だから、その……悪かった。もう少し、言い方を考えるべきだった」
ホントだよ。私がどれだけ傷付いたと思ってるの? そんな思いと同時に、もういいよと言う気持ちも芽生える。どちらを口にするか迷っていると、ニールが一言付け加えた。
「だけど俺は、別の男に惚れてる女と結婚なんてしたくない」
「どういうこと? 私は別に……」
他に惚れてる相手なんていない。
そう口にするより早く、ニールが吐き捨てるように言った。
「……いいかげん素直になれよ。気付いてないのか、気付かないふりか知らないが、そろそろ一歩まえに進んでもいいんじゃねぇか?」
「だから、なんの話をしてるのよ?」
ニールは大きな溜め息を一つ、オスカーさんを指差した。
「親父は、俺の本当の親父じゃない」
「……え? えぇ!?」
「俺もおまえと同じで、拾われた身だ」
言われてニールとオスカーさんを見比べる。
私の視線に気付いたオスカーさんは、それを肯定するように小さく頷いた。
「……全然気付かなかった」
「なんでだよ、気付けよ。俺と親父の歳、近すぎだろ」
「むちゃくちゃ若く見えるなぁとは思ってた」
「……ったく」
ニールは席を立って私の横に来ると、オスカーさんを指差した。
「親父は未婚だ。そして、気立てがよくて、一緒に宿を切り盛りしていく嫁さんを募集中だ」
「ニール、おまえ、なにを勝手に」
「勝手なのは親父だろ。相談もなく俺たちの婚約を決めやがって。――いいか、よく聞け。エステルはな。親父のためなら、好きでもない相手と結婚しようとするような不器用な女なんだよ!」
「――っ」
オスカーさんが息を呑んだ。
というか、止めてよ恥ずかしい。
それだと、私がオスカーさんのことを、あ、愛してるみたい、じゃない。
心の中で思い浮かべた瞬間、鼓動が大きく跳ねた。
……え?
思えば、メイドになると決めたとき、背中を押してくれたのはオスカーさんだった。仕事に失敗して落ち込むたび、ゆっくり覚えていけばいいんだと励ましてくれたのも。
私はずっと、自分を拾ってくれた、父親のような人だから頼っているのだと思ってた。
だけど私……
胸の前できゅっと拳を握る。
「ニール、私、貴方のこと好きでもない相手、なんて思ってなかったよ」
「――はっ!?」
「お兄ちゃんみたいに思ってた」
「……っ。おまえは、そういうところが……っ。もういい、さっさと決めてこい。おまえはこうと決めたときの、行動力だけはあるんだからな!」
ニールに背中を押され、私はノクス様に向き直る。
「ノクス様。ヴィオラ公女殿下に伝言をお願いいただけますか?」
「ええ、もちろんです」
それを聞いて、一度だけ深呼吸をする。
……よし。
「あのときのこと、覚えてくださっていて嬉しかったです。直接お仕えできることはできませんが、このご恩は一生忘れません、と」
「分かりました。必ず伝えましょう」
ノクス様は「お幸せに」と言って席を立つ。オスカーさんが見送ろうとするけれど、ニールさんがその役目を買って、ノクス様と共に退出していった。
残された私は、オスカーさんに視線を向ける。
私が意を決して口を開く――寸前、オスカーさんが「待ってくれ」と遮った。
「先に言わせてくれ。実は、事前にノクス様から事情を聞いていてな。エステルがメイドに戻るつもりがなかったら、提案しようと思っていたことがある」
「提案、ですか?」
「ああ。もう一度宿に戻ってこないか? 望むなら養子にしてもいい、と」
「……養子」
望んでいた言葉のはずだった。
なのに、胸がチクリと痛んだ。
「だが、いまは違う」
「――えっ!?」
「俺と一緒に、宿を盛り立ててくれないか?」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
でも、じわりと、その言葉の意味が胸に広がっていく。
「私で、いいんですか?」
「エステルがいいんだ。ニールの婚約者だからじゃない。公女殿下に認められたからでもない。俺はずっと、エステルの頑張る姿を見てきたから」
その言葉に心が震える。
濡れ衣で解雇されたあの日。
私は世渡りが下手だから、誰にも認めてもらえないのだと思っていた。
だけど、公女様はあの日のことを覚えてくださっていた。
ニールも、私のことをちゃんと見てくれていた。
オスカーさんが、私のことをずっと見守ってくれていた。
「その話、喜んでお受けします」
「それは……養子の話か?」
「一緒に宿屋を盛り立てる方です。養子の方は、その……お断りします」
私が望んだ形じゃないからと笑う。
それに対して、オスカーさんは「そうか」と少しだけ嬉しそうに笑った。
あの日、私は多くを失ったと思った。でもそうじゃなかった。
私を見てくれる人はこんなにも、近くにいた。
その幸せを噛み締めながら、私はオスカーさんの服の袖をそっと掴んだ。
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